第51話 はじめての家賃
宵日和を開いて、1か月が経った。
最初の1週間は客が来なくてどうなることかと思ったけれど、今では昼時にいくつか席が埋まる日も増えている。ダリオから聞いて来た客が別の客を連れてきたり、ふらりと入った人がまた顔を見せてくれたりと、少しずつ店らしくなってきた。
そして今日は、店を少し遅く開けることにしていた。
「……足りてる」
日和はテーブルの上に並べた硬貨を、もう一度数えた。
店の家賃と、自分が暮らしている部屋の家賃。それを払って、仕入れに必要なお金を残しても、ちゃんと足りる。
余裕があるわけではない。けれど、自分で料理を作って、自分で稼いだお金で払える。
そのことが、なんだか嬉しかった。
「よし」
硬貨を袋へしまい、日和は商会へ向かった。
店を借りるときにも世話になった商会の扉を開けると、中は朝から賑わっていた。荷物を抱えた商人や、受付で何かを相談している人、壁際には大きな荷袋も積まれている。
受付で名前を告げると、以前契約のときに会った職員が顔を上げた。
「宵日和の方ですね」
「はい。家賃を払いに来ました」
袋を差し出すと、職員が硬貨を一枚ずつ数えていく。
なぜか緊張する。
店を借りると決めたときは、本当に払っていけるのかと不安だった。あの頃の自分に、1か月目はちゃんと払えたと教えてあげたい。
「確かに。今月分、お預かりしました」
「ありがとうございます」
受け取りの書類を待っていると、少し離れたところから男たちの話し声が聞こえてきた。
「また西で出たらしいぞ」
「街道の方か?」
「ああ。荷馬車がやられたって話だ」
「この前は村の家畜だろ。最近多くないか?」
「討伐隊も出てるらしいが、追いついてないってよ」
日和は何となくそちらを見る。
西。
まだこの国の地理を完全に覚えたわけではないけれど、ここからはかなり離れていたはずだ。
「魔物……」
この世界に魔物がいることは知っている。ただ、この街で暮らしている限り、日和が実際に目にする機会はなかった。
遠い場所の話なのだろう。
そう思ったところで、受付の職員から書類を差し出された。
「こちらをどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
日和が受け取った、そのときだった。
背後で扉が開いた。
最初に目に入ったのは、大きな荷袋だった。
その次に、太い腕。
そして――頭の上にある獣の耳。
「……耳?」
思わず声に出してしまった。
入ってきた男は、日和より頭二つほど高かった。がっしりとした身体に使い込まれた革の防具をまとい、顔には古い傷が走っている。
何より目を引くのは、頭の上にある獣の耳だった。
男は日和の視線を気にする様子もなく受付へ向かうと、背負っていた大きな袋を床へ下ろした。
どん、と鈍い音が響く。
「依頼分だ」
「バルガスさん、お疲れさまです」
職員が慣れた様子で袋を開く。
中から出てきたものを見て、日和は思わず足を止めた。
大きな牙に、角。それから、分厚く硬そうな皮。
さっき聞いた話が頭に残っていたせいか、すぐに思い当たった。
「……魔物?」
男の耳がぴくりと動いた。
聞こえたらしい。
ゆっくりと振り返った男と目が合う。
近くで見ると、さらに大きい。
「珍しいか?」
低い声だった。
「すみません。魔物の素材を見るのが初めてで」
「初めて?」
男は少しだけ眉を上げ、袋の中から一本の角を持ち上げた。
「こいつは岩角鹿だ」
「鹿?」
「普通の鹿よりでかい。気性も荒い」
差し出された角を、日和は少し身を乗り出して見る。表面はごつごつとしていて、先端は鋭い。
「これ、何に使うんですか?」
「薬や道具だな。皮は防具にもなる」
「へえ……」
知らないことばかりだ。
料理に使える部分はあるのだろうか、と一瞬考えてから、さすがに初対面で聞くことではない気がしてやめた。
角を眺めていると、男が不意に口を開いた。
「怖くないのか」
「何がですか?」
「俺が」
日和は改めて男を見た。
大きな身体。顔の傷。獣の耳。
確かに迫力はある。
「最初はちょっとびっくりしました」
「ちょっとか」
「もっと怖い顔の人を知ってるので」
男が黙った。
受付の職員まで、なぜかこちらを見た。
「……そうか」
「はい」
日和の頭には、灰色の髪の侯爵が浮かんでいた。
初めて会ったときは、何を考えているのか分からなくて怖かった。今なら、ただ表情と説明が足りなかっただけだと分かるけれど。
男はしばらく日和を見ていたが、やがて喉の奥で低く笑った。
「変な女だな」
「よく言われます」
「そうだろうな」
そこは否定してほしかった。
「ガルド・バルガスだ」
突然名乗られ、日和は目を瞬いた。
「穂積日和です。日和でいいです」
「そうか。日和」
あっさり名前で呼ばれる。
「この辺の人間じゃないな」
「分かります?」
「見ねえ顔だ。それに、魔物も獣人も珍しそうに見てる」
図星だった。
「少し前に、この街に来たんです」
「何してる」
「料理屋をやってます」
ガルドが少し意外そうに日和を見る。
「料理屋?」
「はい。小さい店ですけど。宵日和っていいます」
「ヨイビヨリ」
聞き慣れない響きを確かめるように、ガルドが繰り返した。
「変わった名前だな」
「そうみたいですね。でも、気に入ってるんです」
「どの辺だ」
日和が店の場所を説明すると、ガルドは「ああ」と頷いた。
「ダリオの店の近くか」
「ダリオさん、知ってるんですか?」
「何度か食ったことがある」
思わぬところで知っている名前が出てきて、日和は少し嬉しくなった。
「じゃあ、近くに来ることがあったら寄ってください」
「何が食える?」
「その日によります」
「決まってねえのか」
「仕入れたものを見て決めることも多いので」
ガルドは少し考えるように腕を組んだ。
「酒はあるか」
「少しなら」
「なら覚えとく」
料理よりそっちなんだ。
「お待ちしてます」
「腹が減ったらな」
「お腹が空いてると、ろくなこと考えませんからね」
ガルドが怪訝そうな顔をした。
「……なんだそりゃ」
「私の持論です」
今度は、ガルドがはっきりと笑った。
「やっぱり変な女だな」
また言われた。
日和は商会を出ると、少し軽くなった財布を鞄にしまった。
初めて自分で払った家賃。
初めて見た魔物の素材。
初めて話した獣人。
異世界に来てしばらく経ったけれど、まだ知らないことはたくさんあるらしい。
ふと、商会で聞いた話を思い出す。
西で、魔物の被害が増えている。
ここからは遠い場所だ。今の日和にできることもない。
だから、その話は頭の隅へ追いやった。
今は店へ戻ろう。
今日は少し遅れての開店だ。
日和は宵日和へ向かって歩き出した。




