プロローグ 宵を紡ぐもの
猛き焔が文明を灯し、静かな水辺には命が芽吹く。
穏やかな風が草木を優しく撫で、歴史を紡いできた大地を吹き抜ける。
――その世界の名は、エアルス。
ここはカノン村――王都〈ルフトルディア〉のほど近く、森の外れにある小さな村。
「いってきます」
まだ薄く霧がかるも、淡く光る朝陽に、琥珀色の髪に青い瞳をした十七歳の少年――ルクノウは包まれる。
「今日は森の視察でしたね。気をつけるのですよ」
明け方の心地よい風が、母の髪を靡かせる。
森は、今日も変わらずそこに佇む。
通い慣れた森だが、ルクノウには忘れられない光景があった。
“それ”は二年前、突然の出来事だった。
大地はひび割れ、小川が枯れ、木々は白く痩せ細り、灰のように葉が積もる。
眼前に広がる異様な光景は、ルクノウにだけは“森”という一つの生命が静かに息を引き取ったように見えた。
「これはどういうことだ!」
村人たちのざわつきが、次第に怒気や恐怖を帯び始め、人から人へと負の感情が伝染していく。
「……精霊の怒りじゃないのか?」
「そんな御伽話みたいなことがあるかよ!」
「でもよ、あの木の白さはなんて説明するんだよ!」
不穏な空気に包まれかけたその時、ルクノウの母――カノン村の村長が口を開く。
「静まりなさい」
たった一言、透き通った声だった。
村長は、続けざまに言い放つ。
「この状況を恐れるなとは言いません。ただ、私たちは生きています。原因がわからないからといって、何もしないままでいいのですか? 今を生きているからこそ出来ることがあるのではないですか?」
確かな信念を帯びた村長の言葉が、辺りを包む不穏な空気を晴らしていくのを、ルクノウは肌で感じた。
「村長の言う通りだ!」と、拳を突き上げ、皆の目に光が灯る。
「では、各々……やるべきことを考えましょう。クウィルツには王都に向かっていただきます。森の記録や土地の古文書など、可能な限り調べてきてください」
クウィルツ――ルクノウの兄に向けた母の顔は凛としており、村長として、ただ目の前のすべき事にのみ意識を向けているようであった。
「できますね?」
「はい、行ってまいります」
クウィルツはすぐに準備に取り掛かり、王都へと馬で駆けて行った。
次の日、ルクノウが森の様子を見に来ると、以前にも増して、森を包む異様な空気に晒される。
(墓場みたいだ……)
生気の失せた土の匂いが、ルクノウの鼻腔をくすぐる。
鳥が巣をかけていた枝は、今や骨のように空を仰いでいた。
それからしばらくして、クウィルツが王都から帰ってきた。
「どうだった?」
クウィルツの元には人だかりができており、多くの期待の目が向けられる。
「過去にも同じようなことが、遠方で起きていたようです」
クウィルツは鞍袋から取り出した写し書きの書物を母へと手渡す。
「同じようなこと……ですか?」
受け取った書物に目を通しながら、母はクウィルツへと問いかける。
「とある地方で原因不明の大災害により、山や川が枯れて、飢餓が流行したそうです。しかし不思議なことに、その後わずか一年足らずで復興したようです」
「たったの一年で……」
「今回も同じであるならば、その一年さえ乗り越えれば、この村にも希望が見えてくるかもしれません……それまで耐えられるでしょうか……」
「そうですね……今はとりあえず、出来ることを互いに続けていくしかありません」
「皆で乗り越えていこう」と、より結束を固めるのであった。
「あの日からもう二年か……」
ルクノウは、新芽の息吹に包まれた森を見つめる。
以前までの異様な森の姿は見る影もなく、木々は生い茂り、川が流れ、鳥が巣を作り始めていた。
ルクノウが森へと足を踏み入れてからしばらく進むと、ある違和感を感じ取る。
“水中で会話している”かのような、圧迫感にも似た遠くで音がする感覚だ。
そして、その違和感は激しい痛みを伴い、ルクノウを襲う。
「うぅ……」
次第に視界が歪み、平衡感覚を失うかのように、ルクノウはよろめき倒れた。
倒れる瞬間、かすかに誰かの声が聞こえた気がした。
「あれ……ここは……」
目が覚めたルクノウは、洞窟のような場所で横たわっていた。
(森の中にこんな場所があるなんて聞いたことなかったけど……)
『――』
『――』
誰かの話し声が聞こえた気がしたので耳を澄ますも、パタリと音が消え、深い沈黙にのまれた。
不思議に思ったルクノウは、感覚を頼りに、声がした方へと進む。
しかし、そこに人は誰もおらず、“苔の生えた小さな祠”が建てられていた。
(祠……?)
目を凝らすと、祠の中にある石碑から、わずかに光が漏れ出ており、そこには長く綴られた“文章のようなもの”が深く刻まれていた。
(この村の言葉じゃないな)
そう思いながら、ルクノウは無意識のうちに、“それ”に手を伸ばしていた。
石碑に触れた途端、深く刻まれた文字が眩い光を帯びて浮かび上がる。
『『…エアルス……エイカシア…綻び……委ね…崩壊……調和…』』
読めるはずのない文字が、既知の言葉として次々とルクノウの意識の奥へと染み込んでいった。
――意味するところは分からずとも。
少し思考を巡らそうとすると、先程の痛みを思い出したかのように、再び意識を失ってしまった。
またルクノウが目を覚ますと、森の中で横たわっていた。
先ほどの出来事は夢か現実か。
脳裏に今も鮮明に刻まれたものが、夢ではないと訴えかけているようだった。
ルクノウが家に着くと、母が夕食の支度をしていた。
「おかえりなさい……」
息子の普段と違う空気を察したのか、優しい目をした母がこちらを向いて問いかける。
「……何かありましたか?」
温かい声がして、ルクノウは安心感と共に言葉が自然と出てきた。
「……少し、聞いて欲しいことがあって、いいかな?」
母に信じてもらえないと思いながらも、ルクノウは今日までのことを話した。
あの日から起きた全てを。
ルクノウが話し終えると、意外なことに母の目に疑いの色は感じられなかった。
「どうしてこの場所に、村があると思いますか?」
それどころか、突拍子もない質問が母から飛んできて、ルクノウの身構えていた力が抜ける。
「なぜって聞かれても……」
「王都の外れとはいえ、この土地に王都の手が一切かからないことに疑問を抱いたことはありませんか?」
思い返すと、今まで一度も王都から使者や視察に来たと聞いたことがなかった。
「前置きはさておき、この村には、“エイカシア”という古くからの伝承があります。それは、世界の綻びに耳を澄まし、静かなる眠りへと導く者とされています」
母から聞かされた伝承は、脳裏に残る言葉とどこか重なるものがあった。
「私も聞き伝えられただけで、詳しくはわかりませんが、私を含めた村の誰でもなく、あなたが選ばれたのではないのでしょうか。この話を、二年前にしてあげることができれば良かったのですが……」
母は、少し悲しそうな顔をしていた。
その理由は、今のルクノウにはわからない。
「さあ、話はここまでにして、夕飯にしましょうか」
母の言葉に反応するよう、ルクノウの腹の虫が鳴く。
「難しい話をしてお腹が空いたみたいだ」
母も微笑み、またいつもの日常に戻る。
食事を済ませたルクノウは、自室へと戻り天井を仰ぐ。
すると――
『聞こえておるかな?』
「うわっ!」
静止したような無音の中で、突然発せられたその声に驚いたルクノウは、ベッドから転げ落ちる。
空気が陽炎のように揺らいで、人影を形作っていく。
それは次第に、青いローブを纏う年老いた男の姿をとる。
「……あなたは……」
『我が名はファウステル。ついに見えることができたな選ばれし者よ』
ファウステルと名乗る男は、ルクノウに微笑みかける。
(選ばれし者……)
『石碑に触れ、かの言葉を聞いた今のそなたであれば、自身の身に何が起きているのか、分からないわけではないであろう?』
「なぜ石碑のことを?」
『我々は、常に世界の綻びを見届けてきた』
「……我々?」
『そなたの“祖先”といえば早いかの』
「ファウステルさんは、その……幽霊……なのでしょうか?」
『そうと言えばそうじゃが、違うと言えば違うの。ただ……素質をもつそなたに、一目会っておこうと思ってな』
「素質……」
『そなたはかつて“森の死”を感じたのではないか?』
ルクノウは、ファウステルに何かを見透かされているような気がした。
『それが“素質”というものじゃよ。世界の綻びはただ見るものではない。そこから何を選ぶのか……世界からの問いなのじゃ』
「世界なんて……とてもじゃないけど僕には背負えないですよ」
『まあ、難しく考えずともよい。綻びはこの世界に多大なる影響を与えるやもしれんし、一方で、何ももたらさずにひっそりと息を引き取るだけやもしれん』
「尚更、僕ができることなんて……」
『“わしら”祖先は、いつもそなたを見守っておるよ』
別れを告げるように、そう呟かれた言葉を聞いたルクノウは、意識が朦朧としてきた。
「ちょっと……僕は一体……何をすれば……」
『思うがままに進むと良い。自ずと道は開かれるじゃろう』
「ルー! 朝食できてるぞー!」
クウィルツの声を受け、余韻を断ち切るようにルクノウは目が覚める。
「世界にとって、この村ってなんなんだろうな」
ルクノウが先につくなり、唐突にクウィルツが口を開く。
「……お前には何かが見えているんだろ? “あの日”だって、何かを感じ取っていたんじゃないか?」
「……ウィル兄さん、突然どうしたの?」
「ウィル、話は私から」
離れたところで会話を聞いていた母が、改まったように割って入る。
「ルクノウ、一度世界を見てきなさい。あなたとエイカシアの繋がりも何かわかるかもしれません」
ルクノウを見る二人の表情は、こうなることが最初から分かっていたようだった。
何も言わずに背中を叩く兄に、「行ってこい」と言われた気がして、ルクノウは強くうなずき、静かに旅立ちを受け入れた。
ルクノウ自身も、なぜか駆り立てられる気持ちで満たされていた。
まだ薄く霧がかるも、淡く光る朝陽に、ルクノウは包まれる。
「寂しくなりますね。ルー、体には気をつけるのですよ」
優しくルクノウの頬を撫でる母の顔には、名残惜しさと期待が滲んでいた。
「うん……」
自身を送り出す母と兄を見ていると、ルクノウは不思議と奮い立つように背筋が伸びる。
「じゃあ、いってきます」
ルクノウは村に背を向け、ゆっくりと歩き出す。
「まずは……どこへ行こうか」
見上げる空に、登り始めた太陽が一つ。
門出を祝うように、ルクノウと共に歩むように。
――世界の綻びを紡ぐ旅が、静かに始まりを告げたのである。




