第23話 あの店を借ります
翌日、日和は再びオスカーとともにアルノルト商会を訪れた。
昨日と同じ建物なのに、今日は少しだけ緊張する。
受付で名前を告げると、やはりほとんど待つことなく奥の部屋へ案内された。
「やっぱり早いですね」
「何がでしょう」
「案内されるまでです」
「そうでしょうか」
オスカーはいつも通りの顔をしている。
昨日から思っていたが、この人は何かを誤魔化すときほど穏やかな顔をする気がする。
しばらくすると、昨日と同じベルトが入ってきた。
「お待たせいたしました」
挨拶を交わし、向かいの席に座る。
ベルトが書類を机に置いた。
「ご検討いただけましたでしょうか」
「はい」
日和は一度息を吸った。
昨日はあれほど迷った。
自分にできるのか。失敗したらどうするのか。毎月きちんと賃料を払えるのか。
不安がなくなったわけではない。
むしろ、一晩経った今の方が現実的な心配はいくつも浮かんでいる。
それでも、答えは決まっていた。
「あの店、借ります」
ベルトが頷いた。
「承知いたしました」
あまりにも普通に返されて、日和は少し拍子抜けした。
「……もうちょっと何かないんですか?」
「何か、と申しますと?」
「いえ。大きな決断をしたつもりだったので」
「おめでとうございます?」
「疑問形で言われても」
隣でオスカーが小さく笑った。
「日和様、おめでとうございます」
「オスカーさんまで言わなくていいです」
少し恥ずかしくなってきた。
ベルトは咳払いをすると、書類を日和の前へ差し出した。
「では、契約についてご説明いたします」
そこからは、一気に現実的な話になった。
毎月の賃料。支払う日。設備を壊した場合の扱い。店を返すときの決まり。
日和は聞き逃さないよう、一つずつ確認していく。
「こちらに署名を」
「……署名」
差し出されたペンを受け取る。
書類の文字は、まだすべて読めるわけではない。隣のオスカーにも確認してもらいながら、覚えたばかりの文字を追っていく。
「ここですか?」
「はい」
日和はゆっくりと自分の名前を書く。
穂積日和。
もちろん漢字ではない。
この世界の文字で書いた、自分の名前。
何度も練習したはずなのに、今日は少しだけ手が震えた。
書き終えると、ベルトが書類を確認する。
「問題ございません」
「……これで終わりですか?」
「契約については」
そう言って、ベルトは机の引き出しから何かを取り出した。
小さな鍵だった。
「こちらを」
日和は差し出された鍵を見る。
「店の?」
「ええ」
受け取る。
手のひらに収まる、小さな鉄の鍵。
思っていたより重い。
「本日からお使いいただけます」
「今日から?」
「契約は成立しましたので」
日和は手の中の鍵を見つめた。
昨日までは、ただの空き店舗だった。
今日からは、自分が借りた店になる。
「……本当に借りちゃった」
「ご自身で決められたことでしょう」
オスカーが言う。
「そうなんですけど、いざ鍵を渡されると」
急に実感が湧いてきた。
本当に店をやるのだ。
勢いで「やってやります」と言った昨日の自分に、今さら少し文句を言いたい。
「やっぱりやめるというのは」
「可能ですが、契約解除の手続きが必要になります」
「冗談です」
危ない。
商会を出たあと、日和はそのまま店へ向かうことにした。
昨日歩いた道を進み、市場の中心から少し外れた通りへ入る。
見覚えのある建物が見えてきた。
昨日と何も変わっていない。
看板のない入口。少し古びた壁。大きな窓。
なのに、今日は違って見える。
日和は入口の前で立ち止まった。
「開けないのですか?」
「今、ちょっと緊張してます」
「昨日も中には入られたでしょう」
「昨日とは違うんです」
手の中の鍵を握る。
鍵穴に差し込み、ゆっくり回す。
かちり、と音がした。
扉を開けると、昨日と同じ小さな店がそこにあった。
カウンター。
2つのテーブル。
奥にある厨房。
まだ少し埃っぽく、人の気配もない。
日和は中へ入り、そのままカウンターの奥へ回った。
ここに立って料理をする。
目の前には客が座る。
昨日は想像するだけだった光景が、少しだけ現実に近づいた。
「……やること、いっぱいありますね」
店の中を見回す。
掃除もしなければならない。残された調理器具も一度全部確認したい。食器も洗う必要がある。
食材の仕入れ先も決めなければならないし、商業組合への登録もまだ残っている。
料理だって、何を出すのか決めていない。
「思ってたより大変かも」
「今ならまだ戻れますよ」
オスカーが穏やかに言った。
日和は振り返る。
「戻りません」
「左様でございますか」
「昨日、あれだけ啖呵切ったんですよ。ここでやめたら侯爵様に何言われるか」
「旦那様は何もおっしゃらないと思いますが」
「それはそれで腹が立ちます」
オスカーが笑った。
日和はもう一度、店の中を見る。
何も始まっていない。
客もいない。
料理もない。
店の名前すら、まだない。
それでも、ここから始められる。
日和は袖をまくった。
「とりあえず」
まずは目の前のカウンターを指でなぞる。
指先に、しっかりと埃がついた。
「……掃除からですね」
どうやら料理を作るまでには、まだ少しかかりそうだった。




