第100話 大丈夫だったはずなのに
気がつけば100話目です!!
次回は登場人物紹介をまとめて投稿します✨
(作者の備忘録のためにも…)
エリアスが店を出ていってから、3日が経った。
最後に見たのはエリオの姿だったのに、思い出すのは別の姿ばかりだった。
『それ以上、俺を誘うな』
あの夜の低い声と、すぐそばにあった青灰色の瞳。
『……待ての状態を、やめていいなら入る』
思い出した途端、日和は持っていた皿を危うく落としかけた。
「……何を思い出してるんだろう、私」
慌てて皿を置く。
3日も経ったというのに、ふとした瞬間に思い出してしまう。しかも店で穏やかに笑っていた顔より、あの夜の顔ばかり。
困る。
非常に困る。
けれど、少しだけ嬉しいと思っている自分がいるのは、もっと困る。
「……仕事しよう」
誰に言うでもなく呟き、仕込みに戻った。
エリアスはあの日から店に来ていない。それだけなら仕事だろうと思えるのだが、隣の家にも帰ってきている様子がなかった。
最後に会ったとき、魔石が光ったあと急に表情を変えて帰っていったことも気になっている。
何かあったのだろう。
少し嫌な予感はする。
それでもエリアスは侯爵だ。自分の知らない仕事がいくらでもあるのだから、きっとそのうち何事もなかったような顔でやって来る。
そう思うことにした。
その日の宵日和も、いつも通りに始まった。
昼を過ぎる頃には何人か客が入り、日和は料理を作っては運ぶ。忙しく手を動かしている間は余計なことを考えずに済むし、店に立っている時間は好きだった。
夕方近くになり、客足が少し落ち着いた頃。
「日和」
聞き慣れた声とともに扉が開いた。
「いらっしゃい、ガルドさん」
「今日はまだ食えるか?」
「もちろん。何にする?」
「腹にたまるやつ」
「相変わらず注文が雑だね」
「任せたほうがうまいもん出てくるからな」
いつもの席に座るガルドに笑いながら、日和は厨房へ戻った。
鍋を火にかけ、肉と野菜を切る。
いつもの動作。
そのはずだった。
包丁を握った瞬間、頭の奥で何かが引っかかった。
――ちゃんとしなきゃ。
日和の手が止まる。
「……?」
今のは、何だろう。
自分の声だったような気がした。
――私がやらなきゃ。
胸の奥がざわつく。
目の前にはいつもの厨房がある。使い慣れた包丁も、火にかけた鍋も何も変わっていないのに、なぜか息がしづらい。
――しっかりしてるから。
――日和なら大丈夫。
――頼りにしてるよ。
声だけが、次々と頭の中を通り過ぎていく。
誰の声なのかは分からない。
けれど、知らない言葉ではなかった。
何度も聞いた。
何度も笑って返した。
――大丈夫。
頭の奥がずきりと痛んだ。
「……日和?」
ガルドの声が聞こえる。
「大丈夫。ちょっとぼーっとしただけ」
考えるより先に答えていた。
その言葉に、自分で息を止める。
大丈夫。
また言った。
昔から、ずっとそうだった気がする。
頼られれば引き受けた。期待されれば応えようとした。
できることならやればいい。
自分がやったほうが早い。
しっかりしなきゃ。
大人なんだから。
誰かが困っているなら、自分がやらなきゃ。
そうしていれば、みんなが安心する。喜んでくれる。
だから自分も、それでいいと思っていた。
――でも。
「……っ」
胸が苦しい。
何かを思い出したわけではない。
場所も、誰かの顔も見えない。
ただ、その頃の感覚だけが一気に押し寄せてくる。
苦しかった。
ずっと、しんどかった。
頼られるのが嫌だったわけではない。期待されることが嬉しいときだってあった。
だから余計に、できないと言えなかった。
疲れたとも言えなかった。
もう無理だなんて、言ってはいけない気がしていた。
期待に応えられなくなったら、自分には何が残るんだろう。
――私がしっかりしなきゃ。
――私がやらなきゃ。
――大丈夫。
違う。
「……大丈夫じゃ、なかった」
ぽつりと声が漏れた。
自分で言ったはずなのに、その言葉がひどく遠く聞こえる。
どうして忘れていたんだろう。
元の世界にいた自分は、もっと普通に暮らしていたと思っていた。
頼られて、期待されて、それに応える。できることを引き受けて、求められたことをちゃんとやる。
それが当たり前だった。
そうしていれば、みんなが安心する。喜んでくれる。
だから自分も、それでいいと思っていた。
なのに。
どうして。
こんなに苦しかったことを、忘れていたんだろう。
「日和!」
ガルドの声が近くなる。
包丁を置こうとした。
けれど、指先に力が入らない。
視界が揺れ、厨房の床が急に遠くなった。
「おい!」
倒れる。
そう思ったときには、もう身体を支えられなかった。
床にぶつかるはずだった身体を、大きな腕が受け止める。
「日和! しっかりしろ!」
ガルドの声が聞こえる。
答えなければ。
大丈夫だと言わなければ。
いつものように。
そう思ったのに、声が出ない。
暗くなっていく視界の中で、最後に浮かんだのは、青灰色の瞳だった。




