第十七話 敗戦
第十七話 敗戦
「口惜しい! 目の前に家康がいながら……!」
キキョウは奥歯を噛み締めた。あの安土の饗応の際、家康は知っていたはずだ。出された料理が、光秀が心を尽くした最高の一品であったことを。
それなのに、主君が信長に打ち据えられ、理不尽な屈辱を受けるのを、奴はただ黙って見ていた。その沈黙こそが、家康の犯した大罪であった。
「し、しかし……今は光秀様の元へ戻るのが先決。家康め、いつか必ずその寝首をかいてやる!」
キキョウは手勢を率い、風を巻いて坂本へと引き返した。
戦支度を急ぐ光秀の元へ辿り着いた時、キキョウは息を呑んだ。
「ハァ、ハァ……光秀様! あの猿めが、すぐそこに……!」
報告しようとした言葉が、喉で止まる。光秀の顔には、隠しようのない「死相」が色濃く浮かんでいた。
(……っ! 何故だ、私にそんな力はないはず。本能寺で信長の呪いを受けたせいか……)
キキョウの直感が、かつてない警鐘を鳴らす。
「殿……この戦、危ううございます……!」
キキョウは初めて、主君に「逃げ」を勧めたかった。だが、光秀は淡く笑った。
「ふ、猿ごときに私が負けるとでも思うか? キキョウ……奴を討てば、最早明智に仇なす者はおらぬ。さあ、討ち取ろうぞ!」
運命の地、山崎。
秀吉の強行軍は、明らかに疲弊していた。兵数こそ劣れど、布陣は完璧。
(勝てる……勝てるはずだ!)
しかし、信じていた細川幽斎、忠興父子が動かない。
以降、ガラシャ(玉)は生涯、この幽斎、忠興親子を許さず、自らも魔導の道を歩む事となる。
また、期待した近隣の豪族たちも、冷徹に旗色を伺うばかり。
なし崩しに始まった合戦は、僅か半日で明智軍の敗北に終わった。
「殿、坂本へ! 坂本城でもう一戦!」
秀満は琵琶湖を馬で渡るという伝説的な退却で坂本へ帰陣をする。
光秀と共に山崎を脱するキキョウの意識は、猛烈な頭痛に掻き乱されていた。
(もう、これ以上。我が主君を、あんなにも心優しかった光秀様を、これ以上惨めな思いにさせたくはない。)
その想いが臨界点を超えた。
キキョウの瞳に、人間のものではない夜叉の火が灯る。
(光秀様……あなた様の首を、あの卑しき猿に渡すわけには参りませぬ……!)
「キキョウ、坂本に帰れば、まだ……」
前を歩く光秀の背中に、キキョウは音もなく近寄った。そして、迷いなく、かつて光秀から受け取った脇差を光秀の右脇腹へ深々と突き立てた。
「ぐっ、おおお……!? キキョウ……何を……」
「お許しください……あなた様の誇りを守るには、これしか……」
キキョウがそう呟いた瞬間、彼女の背後の空間が、本能寺の時と同じように不気味に裂けた。抗う間もなく、キキョウの体は漆黒の亜空間へと吸い込まれていく。
「殿……光秀、様……!」
キキョウの叫びを最後に、裂け目は消えた。
その後、光秀の生死は謎に包まれた。秀吉は、落ち武者狩りの百姓が持参した適当な首を「光秀のもの」と決めつけ、大盤振る舞いの黄金を渡して天下への階段を駆け上がっていった。




