第29話 今日は普通に見えます
翌日。
日和は朝から店へ向かっていた。
昨日、エリアスが視察に来ると言っていたが、時間までは決めていない。
店に着いたら、まず昨日届いた食器を片づけて、それから仕入れた食材を確認する。やることはいくらでもあった。
いつもの道を歩きながら、今日の予定を頭の中で並べる。
市場を抜け、店のある通りへ入ったところで、向こうからオスカーが歩いてくるのが見えた。
その隣には、見知らぬ男がいる。
背が高い。
年齢は30歳前後だろうか。
茶色い髪に、同じく茶色の瞳。整った顔立ちではあるが、特に目立つところはない。
オスカーの知り合いだろうか。
「オスカーさん、おはようございます」
「おはようございます、日和様」
軽く頭を下げ、そのまま横を通り過ぎる。
「おい」
後ろから声がした。
日和は足を止めなかった。
自分のことではないだろう。
「日和」
腕を掴まれた。
「えっ」
驚いて振り返る。
先ほどの男が、日和の腕を掴んでいた。
反射的に一歩下がる。
「ちょ、何ですか」
「私だ」
「誰ですか」
「……」
男が黙った。
隣でオスカーが口元に手を当てている。
なんとなく嫌な予感がした。
日和はもう一度、目の前の男を見る。
知らない顔だ。
だが、背丈と体格には見覚えがある。
それから、先ほどの低い声。
いつもより少し印象が違う気はするが――。
「……侯爵様?」
「ああ」
「えっ」
日和はまじまじと男の顔を見た。
「誰ですか?」
「今分かっただろう」
「いや、分かりましたけど」
分かったのに、分からない。
いつものエリアスは、灰色の髪に青みがかった灰色の瞳をしている。
整った顔立ちではあるが目元が鋭く、黙っているだけで怒っているように見える。
初めて会ったときなど、助けてもらっているのに怖い人に拾われたと思ったくらいだ。
ところが、今目の前にいる男は違う。
茶色い髪に茶色い瞳。
目元も柔らかく、顔立ちそのものも少し違って見える。
何より、怖くない。
「……侯爵様じゃないみたい」
「変装魔法だ」
「ああ、魔法」
そういうものもあるらしい。
この世界に来て1か月半。
多少のことでは驚かなくなってきた自分がいる。
「でも、なんで変装してるんですか?」
「オスカーに言われた」
エリアスが隣を見る。
オスカーは涼しい顔をしていた。
「旦那様が普段のお姿で日和様のお店へ出入りされますと、侯爵家と深い関わりのある店だと思われる可能性がございますので」
「ああ……」
それは困る。
日和は納得した。
自分で店をやりたいと言っておきながら、開店前から侯爵本人が出入りしていれば、何か特別な店だと思われても仕方がない。
「それは変装した方がいいですね」
「……君までそう言うのか」
「だって、侯爵様目立ちますし」
「服は普通だ」
「顔が」
エリアスが黙った。
オスカーも黙った。
日和は首を傾げる。
「何です?」
「いえ」
オスカーが穏やかに答えた。
エリアスは何も言わない。
「でも、すごいですね。全然分かりませんでした」
日和は改めてエリアスを見る。
髪と瞳の色だけではない。
顔立ちも少し変わっているから、知らずに街ですれ違っても絶対に気づかないだろう。
「前にも使ったことあるんですか?」
「ああ。必要なときにはな」
「便利ですね」
「長時間使うものではないがな」
どうやら、エリアスにとっては珍しいものでもないらしい。
日和はもう一度その顔を見る。
「……こっちの方が話しかけやすそうですね」
「どういう意味だ」
「そのままの意味です」
「日和」
「冗談です」
半分くらいは。
「ところで」
日和は自分の腕を見る。
まだ掴まれている。
「いつまで掴んでるんですか?」
エリアスも視線を落とした。
「……すまない」
すぐに手が離れる。
「普通に呼んでくださいよ」
「呼んだ」
「聞こえてませんでした」
「日和とも呼んだ」
「そのときにはもう掴まれてました」
「そうだったか?」
「そうです」
まったく。
知らない男に突然腕を掴まれたこちらの身にもなってほしい。
「それで、視察でしたよね」
「ああ」
「店だけですからね」
「分かっている」
「家は見せませんよ」
「……分かっている」
一瞬の間が気になったが、聞かなかったことにした。
「じゃあ、行きましょうか」
日和は歩き出す。
エリアスとオスカーも後に続いた。
ほどなくして、見慣れた小さな店が見えてくる。
まだ看板もない。
外から見れば、これから何の店になるのかも分からないだろう。
日和は店の前で足を止めた。
「ここです」
振り返る。
見慣れない顔をしたエリアスが、店を見上げていた。




