第50話 責任ではなかった【エリアスSide】
家に着くと、日和は自分の部屋の前で足を止めた。
「では、おやすみなさい」
「はい。おやすみなさい、エリオさん」
日和が扉を開けかけて、ふと思い出したように振り返る。
「あ、そうだ。今日ルカが言ってた調味料、手に入ったら何か作りますね」
「僕にですか?」
「食べに来てくれるんでしょう?」
「……ええ」
「じゃあ、うまく使えそうだったら。おやすみなさい」
日和はそう言って笑い、部屋へ入っていった。
「……おやすみなさい」
扉が閉まり、少しして鍵のかかる音がする。エリアスはしばらくその扉を見てから、隣の自室へ入った。
扉を閉め、指先に魔力を集めて変装を解く。栗色だった髪が元の灰色へ戻り、淡い緑の瞳も青みがかった灰色へと変わっていく。
鏡に映ったのは、見慣れた自分の顔だった。
「……何をしているんだ、俺は」
今日だけの話ではない。わざわざ部屋を借り、変装までして日和の隣にいる。
一人で暮らし始めたばかりの日和が問題なく生活できているか確認するため。店の治安も気になっていたし、何かあったとき、すぐに動ける場所にいた方がいい。
そう考えた。それだけだったはずだ。
エリアスは部屋の奥へ進み、床に敷かれた絨毯をめくる。その下には、屋敷とこの部屋を繋ぐ転移用の魔法陣が刻まれていた。
中央に立って魔力を流すと、淡い光が足元を走る。一瞬だけ視界が揺れ、次に目を開けたときには、見慣れた屋敷の一室に立っていた。
エリアスは上着を脱いで椅子へ置く。そのとき、自分の右手が目に入った。
さっき、この手で日和の手首を掴んだ。
フェルナーについていこうとした彼女を。
夜も遅かったから止めた。そう考えれば理由はつく。
だが、フェルナーは日和が信用している男だ。行き先もすぐ近くだと言っていたし、何より日和自身が行きたがっていた。危険だと判断する理由など、ほとんどなかった。
それなのに、日和がフェルナーについていこうとした瞬間、考えるより先に手が伸びた。
行かせたくなかった。
ただ、それだけだった。
「……随分、子供じみているな」
自分でも呆れる。
思えば、フェルナーのことは以前から妙に気になっていた。日和の店へ出入りしていることも、日和があの男を「ルカ」と呼ぶことも、フェルナーが当然のように「日和」と呼ぶことも。
今夜、実際に二人が話しているところを見て、ようやく分かった。
面白くない。
エリアスは深く息を吐き、帰り道で日和が話していたことを思い出す。
以前、お世話になった人がいる。
最初は怖い人だと思っていた。顔が怖くて、あまり喋らなくて、説明も足りない。何を考えているのか分からない人。
本人を目の前にしているとは知らず、よくあれだけ言えたものだ。
それなのに。
――でも、本当はいい人なんです。
その一言だけは、妙にはっきりと残っている。
――元気にしてるかな。
――また料理を食べてもらいたいんです。
本人だと知らないからこそ、聞けた言葉だった。そして、それを聞いたとき、嬉しかった。
フェルナーへの苛立ちを認めるより、そのことを認める方がずっと難しい。
エリアスは椅子に腰を下ろした。
日和が無事に暮らしているか、店がうまくいっているか、困っていないか、ちゃんと食べているか。誰と話し、誰と笑い、誰と帰るのか。
気づけば、そんなことまで気にしている。
これまでは、すべて責任だと思っていた。異世界から勝手に連れてこられた人間だから、自分が引き受けたから、自分の領地で暮らしているから。
だから気にかけているのだと。
けれど、領民一人のために隣の部屋まで借りたりはしない。変装して会いに行ったりもしないし、他の男についていこうとしただけで、手首を掴んで止めたりもしない。
「……責任ではないな」
口にすると、妙にすんなりと腑に落ちた。
ずっと理由をつけていただけだったのかもしれない。会いに行く理由も、気にかける理由も、守ろうとする理由も。
日和に惹かれている。
思っていたよりも、ずっと。
エリアスは背もたれに身体を預けた。
気づいたところで、どうすればいいのかは分からない。そもそも日和は、エリオをただの隣人だと思っている。
そしてエリアスのことは、怖い顔で、口数が少なく、説明が足りなくて、何を考えているのか分からない人。
「……」
改めて並べると、ひどい。
だが、そのあとに続いた言葉も覚えている。
本当はいい人。
また料理を食べてもらいたい人。
少なくとも、嫌われてはいないらしい。それだけで安心している自分がいる。
「……面倒なことになった」
誰もいない部屋で呟く。
けれど、今日最後に日和が言った言葉も思い出した。
――調味料、手に入ったら何か作りますね。
エリアスはしばらく黙ったあと、小さく息を吐いた。
どうやら次にあの店へ行く理由だけは、もうできているらしい。




