第37話 一度、帰ってください
「リリィ」
店に入ってきた父親は、低い声で娘の名前を呼んだ。
「帰るぞ」
「嫌」
「いい加減にしろ」
「お父さんこそ!」
リリィが椅子から立ち上がった。
「私だって店のこと考えて言ってるのに、全然聞いてくれないじゃない!」
「聞いている! だからといって、好き勝手に変えていいわけじゃない!」
「好き勝手じゃない!」
「お前はまだ――」
「はい、そこまで」
日和は二人の間に入った。
二人が同時にこちらを見る。
「一回、やめましょう」
「だが――」
「今話しても、たぶん同じこと言い合うだけですよ」
父親が口を閉じた。
リリィも不満そうな顔をしているが、反論はしない。
似ている。
やっぱり親子だ。
「お父さんは、一度帰ってください」
「……俺が?」
「はい」
「日和さん!」
「リリィちゃんはここにいていいよ」
今度は父親が不満そうな顔をした。
「このまま一緒に帰ったら、道でも喧嘩するでしょう?」
「それは……」
否定しない。
「なので、夜にもう一度来てください」
「夜?」
「晩ごはん、一緒に食べましょう」
父親が怪訝そうに眉を寄せた。
「……飯?」
「はい。立ったまま怒鳴り合うより、座って食べながら話した方がいいと思うので」
父親はしばらく黙っていた。
やがてリリィを見る。
「……分かった」
「お父さん」
「夜に来る」
それだけ言って、店を出ていった。
リリィは椅子に座り直すと、頬を膨らませた。
「……頑固者」
「どっちが?」
「お父さんです」
「そっか」
「絶対そう思ってないですよね?」
日和は答えず、食べ終わった器を片づけ始めた。
「日和さんは知らないからそんなこと言えるんです。昔からずっとああなんですよ。私のこと子ども扱いして」
「17歳なら、親から見たらまだ子どもなんじゃない?」
「日和さんまで!」
「ごめんごめん」
口では謝りながら、日和は少し笑った。
あれだけ怒っていたのに、父親が来た途端さらに怒る。
本当に嫌いなら、たぶんあんな怒り方はしない。
日和は厨房に入り、大きめの鍋を取り出した。
「……何するんですか?」
「夜ごはんの準備」
「本当に一緒に食べるんですか?」
「そのために呼んだんだけど」
「……帰ってこなかったら?」
「そのときは二人で食べよう」
日和は市場で買った白身の川魚を取り出した。
身を丁寧に外し、残った骨を軽く炙る。それを水を張った鍋に入れ、弱い火にかけた。
しばらくすると、湯気とともに淡い魚の香りが立ち始める。
日和は浮いてくるものを丁寧にすくった。
外した魚の身は包丁で細かく叩き、塩と卵を少し加え、粘りが出るまで混ぜていく。
「それ、魚ですよね?」
いつの間にか、リリィが厨房の近くまで来ていた。
「そうだよ」
「何になるんですか?」
「つみれ」
「ツミレ?」
「魚を丸めたもの」
「……丸める必要あります?」
「あるの」
「なんで?」
「おいしいから」
匙で丸く整え、一つずつ鍋へ落とす。
沈んだつみれが、しばらくするとふわりと浮かんできた。
そこへ厚めに切った白い根菜と、茸を入れる。葉野菜は火が通りやすいので、食べる直前に入れることにした。
ことことと、鍋が静かな音を立てる。
魚の出汁に野菜の甘い香りが重なり、店の中へゆっくり広がっていった。
「……いい匂い」
さっきまで拗ねていたリリィが、鼻を動かす。
「お腹空いた?」
「さっき食べたばっかりです」
「じゃあ、いらない?」
「食べます」
即答だった。
日和は笑って鍋の蓋を閉じた。
「これはね、みんなで一つの鍋を囲んで食べる料理なの」
「一つの鍋を?」
「うん。好きなものを自分で取って食べるの」
リリィが不思議そうに鍋を見る。
「変わった料理ですね」
「そうかな」
元の世界では、何でもない食卓だった。
一つの鍋を囲んで、食べたいものを取る。
煮えているだの、まだ早いだの。
そんなことを言いながら食べる料理。
今夜の二人には、それくらいがちょうどいい気がした。
*
日が落ちる頃、店の扉が開いた。
「……邪魔する」
約束通り、リリィの父親が立っていた。
リリィが振り返り、父親も娘を見る。
また、二人とも黙った。
日和は小さく息を吐いて、温め直した鍋を持ち上げた。
「じゃあ」
湯気の立つ鍋を、二人の間に置く。
「今度は座って話しましょうか」




