底の見えぬ井戸
「いい天気なんだけど……」
しばらく雨が続いていたため、川の水位は高くなっていたが、全てを枯らしてしまわんとして太陽が照りつける。
舟を運びながら揺れる水面は、その陽の光を反射して、ルクノウの目を細めさせた。
なぜルクノウが自分の体より二回りほどの大きさをした舟に腰掛け川を漂っているのかというと、旅の途中、立ち寄った街で聞いた話がきっかけだった。
川を下ると、妙な古い井戸があるらしい。
ただそれだけの話だった。
願いが叶うとか、未来が見えるとか、そんな眉唾ものだが、どれも話す人によって少しずつ違っていた。
(まあ、噂ってそういうものだよなあ)
ルクノウはあまり深く考えず、借りた舟と流れに身を任せてここまで来た。
「……ここかな?」
辺鄙な場所ではあるが、そこには確かに、一際場違いな古びた井戸があった。
だが、ルクノウの目に留まったのは、その井戸ではなく、頭を抱えながらブツブツと何かを呟く先客だった。
「いや、だめだ。今日じゃない。そう、今日じゃないんだ。もし違ったりしたら……」
井戸の前で、男が一人、覗き込もうとしてはやめ、離れてはまた戻る。
こちらに気づく様子はなく,行ったり来たりを繰り返していた。
ルクノウは、井戸の近くに丁度いい大きさの木を見つけたので、あらかじめ乗せていた縄で、その木と舟を繋ぎ止めた。
「あの……どうかしましたか?」
ルクノウは男へ問いかける。
「おっ」
男はようやくこちらに気づいたようだった。
「君もか?」
「えっと……はい」
「そうか」
ルクノウの不思議そうにしている顔を汲み取ったのか、男は苦笑して、頭をかいた。
「いやな、ちょっと気になってはいるんだが……どうにも踏ん切りがつかなくてな」
井戸の方を見る男の目は、どこか落ち着かない。
「覗けばいいんじゃないですか?」
「それが簡単にできれば苦労しないさ」
「それもそうですね」
しばしの沈黙が、跳ねた川魚によって破られる。
「……君はどうするんだ?」
「どう、というのは?」
「覗くのかって話さ」
ルクノウは井戸へ一歩だけ近づく。
男は何も言わなかった。
止めるでもなく、勧めるでもなく、ただ様子を見ている。
少しの間を置いてから、ルクノウは井戸を覗き込んだ。
そこにな――何も見えない。
暗い穴があるだけで、音も、気配もない。
そのまま目を凝らしていたルクノウは、やがて顔を上げて男の方を向いた。
「……どうだった?」
男が聞く。
ルクノウは少しだけ考えてから、
「何も、見えませんでしたよ」
「何も、か」
男は拍子抜けしたように笑った。
「そうか。……まあ、そんなものなのかもしれないな」
そう言って、井戸から少し距離をとる。
「やめておくよ」
「えっ、いいんですか?」
少しだけ大きな声が出たルクノウを横目に男は答える。
「いいんだ。今ので満足したよ」
理由はルクノウにはよくわからなかったが、男の顔は満足げだった。
「その舟、借りもんだろ」
男が言った。
「ええ、まあ」
「だったら、帰りは手伝うよ。ここ、道わかりにくいしな」
「助かります」
二人は舟に乗り込む。
「そういえば、舟でここまで来られたんじゃないんですか?」
「あの井戸には裏手の山道からでも行けるんだ。と言っても、物好きなやつしか使わないが」
行きとは逆に、今度は流れに抗うように漕ぎ出した。
しばらくして、男がぽつりと呟く。
「君、名前は?」
「ルクノウです」
「俺はカインだ。ルクノウはさ……」
「はい?」
「さっき、井戸には何も見えないって言ってたが」
「ええ」
「……なんか、見た顔をしていたな」
ルクノウは少しだけ間を置いて、
「そう見えましたか?」
とだけ返した。
男はそれ以上は何も聞かなかった。
水をかく音が、一定のリズムで続く。
それぞれの身の上の話を軽く交わしながら。
やがて、川幅が広がり、遠くに街の影が見えてきた。




