第25話 あと1か月だけお世話になります
屋敷へ戻ったのは、夕方だった。
店の掃除をして、厨房を試して、オスカーに料理を食べてもらった。思っていた以上に一日が早かった。
自室へ戻る前に、日和はオスカーを振り返った。
「侯爵様、まだ仕事してます?」
「おそらく執務室にいらっしゃるかと」
「ちょっと話してきます」
オスカーが一瞬だけ黙った。
「……例のお話を?」
「はい」
「左様でございますか」
「その顔やめてもらえます?」
「どのような顔でしょう」
「何か起きそうだなって顔です」
「そのような顔をした覚えはございませんが」
いつもの穏やかな笑顔で言われた。
絶対に分かっている。
日和はオスカーと別れ、エリアスの執務室へ向かった。
扉を叩くと、中から低い声が返ってくる。
「入れ」
扉を開けると、エリアスは机に向かっていた。
書類がいくつも積まれている。相変わらず忙しそうだ。
「今、大丈夫ですか?」
「何だ」
大丈夫なのか駄目なのか分からない。
「駄目なら後にしますけど」
エリアスが顔を上げた。
「大丈夫だ」
最初からそう言ってほしい。
日和は執務机の前まで歩いた。
「今日、商会に行ってきました」
「そうか」
「店、借りました」
「そうか」
「……知ってました?」
「何をだ」
「私が店を借りたことです」
「今聞いた」
それにしては驚きがない。
日和は少し疑ったが、ひとまず気にしないことにした。
「鍵ももらいました。今日から使っていいそうです」
「なら、これから忙しくなるな」
「はい。掃除もまだ途中ですし、商業組合の手続きもありますし、仕入れ先も探さないといけないし。出す料理も考えたいです」
口にしてみると、改めてやることが多い。
けれど昨日までとは違って、それが嫌ではなかった。
「今日は厨房も使ってみました」
「もう料理をしたのか」
「オスカーさんに食べてもらいました」
エリアスの手が止まった。
ほんの一瞬だった。
「……オスカーに?」
「はい」
「そうか」
またそれだ。
日和は首を傾げた。
「食べたかったんですか?」
「なぜそうなる」
「なんとなく」
「別に」
「そうですか」
それならいい。
日和があっさり引くと、エリアスはなぜか少しだけ眉間に皺を寄せた。
「それで、もう一つ話があって」
「何だ」
日和は姿勢を正した。
こちらが今日の本題だ。
「私、あと1か月でこの屋敷を出ようと思います」
エリアスが黙った。
さっきまで動いていたペンも止まっている。
「……侯爵様?」
「なぜだ」
やっぱりそうなるか。
「店を始めるって決めたので、生活の方も自分でやってみようと思って」
「ここから店へ通えばいい」
「それだと今までと変わらないじゃないですか」
「何が問題だ」
「問題というか……」
日和は言葉を探した。
この屋敷は快適だ。
部屋は広い。食事にも困らない。分からないことがあればオスカーたちが教えてくれる。
何より、安全だ。
ここにいれば困ることはほとんどないだろう。
だからこそ、いつまでもいるわけにはいかないと思った。
「自分で稼いで、自分で生活してみたいんです」
「ここにいても働くことはできる」
「でも、家賃も食費も払ってないですよね」
「必要ない」
「侯爵様には必要なくても、私には必要なんです」
エリアスが黙る。
日和は続けた。
「この世界に来てから、ずっと誰かに決めてもらってた気がするんです」
召喚されたことも。
王宮を出ることも。
この屋敷へ来たことも。
もちろん、エリアスに連れてきてもらったことには感謝している。
それでも、店を借りることだけは自分で決めた。
「だから、生活する場所も自分で決めてみたいです」
エリアスはしばらく何も言わなかった。
やがて、低い声で尋ねる。
「住む場所は決まっているのか」
「まだです」
「……決まっていない?」
「これから探します」
エリアスの眉間の皺が深くなった。
「店の近くで探そうかなとは思ってます」
「治安は確認したのか」
「まだです」
「家賃の相場は」
「これから調べます」
「一人で暮らせる場所なのか」
「それもこれから」
「何も決まっていないではないか」
「だから1か月後なんです」
日和としては、かなり余裕を持ったつもりだった。
「反対ですか?」
「反対ではない」
即答だった。
日和はエリアスを見る。
どう見ても賛成している顔ではない。
もっとも、普段から賛成している顔がどんなものなのか知らないが。
「じゃあ、いいですよね」
「だが、住む場所はきちんと選べ」
「はい」
「店に近いという理由だけで決めるな」
「はい」
「夜の人通りも確認しろ。昼と夜では雰囲気が違う場所もある」
「はい」
「鍵や戸締まりも――」
「侯爵様」
エリアスが止まる。
「反対してません?」
「していない」
「すごく反対してる人みたいになってますよ」
「必要な確認をしているだけだ」
「まだ探してもいないのに?」
「探す前だから言っている」
なるほど。
一応、筋は通っている。
「分かりました。ちゃんと確認します」
「オスカーにも相談しろ」
「はい」
「一人で決めるな」
「……自分で決めたいって話をしたばっかりなんですけど」
「相談することと、他人に決めてもらうことは違う」
日和は口を閉じた。
それは確かにそうだった。
「侯爵様って、たまに正しいこと言いますよね」
「たまにとは何だ」
「褒めてます」
「そうは聞こえない」
日和は笑った。
これなら大丈夫そうだ。
少なくとも、駄目だと言われることはなかった。
「じゃあ、あと1か月だけお世話になります」
「……ああ」
「それまでに店の準備と、住む場所探しですね」
「無理はするな」
「分かってます」
「君の分かっているは信用できない」
「失礼ですね」
「昨日、店を借りるか迷っていた人間が、今日契約して、次は家を探すと言っている」
「……言われてみれば忙しいですね」
「今気づいたのか」
呆れたような声だった。
日和は笑いながら扉へ向かう。
「では、仕事の邪魔してすみませんでした」
「ああ」
扉に手をかけたところで、日和は振り返った。
「そうだ。侯爵様」
「何だ」
「今度、侯爵様にも店で何か作りますね」
エリアスがこちらを見る。
「今日、オスカーさんに作ってみて、やっぱりあの厨房気に入ったので」
少しの間があった。
「……そうか」
「何食べたいか考えといてください」
「何でもいい」
「それ禁止です」
「なぜだ」
「作る側が困るからです」
エリアスは納得していない顔をしている。
「じゃあ、宿題です」
「勝手に決めるな」
「お仕事頑張ってください」
返事を待たず、日和は執務室を出た。
扉が閉まる。
静かになった部屋で、エリアスは手元の書類へ視線を戻した。
一行読む。
もう一度読む。
それから、ペンを置いた。
「……1か月か」
誰に聞かせるでもなく呟く。
1か月後、日和はこの屋敷を出る。
本人が望んでいるのなら、止める理由はない。
店を持ち、自分で稼ぎ、自分で暮らす。
それは彼女がこの世界で生きていくために必要なことだ。
分かっている。
エリアスは再び書類へ目を落とした。
しばらくして、眉間に皺を寄せる。
なぜか先ほどから、同じ一行を何度も読んでいた。




