第26話 ただの責任だ【エリアスSide】
初めて見たとき、妙に落ち着いた女だと思った。
突然、見知らぬ世界へ召喚されたというのに、泣き叫びもしなければ、取り乱しもしない。
自分ではなく、弟を呼ぶはずだったと聞かされても。勇者の力がないと分かっても。元の世界へ戻す方法がないと告げられても。
日和は困ったような顔をするだけだった。
王宮から出ていけと告げられたときでさえ、怒鳴りはしなかった。
この国の文字も読めない。金の価値も分からない。仕事の探し方も知らない。
そんな自分を放り出すのが、本当に責任を果たしたことになるのか。
静かな声で、そう問い返した。
もっともな話だった。
だから、エリアスは口を挟んだ。
勝手に連れてきておいて、役に立たないから捨てるのか、と。
あのときは、それだけだった。
日和だから助けたわけではない。誰であっても同じことをした。
召喚した側が責任を取るべきだと思った。それだけだ。
それから、およそ3週間。
日和は文字を覚え、市場へ行き、厨房に立ち、仕事を探し始めた。
そして今日、店を借りた。
その報告だけなら、何の問題もなかった。
――あと1か月で、この屋敷を出ようと思います。
問題は、その後だ。
日和が執務室を出てから、エリアスは手元の書類に目を戻した。
一行読む。
次へ進む。
そこで、何も頭に入っていないことに気づいた。
「……1か月か」
本人が望んでいるのなら、止める理由はない。
店を持ち、自分で稼ぎ、自分で暮らす。
むしろ、この世界で生きていくためには必要なことだ。
分かっている。
それなのに、妙に気になった。
扉が叩かれた。
「入れ」
「失礼いたします」
入ってきたのはオスカーだった。
「日和のことか」
「はい。本日、無事に店の契約を終えられました」
「聞いた」
「ずいぶんお気に召したご様子でしたよ」
「そうか」
エリアスは書類へ視線を戻す。
「旦那様から商会へお話しいただいていたおかげで、手続きも滞りなく進みました」
「私は身元を保証しただけだ」
日和は、この世界では身元を証明するものを何も持っていない。
そのままでは店を借りることすら難しい。だから、レーヴェン家で身元を保証すると商会へ伝えた。
「店を選んだのも、契約したのも日和だ。賃料も本人が払う」
「承知しております」
「ならいい」
自分でやりたいという日和の邪魔をするつもりはない。
必要なところだけ整えた。
それだけだ。
「そういえば」
オスカーが言った。
「本日は店の厨房も使われました」
「ああ」
「私もご馳走になりました」
エリアスの視線が書類から上がる。
「何を食べた」
「川魚の葉包み焼きと、卵のスープを」
「……そうか」
「少々疲れているように見えたらしく、私のために考えてくださったそうです」
エリアスは黙った。
「大変おいしゅうございましたよ」
「聞いていない」
「左様でございますか」
オスカーの口元が僅かに緩んでいる。
「何だ」
「いえ、何も」
気に障る。
「日和様は、旦那様にも作るとおっしゃっていましたよ」
「本人から聞いた」
「何を作っていただくのです?」
「知らん。何でもいいと言ったら禁止された」
今度こそ、オスカーが笑った。
「何がおかしい」
「日和様らしいと思いまして」
エリアスは眉を寄せる。
確かに、あの女なら言いそうなことではある。
以前、食事など空腹を満たせればいいと言ったときも、「人生、損してますね」と呆れられた。
「旦那様」
「何だ」
「日和様がお屋敷を出られれば、少し寂しくなりますね」
「なぜだ」
「日和様が来られてから、ずいぶん賑やかになりましたから」
エリアスは少し考えた。
「元に戻るだけだろう」
日和が来る前、この屋敷は静かだった。
それが普通だった。
「左様でございますね」
オスカーはそれ以上何も言わず、一礼して部屋を出ていった。
再び静かになった執務室で、エリアスは仕事に戻る。
そのとき、廊下の向こうから声が聞こえた。
「その布、明日お店に持っていってもいいですか?」
日和だ。
使用人が何かを答え、楽しそうな声が遠ざかっていく。
エリアスは扉へ目を向けた。
最近、この屋敷ではよく日和の声を聞く。
厨房から料理の匂いがすることも増えた。
使用人たちと話している姿も、文字の練習をしている姿も、いつの間にか見慣れていた。
それが、あと1か月でなくなる。
別に問題はない。
元に戻るだけだ。
エリアスは書類へ視線を戻した。
一行読む。
また同じ一行を読む。
「……静かになるな」
誰に聞かせるでもなく呟いてから、エリアスは眉間に皺を寄せた。
日和を屋敷へ連れてきたのは、ただの責任だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
――そのはずだった。




