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第13話 まずは文字から始めます


市場から屋敷へ戻る途中、日和は1軒の店の前で足を止めた。


開け放たれた扉の向こうには、いくつものテーブルが並んでいる。昼時を過ぎているにもかかわらず、店内にはまだ何人かの客が残っていた。


「ここは食堂ですか?」


「ええ。アルノルトでは古くからある店でございます」


入口の横には木の板が掛けられ、何かが書かれている。


日和はじっと見つめた。


「…………」


やっぱり読めない。


「オスカーさん、これ何て書いてあるんですか?」


「本日の料理と値段ですね」


「何があるんです?」


「肉と豆の煮込み、川魚の香草焼き、鶏肉と火玉のスープなどです」


「値段は?」


オスカーが順番に教えてくれる。


市場を歩いて少しずつ硬貨の価値は分かってきたものの、まだ自分だけで買い物をするのは難しそうだ。


日和は看板を見上げた。


「料理ができるだけじゃ駄目ですね」


「と申しますと?」


「仕事を探すにしても、文字が読めないと求人があっても分からないし、食材の値段も覚えないと買い物もできないでしょう」


市場では楽しくて、食材ばかり見ていた。


でも、この世界で暮らしていくなら料理だけできればいいわけではない。


文字。

お金。

この国の常識。


覚えなければならないことは山ほどある。


「帰ったら文字を教えてもらえますか?」


「もちろんでございます」


「オスカーさん、何でもしてくれますね」


「家令ですので」


「家令って大変ですね」


オスカーが小さく笑った。



屋敷へ戻ると、日和は早速文字を教えてもらうことになった。


机の上には紙とペン、それから子ども向けだという薄い本が置かれている。


「……これ、子ども用ですよね」


「最初に学ぶには最適かと」


「分かってるんですけど、ちょっと複雑です」


本の表紙には、かわいらしい動物の絵が描かれていた。


29歳。


異世界で文字の勉強を始めることになるとは思わなかった。


「では、まずはこちらから」


オスカーが紙に文字を書く。

日和はそれを真似して、隣に書いてみる。


「こう?」


「少し違いますね」


「こっち?」


「逆でございます」


「難しい……」


言葉は普通に通じるのに、文字になるとまったく分からない。

召喚というものは、ずいぶん中途半端だ。


「会話ができるなら、文字も読めるようにしてくれればいいのに」


「召喚術とは不思議なものなのですね」


「便利なのか不便なのか分かりません」


何度か書き直して、ようやく最初の文字を覚える。


次。

その次。

しばらく続けていると、日和は机に突っ伏したくなってきた。


「料理の方が簡単です」


「慣れの問題でございましょう」


「オスカーさんは簡単に言いますね」


「日和様なら、すぐに覚えられますよ」


「期待されると困ります」


何気なく答えたあと、日和は少しだけ黙った。


どうして今、そんな言葉が出たのだろう。


期待される。

頼られる。

自分ならできると思われる。


それは別に、嫌なことではないはずなのに。


「日和様?」


「……なんでもないです」


日和は再びペンを握った。

思い出せないことを考えても仕方がない。

今は目の前の文字だ。


「これ、何て読むんでしたっけ?」


「先ほど3度お伝えしました」


「……もう1回お願いします」


「もちろんでございます」


オスカーは嫌な顔ひとつせず、もう1度同じ文字を書いてくれた。


それから数日、日和は午前中に文字や貨幣について教わり、午後になると厨房へ顔を出す生活を送った。


少しずつ読める文字が増えた。

硬貨の価値も分かってきた。

料理人たちに、この国の料理も教えてもらった。

そして日和も、自分の知っている料理を作った。


特別なことは何もない。


ただ、昨日より少しだけ、この世界でできることが増えていく。

そんな毎日だった。


ある日の午後。

日和が廊下を歩いていると、前からエリアスがやってきた。


「日和」


「侯爵様」


すれ違おうとして、エリアスが足を止める。


「文字の勉強はどうだ」


「少し読めるようになりました」


「そうか」


「褒めてくれてもいいですよ」


「なぜだ」


「そこは『よくやった』とか」


エリアスは少し考えた。


「……よくやった」


「言わせたみたいになった」


「君が言わせたんだろう」


確かにそうだった。


エリアスが歩き出す。

日和も反対方向へ向かおうとして、ふと気になった。


「侯爵様」


「何だ」


「これから仕事ですか?」


「ああ」


「夕食には戻ります?」


エリアスが日和を見る。


「その予定だが」


「じゃあ、今日は私が作ります」


「…………」


一瞬だけ、エリアスが黙った。


「何ですか?」


「いや」


エリアスはそのまま歩き出す。


「夕刻には戻る」


日和はその背中を見送った。


なんとなく。


ほんの少しだけ、返事が早かった気がした。


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