第28話 侯爵様が視察に来るそうです
店を借りてから、半月が経った。
日和はほとんど毎日のように店へ通っていた。
掃除はようやく終わり、残されていた鍋や食器も一通り使える状態になった。商業組合での手続きも進み、仕入れ先も少しずつ決まってきている。
最初は扱いにくかった竈にも、だいぶ慣れた。
文字の勉強も続けている。相変わらず読むのは遅いが、簡単な買い物や数字の確認くらいなら、一人でもなんとかできるようになった。
そして、もう一つ。
住む場所も決まった。
店から歩いて数分。小さな建物の2階にある、一人で暮らすには十分な部屋だ。
広くはないが、日当たりも悪くない。周囲の治安についてもオスカーに確認してもらった。
このままいけば、予定通りあと半月ほどで侯爵邸を出られそうだった。
その日の夕方。
屋敷へ戻った日和は、廊下でエリアスと出くわした。
「おかえり」
「あ、ただいま戻りました」
すれ違うのかと思ったが、エリアスは足を止めた。
「住む場所が決まったそうだな」
日和も立ち止まる。
「……早いですね」
「何がだ」
「情報が」
今日決まったばかりである。
「オスカーから聞いた」
「なるほど」
やっぱりオスカーだった。
別に隠すつもりはなかったので構わない。
「店から歩いてすぐなんです。部屋も見てきました」
「そうか」
エリアスはそれだけ言うと、なぜか黙った。
日和も次の言葉を待つ。
「……?」
「明日、見に行く」
「何をですか?」
「店と住居だ」
「なんで?」
思わず聞き返した。
「確認する」
「何を?」
「安全かどうかだ」
「お店はもう半月通ってますけど」
「まだ私は見ていない」
「侯爵様が見る必要あります?」
「ある」
即答だった。
なぜだ。
「住むところも、オスカーさんに相談しましたよ」
「それは聞いている」
「周りも危なくないって」
「それも聞いた」
「じゃあ大丈夫じゃないですか」
「私が確認する」
日和はエリアスを見つめた。
どうやら、この人の中では自分で見ることが重要らしい。
「……侯爵様、暇なんですか?」
「暇に見えるか?」
「見えません」
むしろ、いつ見ても仕事をしている。
「じゃあ、なんでわざわざ」
「必要だからだ」
またそれである。
日和にはいまいち分からないが、自分を北部へ連れてきた以上、エリアスなりに責任があるのだろう。
真面目な人だ。
少し真面目すぎる気もする。
「店はいいです」
「何?」
「お店なら見に来てもらって大丈夫です。まだ開店前ですけど」
「住居も見る」
「嫌です」
「なぜだ」
「これから私が住む部屋だからです」
「だから確認する」
「だから嫌なんです」
日和は眉を寄せた。
このままでは話が噛み合わない。
「私、自分で生活してみたいって言いましたよね」
「ああ」
「店も自分で決めました。住むところも、自分で見て決めました」
「だが、君はまだこの国に来て1か月半だ」
「だからです」
知らないことは、まだたくさんある。
この国の常識も、文字も、暮らし方も、完全に身についたわけではない。
だからこそ、自分でやってみたい。
「分からないことがあったら聞きます。でも、全部確認してもらってからじゃないと何もできないなら、いつまで経っても一人で暮らせないです」
エリアスが黙った。
日和はふと思い出す。
「それに」
「何だ」
「失敗するかどうかは、やる前には分からないって言ったの、侯爵様ですよ」
エリアスの眉間に皺が寄った。
「……そうだったな」
「なので、自分でやってみます」
しばらく沈黙が落ちる。
エリアスはどう見ても納得していない。
領内で何かあれば、自分の責任になるからだろうか。
日和一人の住居にまで気を配らなければならないとは、領主というのも大変な仕事だ。
少し考えて、日和は折れることにした。
「……店だけです」
「何?」
「店だけなら、見に来てもらっていいです」
「住居は」
「駄目です」
「外からなら」
「駄目です」
「周辺だけでも確認を――」
「侯爵様」
エリアスが黙った。
「店だけ」
念を押す。
しばらくして、エリアスが小さく息を吐いた。
「……分かった」
「ほんとに?」
「ああ」
「もう少し揉めるかと思ってました」
「君は私を何だと思っている」
日和は少し考えた。
「話が通じにくい人」
「……そうか」
少しだけ声が低くなった。
気のせいだろう。
「じゃあ、明日は店だけということで」
「ああ」
「約束ですよ」
「分かった」
これで話は終わった。
日和が自室へ戻ろうとすると、後ろから声が飛んできた。
「日和」
「はい?」
振り返る。
「何かあれば、すぐに言え」
「何かって?」
「何でもだ」
ずいぶん範囲が広い。
「分かりました」
とりあえず頷いておく。
エリアスはそれ以上何も言わなかった。
日和も再び歩き出す。
明日は、エリアスが店へ来る。
考えてみれば、オスカー以外にあの店をきちんと見せるのは初めてだった。
侯爵ともなれば、自分の領地に新しくできる店まで確認しなければならないらしい。
「領主って大変だなあ」




