第38話 1皿目 水炊き鍋
「そういえば、ちゃんとお名前を聞いてませんでした」
日和が器を並べながら言うと、リリィの父親が少し驚いた顔をした。
「……ダリオだ。ダリオ・アーレン」
「ダリオさんですね。改めて、穂積日和です」
「それはリリィから聞いている」
「私だけ知らなかったんですね」
「そうみたいですね」
リリィが笑う。
少しだけ、食卓の空気が軽くなった。
「じゃあ、食べましょうか」
日和が鍋の蓋を開けると、白い湯気がふわりと立ち上った。澄んだ汁の中には、川魚のつみれと白い根菜、茸。最後に葉野菜を加えると、魚と野菜の香りが湯気と一緒に広がった。
「これは?」
「水炊き……みたいなものです。私のいたところの料理を、ここの材料で作ってみました」
日和は二人の前に器と、酸味のある果実に酢と塩を合わせたたれを置いた。
「一つの鍋から、好きなものを取って食べるんです」
日和がまず、つみれを一つ取る。割れば中から湯気が立ち、柔らかな魚の身には出汁が染みている。酸味のあるたれにつけると、さっぱりとした味が魚の旨みを引き立てた。
「うん。おいしい」
「作った本人が言うんですか?」
「確認は大事だよ」
リリィもつみれを口に入れ、目を丸くする。
「……おいしい。ふわふわしてます」
ダリオも一つ口へ運んだ。
「魚を細かく叩いて、卵を混ぜたのか?」
「はい。塩と香草も少し」
「……うまいな」
料理人にそう言ってもらえると、少し嬉しい。
三人で鍋を囲む。
出汁を吸った根菜は、口に入れるとほろりと崩れる。茸は噛むほど香りが広がり、葉野菜には少しだけ歯ごたえを残した。
リリィが鍋へ手を伸ばす。
「それはまだ煮えてないぞ」
ダリオが言った。
「分かってる」
「なら、なぜ取る」
「もう大丈夫だと思ったの」
「まだだ」
「じゃあ、お父さん取ってよ」
ダリオは黙って、よく煮えたつみれをリリィの器へ入れた。
「ほら」
「……ありがと」
日和は何も言わず、根菜を口へ運んだ。
さっきまであれだけ怒鳴り合っていたのに、こういうことは自然にするらしい。
しばらくして、リリィが口を開いた。
「……お父さん。昼に言ったことなんだけど」
ダリオの手が止まる。
「お父さんの料理なんて誰も食べたくないって言ったの。あれ、嘘だから」
「……そうか」
「私、お父さんの料理好きだよ。好きだから、もっとお客さんに来てほしかったの」
ダリオはしばらく黙っていた。
「俺も悪かった。お前が店のことを考えているのは分かっていた。ただ、今の味を好きで来てくれる客もいる。変えるのが怖くないわけじゃない」
「……そっか」
「だから、お前の話をちゃんと聞かなかった」
「私も、ごめん。言いすぎた」
「それは本当にな」
「そこは普通、いいんだって言うところでしょ!」
「よくないものはよくない」
「お父さん!」
日和は思わず笑った。
仲直りしたからといって、言い合いをしなくなるわけではないらしい。
「じゃあ、今度から一緒に考えよう」
「……そうだな」
「私の話もちゃんと聞いてね」
「ああ」
今度こそ、二人の話はまとまったようだった。
やがて鍋はすっかり空になった。
帰り支度を始めたダリオが、テーブルの上に硬貨を置く。
「これを」
「え?」
「飯代だ」
日和は硬貨を手に取って、目を瞬いた。
まだこの世界の金額には慣れていない。それでも、二人分にしては多いことくらいは分かる。
「……多くないですか?」
「取っておけ」
「いや、多いですよ」
余分な硬貨を返そうとしたが、ダリオは受け取らなかった。
「残りは迷惑料だ」
「迷惑料?」
「うちの娘が世話になった」
「そこまで迷惑はかけられてないですけど」
「これからかける分も入れておけ」
「お父さん!」
リリィが声を上げた。
「どういう意味!?」
「そのままの意味だ」
「私、そんなに迷惑かけないから!」
「今日だけで十分かけてるだろう」
「それは……」
リリィが言葉に詰まる。
日和は思わず笑ってしまった。
「じゃあ、ありがたくいただきます」
「ああ」
ダリオが頷く。
「ごちそうさまでした、日和さん」
「ごちそうさま。うまかった」
「ありがとうございました」
二人が並んで店を出ていく。
窓の向こうで、また何か言い合っている。
でも今度は、二人とも少し笑っていた。
日和は手の中の硬貨を見る。
料理を作って、食べてもらって、その対価を受け取った。
宵日和で初めて、自分の料理で稼いだお金だ。
その半分くらいは、迷惑料かもしれないけれど。
「……まあ、いっか」
日和は硬貨を大切にしまった。




