第39話 お隣さんが引っ越してきました
店を閉めた頃には、すっかり夜になっていた。
日和は戸締まりを確認し、今日受け取った硬貨を小さな袋にしまった。
宵日和で初めて、自分の料理で稼いだお金。
半分くらいは迷惑料らしいけれど、それでも売上は売上だ。
「……よし」
少しだけ足取りが軽くなる。
店から家までは歩いてすぐだ。
夜のアルノルトは、昼間よりずっと静かだった。ところどころに灯された明かりを頼りに歩き、日和は自分の住む建物へ戻った。
二階へ上がったところで、足を止める。
隣の部屋の前に、見覚えのない木箱がいくつか置かれていた。
日和が越してきたとき、隣は空き部屋だったはずだ。
「……誰か越してきたのかな」
まあ、隣人がいること自体は珍しくない。
日和が自分の部屋へ向かおうとした、そのときだった。
隣の扉が開いた。
中から、背の高い男が出てくる。
栗色の髪に、淡い緑色の目。年齢は30歳前後だろうか。柔らかな顔立ちで、服装も街でよく見かけるようなものだった。
男は日和を見る。
一瞬、驚いたように目を見開いた。
そして、なぜかそのまま黙った。
「……こんばんは」
先に声をかけたのは日和だった。
男は少し遅れて、
「こんばんは」
と返した。
「今日、越してきたんですか?」
「ええ。先ほど」
「やっぱり。私が来たときは空いてたので」
日和は自分の部屋を指した。
「私、隣の日和です。穂積日和」
「日和さん」
男がその名前を繰り返す。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
男は軽く頭を下げた。
そこで日和は気づいた。
「あの、お名前は?」
「私は……」
ほんの少しだけ間があった。
「エリオです」
「エリオさん」
「はい」
「よろしくお願いします」
日和が笑うと、エリオも柔らかく笑った。
感じのいい人だ。
日和は少し安心した。
廊下には、まだ木箱が残っている。
「引っ越し、大変ですね」
「だいたい終わりました」
「それ、重そうですけど大丈夫ですか?」
「ええ。これくらいなら」
エリオは木箱を持ち上げた。
見た目以上に重そうなのに、ずいぶん簡単に持ち上げる。
「力持ちなんですね」
「……それなりに」
少し困ったように笑った。
日和は自分の部屋の鍵を取り出す。
「じゃあ、おやすみなさい」
「はい。おやすみなさい」
日和が扉を開ける。
「あ」
何となく思い出して、振り返った。
「私、近くで料理屋をやってるんです」
エリオがわずかに目を瞬いた。
「そうなんですか」
「宵日和っていう、小さい店です。もしよかったら来てください」
一瞬。
ほんの一瞬だけ、エリオの表情が止まったように見えた。
「……宵日和」
「はい」
「いい名前ですね」
「ありがとうございます」
日和は笑った。
「まだ全然お客さん来ないんですけどね」
「それは……」
エリオは何か言いかけて、やめた。
「?」
「いえ。機会があれば、ぜひ」
「お待ちしてます」
今度こそ、日和は自分の部屋へ入った。
扉を閉めて、息を吐く。
「いい人そうでよかった」
隣人関係で揉めるのは面倒だ。
それに、店のお客さんが一人増えるかもしれない。
今日は初めて料理が売れて、新しい隣人もできた。
悪くない一日だった。
日和はそれ以上考えず、部屋の奥へ向かった。
廊下に一人残された男は、閉じた扉を見つめていた。
しばらくして、木箱を抱え直す。
声をかけるつもりはなかった。
ただ、隣の部屋に入るところを見届けるだけのつもりだった。
それなのに。
「……エリオ、か」
自分で口にしてから、男はわずかに眉を寄せた。
もう少し、考えておくべきだったかもしれない。




