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第22話 売り言葉に買い言葉


商会から戻ってきてからも、日和はずっと考えていた。


机の上にはベルトから渡された紙が置かれている。賃料、保証金、登録料、食材、薪、水、それから自分の生活費。分かる範囲で数字を並べてみると、始めるだけなら何とかなるかもしれない。


問題は、その先だ。


客が来なければ賃料は払えない。食材を仕入れる金もなくなるし、自分の生活だってある。


あの店は気に入った。


あそこで料理をしてみたい。


その気持ちは、もう分かっている。


けれど、やりたいことと、今やるべきかどうかは別だ。


「……働いてからの方がいいよなあ」


何度目か分からないため息をついたところで、扉が叩かれた。


「はい」


返事をすると扉が開く。入ってきた人物を見て、日和は目を瞬いた。


「侯爵様?」


「邪魔するぞ」


「もうしてますけど」


「なら問題ないな」


「そういう意味じゃないです」


エリアスは気にした様子もなく部屋へ入ってくる。


「どうしたんですか?」


「別に」


「別に、で人の部屋に来ます?」


「来てはいけないのか」


「そういうわけじゃないですけど」


珍しい。


普段、エリアスがわざわざ日和の部屋まで来ることはほとんどない。


日和が首を傾げていると、エリアスの視線が机の上へ向いた。


「商会はどうだった」


「……オスカーさんから聞きました?」


「ああ」


「それで様子を見に来たんですか?」


「違う」


早い。


「まだ何も言ってませんけど」


「顔を見れば分かる」


「そんなに分かりやすいですか、私」


「分かりやすい」


リリィにもオスカーにも似たようなことを言われた気がする。少し納得がいかない。


「店を紹介してもらいました」


「そうか」


「前が料理屋だったところで、厨房も食器も残ってました。小さい店なんですけど、カウンターがあって、テーブルが2つあって。厨房からお客さんの顔も見えるんです」


話しているうちに、さっきまで数字ばかり見ていた頭に店の光景が戻ってくる。


小さな厨房。


使い込まれた竈。


カウンターの向こうに並ぶ椅子。


エリアスが日和を見る。


「気に入ったのか」


「……はい」


今度は迷わず答えた。


「なら借りればいい」


「そんな簡単じゃないですよ」


「なぜだ」


「お金がかかるからです」


「当然だろう」


「分かってます」


「なら何が問題だ」


日和は机の上の紙を見る。


「始めるだけなら、たぶん何とかなるんです。でも続けられるかは別でしょう。毎月賃料を払って、食材も買って、生活費も必要で。お客さんが来なかったら全部自分に返ってきます」


「そうだな」


「文字だってまだ勉強中です。この国の食材も相場も、知らないことがいっぱいあります」


「そうだな」


「……さっきから、それしか言ってませんよ」


「事実だからな」


なんだか腹が立ってきた。


「侯爵様はどう思います?」


「何がだ」


「私が店をやることです」


エリアスは少し黙った。


「難しいだろうな」


即答だった。


「……そこは少しくらい考えてから言いません?」


「考えた」


「その結果がそれですか?」


「ああ」


やっぱり、この人に相談するんじゃなかった。


「君の言う通り、文字もまだ十分に読めない。この国で商売をした経験もない。食材や客の好みについても、これから知ることの方が多い」


「分かってます」


「金にも余裕はない」


「それも分かってます」


正しい。


全部、自分で考えたことだ。


だからこそ腹が立つ。


「じゃあ、やめた方がいいってことですか?」


「私はそんなことは言っていない」


「でも難しいって言ったじゃないですか」


「難しいことと、できないことは違う」


日和は口を閉じた。


エリアスは相変わらず淡々としている。


「それに、無理に今始める必要もない。以前も言ったが、ここにいる限り生活に困ることはない」


「……またそれですか」


「ああ」


「私も前に言いましたよね。そういうことじゃないって」


「覚えている」


「じゃあ、なんでまた言うんですか」


声が少し強くなる。


「私は、ずっとここで何もしないで暮らしたいわけじゃないです」


「分かっている」


「だったら――」


「だから聞いている」


エリアスの声が少し低くなった。


「君は、店をやりたいのか」


日和は言葉を止めた。


昨日までなら、そこで迷ったかもしれない。


いつかできたら。


料理の仕事ができたら。


そんな曖昧な言葉で済ませていた。


けれど、今は違う。


「……やりたいです」


口にすると、思っていたよりはっきりした声が出た。


「料理を作って、自分で働いて、自分で稼ぎたいです。それに、あの店でやってみたいと思いました」


「そうか」


「でも、今すぐ始めるのが正しいのかは分からないです。もっとこの世界のことを知ってからの方がいいかもしれないし、お金を貯めてからの方が安全なのも分かってます」


「なら、やめておけ」


日和は顔を上げた。


「……はい?」


「そこまで迷うなら、今やる必要はない」


「でも」


「別の人間が借りれば、それまでだ」


胸の奥がざわついた。


あの店に別の誰かが立っているところを想像する。


嫌だと思った。


「……それは嫌です」


「なぜだ」


「私が気に入ったからです」


「それだけか?」


「それだけじゃ駄目ですか?」


エリアスは答えない。


その沈黙が、妙に腹立たしい。


「やります」


「そうか」


「やりますから」


「さっきまで迷っていただろう」


「今決めました」


「ずいぶん急だな」


「侯爵様がやめろって言うからです!」


「それは理由になっていない」


「なってます!」


日和は勢いよく立ち上がった。


「文字も覚えます。この辺りの食材も料理ももっと勉強します。お客さんが来なかったら、来てもらえる方法を考えます。賃料だって自分で払います」


「そうか」


「絶対払いますからね!」


「私に払うわけではない」


「分かってます!」


なんでこの人は、こういうときまで冷静なのだろう。


「見ててください」


日和はエリアスを指さした。


「絶対、あの店でちゃんとやってみせますから!」


しばらく沈黙が落ちた。


やがて、エリアスの口元がほんのわずかに動く。


「なら、やってみろ」


「……言いましたね?」


「ああ」


「後で無理だって言っても知りませんからね」


「言わない」


「絶対ですよ」


「ああ」


日和は椅子に座り直した。


腹が立つ。


ものすごく腹が立つ。


なのに、さっきまで頭の中をぐるぐる回っていた数字や不安が、少しだけ静かになっていた。


怖いことは変わらない。


店を始めれば毎月金がいるし、失敗するかもしれない。知らないことだって山ほどある。


それでも、やってみたい。


自分でそう決めた。


「……明日、商会に行ってきます」


エリアスが日和を見る。


「そうか」


「今度こそ、それでいいです」


日和は机の上の紙を手に取った。


明日、商会へ行こう。


分からないことは、これから覚えればいい。足りないものがあるなら、その都度考えればいい。


少なくとも、何も考えずに決めたわけではない。


考えて、怖くなって、それでもやりたいと思った。


だから、自分で決める。


あの店を借りたい、と。


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