第59話 間違いではなかったそうです
翌日の昼過ぎ、宵日和の扉が開いた。
客足がちょうど途切れたところで、日和は仕込みをしながら顔を上げる。入ってきた青年を見て、すぐに手を止めた。
「ノアさん?」
「お久しぶりです、日和さん」
最後に会ったのは、まだ侯爵邸で暮らし始めたばかりの頃だ。少し疲れているように見えるものの、淡々とした雰囲気は変わっていない。
「昨日、オスカーさんから聞きました。私に会いに来てくれたんですよね」
「はい。昨夜は侯爵邸に泊めていただいたので、今日こちらへ」
ノアは店内を見回した。
「本当に店を始めたんですね」
「なんとか。座ってください」
日和がカウンター席を勧めると、ノアは素直に腰を下ろした。
「それで、召喚のことですよね?」
日和が向かいに立つと、ノアは頷く。
「はい。先に結論からお伝えすると、まだ原因は特定できていません」
「そうですか……」
少しだけ期待していた分、残念ではある。
「ただ、分かったこともあります」
ノアは持っていた鞄から何枚かの紙を取り出した。見慣れない文字と数字、それに複雑な図のようなものがびっしりと書かれている。
「召喚術式を何度も検証しましたが、計算そのものに間違いはありませんでした」
「間違ってないんですか?」
「はい。術式が探していた対象も、あなたではありません」
日和は紙を見る。当然ながら、何が書いてあるのかはほとんど分からない。
「じゃあ、やっぱり湊だったんですね」
「……はい。弟さんです」
ノアの返事が、ほんの少し遅れた。
日和は気づかず、もう一度紙へ目を落とす。
「でも、実際に来たのは私ですよね?」
「そこなんです」
ノアは紙の一部を指でなぞった。
「召喚は途中まで正常に進んでいます。術式は弟さんを対象として捉え、接続も成立していた。それなのに、最後の瞬間だけ接続先が変わっているんです」
「私に?」
「はい」
「そんなこと、あるんですか?」
「通常はありません。だから、これまで原因が分からなかった」
ノアは淡々と答えたものの、その目は紙ではなく日和を見ていた。
「以前、召喚される直前の記憶が曖昧だとおっしゃっていましたね」
「はい」
「今も戻っていませんか?」
日和は少し考えた。
この世界へ来てから、いろいろなことを思い出した。自分の名前も、家族のことも、料理のことも分かる。それなのに、あの日の最後だけは今も曖昧なままだ。
「戻ってないですね」
「本当に何も?」
そう聞かれて、日和は目を閉じた。
何もないわけではない。
ずっと頭の奥に残っているものがある。
「……寒かった気がします」
「寒かった?」
「風が冷たくて。たぶん、外にいました」
目を閉じたまま記憶を探る。
冷たい風。
暗い空。
そして、遠くに散らばるたくさんの灯り。
「暗くて……灯りが見えました」
「灯り?」
「たくさん。遠くに」
そこまで言って、日和は眉を寄せた。
何かがおかしい。
灯りは目の前ではなかった。
「……下の方にあった気がします」
ノアの表情が変わった。
「下?」
「はい。たぶん」
「高い場所にいたということですか?」
「分かりません」
思い出そうとすると、胸の奥がざわついた。あと少しで何かに手が届きそうなのに、その先だけが黒く塗りつぶされているように見えない。
「すみません。これ以上は……」
「いえ。無理に思い出さなくて大丈夫です」
ノアはすぐに止めた。
「ただ、これで1つ可能性が増えました」
「可能性?」
「術式に問題があったのではなく、召喚された瞬間のあなたに、何か通常とは違うことが起きていたのかもしれません」
日和は自分を指さす。
「私に?」
「はい。弟さんとの血縁が接続に影響した可能性は以前から考えていました。ただ、それだけなら最初からあなたが選ばれていてもおかしくない。途中まで弟さんにつながっていた術式が、最後の瞬間だけあなたへ移った理由が別にあるはずです」
日和には魔法のことは分からない。それでも、ノアが言おうとしていることはなんとなく理解できた。
召喚する側が間違えたのではない。
自分に、何かあった。
「……何してたんでしょうね、私」
思わず呟く。
答えは返ってこなかった。
「何か思い出したら教えてください。小さなことでも構いません」
「分かりました」
日和は頷いた。
冷たい風も、暗い空も、下に見えた灯りも、今のところ何につながるのか分からない。
「調べてくれて、ありがとうございます」
「いえ。まだ何も解決していませんから」
「それでもです。ずっと調べてくれてたんでしょう?」
ノアは一瞬黙り、やがて小さく頷いた。
「……はい」
日和は笑った。
「じゃあ、次に何か分かったらまた教えてください」
「もちろんです」
話が一区切りついたところで、日和はノアの顔を改めて見る。
よく見ると、少しどころではなく疲れている。目の下には薄く影があり、髪もいつも以上に適当だった。
「ところでノアさん」
「はい?」
「ちゃんと食べてます?」
ノアが黙った。
嫌な予感がする。
「今日、何か食べました?」
「……朝に」
「何を?」
「…………」
「ノアさん?」
ノアは少し考えてから答えた。
「昨日だったかもしれません」
日和はため息をついた。
「何か作ります」
「いえ、僕は調査の報告に来ただけで――」
「お腹が空いていると、ろくなことを考えませんよ」
「……そういうものですか?」
「そういうものです」
日和は前掛けを整え、厨房へ向かった。




