黄昏の鐘が咲く
村で得た狩りの知識を頼りに野営を繰り返し、旅立ちからすでに数日が経過していた。
乗馬の練習をしておけばよかったと、今更ながらにルクノウは悔やんでいた。
馬に乗って森を颯爽と駆け抜けることは、さぞかし心地の良いものだろう。などと考えていると、いつの間にか森の開けた場所へと足を踏み入れていた。
「こんなところに……人里?」
ルクノウの目線の先には、カノン村の半分にも満たない集落があった。
といっても、集落の全てを視界に収めることは叶わぬほどの大きさではあるが。
森の日暮は早い。
そうこうしているうちに辺りが暗くなり始めるため、今日はここで一泊できないものかと期待が高まる。
住居の前に置いてある桶には水が張られており、一方の竈は火の気配すら感じる。
が、人影が一向に見当たらない。
「すいませーん! 誰かいませんかー!」
――数回呼びかけたものの、反応がない。
「やっぱり今日も野宿かな……」
人里の中をとぼとぼと歩き回っていると、櫓に掲げられている、一つの大きな影が見えた。
――ルクノウの背丈ほど大きな“鐘”だった。
「うわあ…」
思わず声が漏れる。
先ほど目にした家屋とは異なり、鐘に手入れがなされた様子はなく、所々に変色と錆が見受けられた。
鐘につながっている縄は、ルクノウの両腕を合わせたほど太く、それはルクノウが手を伸ばせばなんとか届く位置にはあったが、縄先は切り裂かれたような跡が残っており、差し伸べようとした手をルクノウは一度引っ込めた。
「もう……使われていないのかな」
ルクノウは、鐘がよく見える小高い場所を見つけた。
願いも虚しく、野営することになったからだ。
ルクノウは持参した干し肉と薬草のスープで簡単な食事を済ませ、焚き火を眺めて物思いにふける。
今は手入れされていないとはいえ、この集落には立派な鐘がある。
設置当時は、それなりに栄えていたのであろうか。
しかし、カノン村ではそのような話を聞いたことがなかったことが、ルクノウにとっては気掛かりである。
焚き火はパチパチと音を立てて、ルクノウを暖かく照らす。
火の揺らぎを目で追っていると、突然ピタリと静止した。
風の音が途絶え、森全体が息を潜めたかのように静まり返る。
「もしかして、この感じは……」
ルクノウは、身を包むこの違和感に覚えがあった。
――ファウステルと会話をした、あの夜の空気だ。
止まっていた火が勢いを増し、次第に青い業火へと姿を変える。
不思議と熱は感じなかった。
やがてその一部が切り取られたかのように宙を舞う。
不可思議に浮く炎に、周囲は飲み込まれ、時空が歪んだ。
歪みは大きくなり、そこから人影が覗く。
『久しいのう。選ばれし者よ』
『格好つけちゃって……素直にルクノウって呼べばいいのに』
青いローブに身を包む二人は、蓄えた長く白い髭を撫でる男性と、琥珀色の髪が隙間から靡くルクノウより僅かに幼い少女だった。
――ファウステルとオルガが姿を現したのである。
「お久しぶりです」
『せっかくの私たちの登場なのに、驚きもしないなんて、可愛げのない子孫だこと!』
オルガは宙に浮いてしまいそうなほどに、大きく口を膨らませる。
『まあまあ、良いではないか。こうしてワシらの“導き”に応えてくれているんじゃから』
ファウステルは、オルガに微笑みながら諭す。
「導き……ですか?」
『ルーちゃんの前に現れるには、ルーちゃん自身の呼びかけがないとダメなのよ』
「いや……僕は呼んでいませんよ?」
『導きの声を必要とする時、扉は開かれるのじゃよ』
『そうよそうよ! しっかりと私たちが導いてあげるから安心しなさい!』
「でも、今は本当に困っていないですよ?」
『ほんっと、可愛げのない子ね。誰に似たのかしら?』
『ワシらの誰かじゃな』
ファウステルは癖のように髭を撫でる。
『って! 今はそんなことを悠長に話している時間はないの!』
「喧嘩しないでくださいよ……」
祖先たちの勢いに押されるがまま、ルクノウは二人から“とある昔話”を聞くことになった。
かつてこの地には立派な村があった。
“夕鐘の村”と呼ばれたその村は、その名の通り、夕暮れ時になると美しい鐘の音色を響かせていた。
鐘の音は、村に終業の合図を告げ、人々は一日の営みを終えて明日に備える。
そのような意があったそうだ。
(それで誰も村にいなかったのか……?)
「でも、この村の鐘は、しばらくの間使われていないようでしたけど…」
『そうねえ。今はもう使われていないわ』
『鐘が使われなくなった“切っ掛けがあるのじゃよ』
「切っ掛け……ですか」
『“あれら”は悪意もなく、突如として村人たちの営みを奪い始めたんじゃ』
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「……そんな迷信、いつまで信じ続けるつもりなんだ!」
“夕鐘の村”の会合に、一人の若者の声が響き渡る。
「あの鐘が俺たちを何かから守っているなんて、ただの幻想にすがってるだけだ! あんな耳障りな鐘はいっそのこと取り壊してしまえばいい!」
声を荒げる一人の若者――新たな村長は、改革を望んでいた。
そんな村長の言葉に、会合に参加した者たちは当然のことながら、ただ困惑していた。
「村長……あの鐘は、ご先祖様の代から続く大切な儀式でございます。毎日響くあの鐘の音が、村の平穏を保ってきたのです。どうか……どうかあの鐘だけは取り壊してはなりません。必ず後世へと守り継がねばならぬのです」
村の長老が若き村長の強い言葉に怯えながらも諭す。
しかし、村長は先人の訴えを遮る道を選んだ。
「その平穏が、どれほどの実りをもたらした? 俺は変えたいんだ、この村を。もっと確かな利を求めるべきだ。土地も広大にある。古いしきたりに頼らずとも、この村はやっていける」
確かな信念を持った言葉は、会合に参加したものの心を突き動かす。
これがただの若者のわがままであれば、この村の行く末は変わっていただろう。
――そう、それがすべての始まりであった。
長老たちは、最後まで首を縦に振ることはなかったが、民意はそうではなかった。
結果として、鐘が櫓から降ろされることになったのだ。
鐘を鳴らすことのないように縄は断たれ、鐘のある鐘楼は立ち入りを禁じられた。
村には、その日を境に静かな異変が始まった。
子どもたちが咳をこじらせ、何人かは言葉を発さなくなった。
井戸の水が妙にぬるく、味が変わったという声が上がった。
家畜が次々に病を患い、収穫も次第に減っていった。
「夕鐘を鳴らさなくなってから、何かが狂いはじめた」
と、次第に若者の間でも囁かれるようになった。
「……こんなことは偶然だ! お前たちが怯えるから、そう見えるだけだ!」
若き村長は聞く耳を持たない――否、もう後戻りはできなかった。
かくいう彼自身も、夜になると胸が苦しくなり、眠れない日々が続いた。
しかし、彼が誤ちを認めるには、失ったものがあまりにも多すぎたのだ。
そうして村は少しずつ、かつ確実に、干からびていった。
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「鐘を鳴らさないだけで、村は衰退したんですか?」
ことの顛末を聞いたルクノウは、疑問を口にする。
『その鐘が、どれだけの“力を”持っていたと思う?』
オルガは小さな腕で力こぶを作りながら問いかける。
「力……」
『夕鐘の村にはね、昔から、“精霊”との間にとある契りが交わされていたのよ』
「え……精霊なんて、御伽話の中だけじゃないんですか?」
『今はもう、ただの御伽話ね』
そう、“今”は。
『鐘の音がならないことで、精霊との日々を収めることができない。つまり、“精霊との生命のやり取りを終えられない”ということじゃ』
『ルーちゃんなら、もうわかるでしょ?』
「……それって、終わらなかった分だけ、奪われ続けるってことですか?」
『そう。それがこの村を襲った力であり、交わされた契りだったのよ』
『精霊が生命力を得ることに制限はなく、それらの悪意なき力は不治の病と化したのじゃ』
「それじゃあ、もうこの村の人たちは……」
『とっくの昔に滅んでいるわ』
オルガは淡々と答える。
「そんな……カノン村のあの日にも、こうなる道があったのかな」
『どうじゃろうな。精霊たちは時に無垢な牙を人に向ける。今のカナン村があるのはそなたらの働きあってこそじゃ』
『……ところで、ルーちゃんは明日何をするつもりだったの?』
「今日は出払っているようでしたので、また出直して話を伺おうかと……」
オルガへ返答したルクノウは、自身の言葉の矛盾に気づく。
「あれ? もうこの村はとっくに滅んでいるんですよね?」
『そうね……でも“貴方”には人の気配がしたのよね』
オルガの声色が、不思議と大人びて聞こえた。
「どうして……」
『これが“綻び”よ』
「綻び……」
『貴方にはその綻びを感じる力があるわ。力をどう使うかは貴方次第。きっと答えは……貴方の中に』
ファウステルとオルガが顔を見合わせ、優しい目をしてルクノウを見つめる。
『導く者としての助言は以上じゃ。近いうちにまた会えるじゃろう』
「わかりました……僕、頑張ってみます」
ルクノウは戸惑いよりも、自身に課された使命を不思議と受け入れていた。
『ルーちゃんならできるわ! またね!』
火の粉がバチッと音を立て、時が再び動き出した。
ルクノウは少し考え、明日もう一度村を訪れることにした。
朝になると、昨日感じた違和感がいっそう増していた。
「これは……一体……」
“人の気配がする”という以前の問題だ。
洗濯物が風になびき、そこかしこから香ばしい煙が立ち、食事の匂いが漂う。
歪な光景が広がる中、依然として人影は見当たらない。
「急がないと……」
何故か“このままではいけない”という思いに駆られた。
そう直感が告げていたのだ。これも“選ばれし者”としての力なのだろうか。
ルクノウは頭で考えるよりも先に、昨日見た鐘のある場所へと足を運んでいた。
「……昨日は錆びていたよな」
掲げられた鐘が――黄金の輝きを放っていた。
そして、昨日のほつれが嘘のように、縄は凛々しく伸びていた。
「「私が間違っていたのだ……すまなかった……」」
こだまするように、どこからともなく声が聞こえた。
「「私が間違っていたのだ。若さと自信に酔い、改革こそが正しいと信じて疑わなかった。すまなかった。村を、皆を、守れなかった」」
姿は見えず、声だけが、風に乗って耳元へ届く。
(改革……もしかして……)
ルクノウは、昨日、ファウステルから聞いた話を思い出していた。
「もしかして、あなたは“夕鐘の村”の村長さん……ですか?」
空へと問いかけるが、返事はなかった。
「「願わくば、また皆で安寧の地を築き上げたい……」」
これは独白だ。
語りかけているのではない。
ルクノウにはそう思えてならなかった。
「……その願いは、きっと届くはずです」
この地に縛られていたのは、なにも村長一人だけではない。
結果はどうあれ、多くの村人が若き村長に希望を見出し、共に歩んできたはずだ。
そして、これからも。
(今、僕にできることは……)
ルクノウは、迷わずに手を伸ばした。
鐘から伸びた縄を両手で掴み、力一杯に大きく振った。
それは“夕鐘”に相応しく、綺麗で荘厳な音色を奏でる。
村は黄昏に包まれる。
光の粒が黄金に輝く鐘を、いっそう暖かく照らす。
触れることのできない光の粒は、ルクノウの背中を押すように宙へと舞っていった。
どこまでも高く登る光を、ルクノウは目で追っていた。
「「……ありがとう」」
感謝を告げる声がした。
ルクノウには、願いの叶った者の声にも聞こえた。
「どうか、安らかに眠れますように」
手を胸に当てて俯き、祈るよう目を瞑る。
「……」
しばらくしてから顔を上げると、まるで最初から何もなかったかのように、森と野の景色が広がっているだけだった。
だが、すべてが消えたわけではない。
足元に目を落とすと、一輪の花が咲いていた。
純白の花びらを纏い、控えめに俯いている。
それは――鐘の形をしていた。
どこまでも澄んだ空の下、風がやさしくルクノウの頬を撫でていく。
風に靡いた一輪の花からは、ささやかながらも凛とした、祝福の鐘の音が聴こえた。




