第21話 少し考えさせてください
「それで、こちらが賃料と最初に必要になる費用です」
ベルトから差し出された紙を見て、日和は黙った。
最近の勉強の成果もあって数字は読める。先ほど聞いた周辺の相場と比べても、この店の賃料がかなり抑えられていることも分かっている。
それでも安いとは思えなかった。
店を見たあと、日和たちは商会へ戻って詳しい話を聞いていた。
建物と厨房の設備、残されている調理器具や食器はそのまま使える。必要になるのは保証金と毎月の賃料、それに商業組合への登録料。
もちろん、それだけではない。
「食材と薪、水……」
「そちらは営業される日数や仕入れによって変わりますね」
「ですよね」
日和は紙に書き足していく。
店を開ければ、客が来ても来なくても賃料は発生する。食材を仕入れれば金がかかり、売れ残ればそのまま損になる。
それとは別に、自分が生活するためのお金も必要だ。
「……毎月、最低でもこれ以上は稼がないと駄目ってことか」
正確な金額まではまだ出せない。それでも固定で出ていく金と、売上によって変わる金を分けて考えれば、昨日よりずっと現実が見えてくる。
料理が好きだから。
人に食べてもらうのが好きだから。
それだけでは店は続かない。
「思ってたより、ちゃんと商売ですね」
ベルトが少し笑った。
「店ですから」
「ですよね」
当たり前のことを言ってしまった。
日和はもう一度紙を見る。
昨日までは、まずどこかで働いて金を貯めようと思っていた。それが一番堅実だし、今でも間違っているとは思わない。
問題は、あの店を見てしまったことだった。
「最初の賃料は、いつ支払うことになりますか?」
「開業月については月末に納めていただく形でも構いません」
「後払いもできるんですか?」
「新しく店を始められる方には、そういった契約をすることもございます。最初は仕入れなどで何かと入り用ですので」
「なるほど……」
確かに助かる。
けれど日和は、すぐには頷かなかった。
「保証金は?」
「こちらです。先ほど申し上げた通り、分割でも構いません」
「登録料を払って、最初の仕入れをして……」
今持っている金で、始められないわけではない。
ただ、始められることと、続けられることは違う。
「……お客さんが来なかったら終わりですね」
「商売とは、そういうものです」
ベルトはあっさり答えた。
「厳しい」
「ですから、皆さんよく考えて店を始められます」
「そうですよね」
店を借りるだけならできる。
でも、翌月も、その次の月も賃料を払わなければならない。
食材を買う金もいる。
もし病気になって店を開けられなければ、その間の収入はなくなる。
考えれば考えるほど、昨日より怖くなってきた。
けれど不思議と、やめようとは思わなかった。
「こちらも、できれば早く借り手を見つけたい事情がございますが、今すぐお返事いただく必要はありません」
ベルトがそう言って、紙を日和の方へ寄せる。
「もちろん、他の方に決まる可能性はございます」
「……そうですよね」
胸の奥が少しざわついた。
他の人が借りれば、あの厨房に自分が立つことはない。
小さなカウンターの向こうに客が座るところも、料理を出している自分も、もう想像する必要はなくなる。
「……私、あの店気に入ってたんだ」
思わず呟くと、隣にいたオスカーが微笑んだ。
「そのようでしたね」
「顔に出てました?」
「大変分かりやすく」
「恥ずかしいな……」
日和は紙を見つめる。
賃料、保証金、登録料、食材、薪、水、それから自分の生活費。
数字にして並べると、店を持つということが急に重くなる。
この世界に来て、まだそれほど経っていない。文字だって覚えている途中で、この国の商売についても知らないことの方が多い。
だからこそ、勢いだけで決めるわけにはいかない。
「今日は持ち帰って考えてもいいですか?」
「もちろんです」
「自分でも、もう少し計算してみたいので」
ベルトが頷いた。
「決まりましたら、いつでもお越しください」
「ありがとうございます」
商会を出ると、昼を少し過ぎていた。
通りには人が行き交い、少し先から焼いた肉の匂いが漂ってくる。
日和は歩きながら、手にした紙を見る。
「オスカーさん」
「はい」
「昨日、私、料理の仕事を探そうかなって言ったんです」
「伺っております」
「働いて、お金を貯めて、この辺りの食材とかお客さんの好みも知って。それから店を持つ方が、たぶん堅実ですよね」
「そうかもしれません」
「ですよね」
否定してほしかったのかもしれない。
日和は少しだけ口を尖らせる。
「でも、あの店を見たら……」
言葉が止まった。
あそこで料理をしてみたい。
まだ何も始まっていないのに、厨房に立つ自分を想像した。カウンターの向こうに誰かが座って、自分の料理を食べているところまで。
「迷っておられるのですね」
「はい」
日和は素直に頷いた。
「やってみたいです。でも、怖いです」
「それは当然かと」
「オスカーさんなら、どうします?」
オスカーは少し考えてから、穏やかに答えた。
「私なら、日和様がどちらを選ばれても、お手伝いいたします」
「それ、答えになってません」
「申し訳ございません」
そう言いながら、まったく申し訳なさそうではない。
「ずるいですね」
「よく言われます」
日和は小さく笑った。
怖い。
店を借りたら、毎月金がいる。料理がおいしいだけで客が来る保証もないし、この世界のことだってまだ十分には知らない。
やめる理由なら、いくらでも考えられる。
それなのに。
他の誰かがあの店を借りるところを想像すると、嫌だった。
「……やってみたいな」
口にしてみる。
誰かに頼まれたわけでも、やった方がいいと言われたわけでもない。
自分が、やってみたいと思った。
そのことが少し不思議で、日和は手にした紙を見つめた。
昨日までの「いつかできたら」とは、もう少しだけ違う。
夢を見るにも、お金はいる。
怖くないわけでもない。
それでも初めて、その夢のために何をすればいいのかを考えてみたいと思った。




