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第57話 名前で呼ぶだけなのに


「……頭いてえ」


しばらくして、カウンターから低いうめき声が聞こえた。


「起きました?」


日和が覗き込むと、ガルドがゆっくり顔を上げた。先ほどよりは目の焦点が合っている。


「水、飲みます?」


「……もらう」


差し出した水を一気に飲み干し、ガルドは大きく息を吐いた。


「俺、寝てたか」


「ぐっすり」


「……悪い」


「それだけじゃないですけどね」


「何かしたか?」


どうやら覚えていないらしい。


「私をミレイユと間違えました」


ガルドが固まった。


「……何した」


「肩を掴まれました」


「それだけか?」


「それだけです」


ガルドは深く息を吐くと、きちんと頭を下げた。


「悪かった」


「大丈夫です。寝ぼけてたみたいですし」


「いや、本当に悪い」


そう言って立ち上がったガルドの視線が、少し離れたところに立つエリアスへ向いた。


一瞬、眉を寄せる。


次の瞬間、その目が大きく見開かれた。


「……レーヴェン侯爵?」


「そうだ」


ガルドの背筋が伸びた。


「これは……大変失礼いたしました」


声まで変わっている。


日和は思わずガルドを見る。


「急に丁寧になりましたね」


「当たり前だろ」


ガルドが小声で返す。


「侯爵様って、そんなにすごいんですか?」


「お前な……」


呆れた顔をされた。


「この辺でレーヴェン侯爵を知らねえ奴なんて、ほとんどいねえぞ」


「そうなんですね」


「そうなんですね、じゃねえよ」


そこでガルドが、ふと首を傾げた。


「……待て。なんで日和が侯爵様と知り合いなんだ?」


「え?」


日和は少し困った。


自分が別の世界から召喚されたことは、人には話していない。


「……たまたま?」


「そんなことあるか?」


「いろいろあったんです」


「何があったら侯爵様と知り合うんだよ」


「本当にいろいろです」


ガルドは疑わしそうに日和を見る。


日和は笑って誤魔化した。


「まあ、いいじゃないですか」


「よくねえ気もするが……」


それでも、それ以上は聞いてこなかった。


ガルドは荷物を担ぎ、出口へ向かう。


「ガルドさん」


「あ?」


「今度はミレイユと来てくださいね」


ガルドの足が止まった。


「……なんであいつと」


「この前、ミレイユにも言ったんです。今度はその人と一緒に来てって」


「余計なこと言うな」


「嫌なんですか?」


「そうは言ってねえ」


やっぱり同じ答えだ。


日和は笑った。


「じゃあ、お待ちしてます」


ガルドはしばらく渋い顔をしていたが、やがて頭を掻いた。


「……気が向いたらな」


「はい」


「酒、置いとけよ」


「ほどほどにしてください」


「分かってる」


今日何度目か分からない返事を残し、ガルドは店を出ていった。


扉が閉まる。


静かになった店内で、日和は小さく息を吐いた。


今日は休みだったはずなのに、ずいぶん長い1日になった。


戸締まりを確認して灯りを落とし、店を出る。


「送る」


隣に立ったエリアスが言った。


「え?」


「家まで送る」


日和は瞬きをした。


「家も視察ですか?」


エリアスの足が止まった。


「……違う」


「違うんですか?」


「違う」


珍しく、はっきり否定された。


「では、どうして?」


少しの沈黙。


また何か、もっともらしい理由を言うのだろうと思った。


けれど。


「もう遅い」


「はい」


「この時間に1人で帰らせるのが心配だ」


日和は目を瞬いた。


「……心配?」


「ああ」


エリアスがもう一度言う。


「だから送る」


領主だからでも、視察だからでもない。


ただ、心配だから。


エリアスがそんなふうに理由を口にするのは珍しい。


「……ありがとうございます」


日和が笑うと、エリアスはわずかに視線を逸らした。


「行くぞ」


「はい」


2人で夜道を歩き出した。


昼間は人で賑わう通りも、今は静かだった。店先に残る灯りが、石畳に長い影を落としている。


「そういえば今日、ミレイユと出かけてたんです」


「さっきの男の知り合いか」


「はい。最近よくお店に来てくれるようになって。すごく話しやすいんですよ」


日和は今日の出来事を話した。


ミレイユに休みを取れと言われたこと。一緒に甘いものを食べに行ったこと。その帰りにガルドと会ったこと。


「ガルドさんとは前に商会で会ってたんです。家賃を払いに行った日に」


「そうか」


「すごく怖そうな人だと思ったんですけど、話してみたらいい人でした」


「……そうか」


「ミレイユとも昔からの知り合いだったみたいで」


ガルドがミレイユについて話していたことは言わない。


けれど、思い出すとやっぱり分かりやすい。


本人は昔の部下だからと言っていたけれど、あれだけ相手のことを気にしているのだ。


きっと、好きなのだと思う。


「それに、ルカが持ってきてくれた調味料もすごく使いやすくて。今日も料理に使いました」


エリアスの眉がわずかに動いた。


「フェルナーか」


「はい。ルカのおかげで作れるものが増えそうです」


「……そうか」


「今度、別の食材も見せてもらう約束もしてるんです」


「2人でか?」


「たぶん?」


エリアスが黙った。


「どうしました?」


「何でもない」


今度はエリアスがそう言った。


日和は気にせず話を続ける。


「ダリオさんもお客さんを紹介してくれるし、リリィも時々顔を出してくれるんです。オスカーさんも来てくれました」


知っている名前が次々と出てくる。


ミレイユ。


ガルド。


ルカ。


ダリオ。


リリィ。


オスカー。


店を始めてから出会った人たちのことを話す日和は、楽しそうだった。


ここへ来たばかりの頃とは違う。


知り合いが増え、店ができ、日和の暮らしが少しずつこの街に根を張っている。


それは、エリアスが望んでいたことでもある。


「それで、エリオさんが――」


エリアスの足が止まった。


日和は数歩進んでから気づき、振り返る。


「侯爵様?」


「……エリオは」


「はい?」


「名前で呼ぶんだな」


日和は首を傾げた。


「エリオさん、ですか?」


「ああ」


「名前がエリオさんなので」


「そういう意味ではない」


「?」


日和には分からない。


エリアスは黙った。


エリオも自分だ。


日和が「エリオさん」と呼んでいる相手も自分なのだから、気にすることではない。


それでも。


ミレイユ、ガルド、ルカ、ダリオ、リリィ、オスカー。


そして、エリオ。


日和の口からは当たり前のように名前が出てくる。


自分だけが、侯爵様だった。


「私のことも、名前で呼べ」


「……侯爵様を?」


「そうだ」


日和は少し考える。


「エリアス様?」


名前を呼ばれ、エリアスが一瞬黙った。


「……ああ」


「それでいいんですか?」


「ああ」


「急にどうしたんですか?」


「急ではない」


「ずっと侯爵様でしたけど」


「だからだ」


説明になっていない。


日和は首を傾げたものの、エリアスはそれ以上説明するつもりはないらしい。


「分かりました」


そう答えてから、もう一度呼んでみる。


「エリアス様」


「何だ」


すぐに返事が返ってきた。


「……いえ。呼んでみただけです」


「そうか」


呼び方が変わっただけなのに、なんだか少し不思議だった。


2人は再び夜道を歩き出した。


やがて、見慣れた家が見えてくる。


「ここまでで大丈夫です」


「ああ」


家の前で日和は振り返った。


「送ってくれて、ありがとうございました」


「気にするな」


「それじゃあ……おやすみなさい、エリアス様」


「……ああ。おやすみ、日和」


いつもより少し柔らかく聞こえた声に、胸が小さく跳ねた。


日和は家に入り、扉を閉める。


「……エリアス様」


もう一度、小さく名前を口にしてみた。


また、胸が跳ねる。


侯爵様と呼んでいたときは、こんなことなかったのに。


「……なんでだろう」


日和は胸元を押さえた。


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