第12話 礎(いしずえ)
第12話 礎
光秀が母・お牧の方を人質として送った頃。安土の信長は、苛立ちにその自我を支配されようとしていた。
「光秀……奴はまだ丹波を平らげておらんのか」
「はっ。光秀殿は着陣間もなく。平定にはまだ時がかかりましょう」
側近の言葉を、信長は冷酷に切り捨てた。
「手緩い。波多野を引きずり出す『策』を与える」
その「策」――すなわち和睦の破棄と人質殺害の報が届いた瞬間、黒井城内は怒号に包まれた。
「織田右府は卑怯者なり! 光秀の母を、生贄として討ち取れ!」
(な……何ということ……!)
キキョウはお牧の方の前に飛び出した。何としても、この命に代えても主君の母を守らねばならない。
キキョウは咄嗟に煙玉を投げ込み、混乱に乗じてお牧の方を連れ、黒井城を脱出した。
しかし、峻険な山道。老齢の女性を連れての逃走は困難を極めた。背後からは波多野の追手が、獣のような執念で迫る。
「キキョウ……もう良い。私の足では、逃げ切れまい」
「方様……!」
お牧の方は、足を止めてキキョウを見つめた。その瞳には、死を覚悟した者だけが持つ、透徹した輝きがあった。
「そなたは光秀に、私の死に様を伝えなさい……。あの第六天魔王では、世は平らかにはなりませぬ、と。光秀なら、その意味を理解できます。さあ、行きなさい!」
「……っ」
キキョウは草叢に身を隠し、声を殺してその様子を見届けた。
追いついた雑兵たちは、お牧の方を近くの松の木に括り付けると、その胸を幾度も槍で貫いた。朱に染まってゆく白い着物。キキョウの視界が、涙で歪んだ。
(方様……申し訳、ございません……)
夜の闇に紛れ、キキョウは這うようにして光秀の陣へと戻った。
「はぁ……はぁ……。キキョウ……戻り、ました……」
泥と血にまみれた少女は、疲労の極致にあり、光秀の目の前で崩れ落ちた。朦朧とする意識の中で、うわ言のようにお牧の方の名を呼び続ける。
その姿を見た光秀は、すべてを悟った。母はこの世にいない。信長が、自らの手柄のために母を殺したのだ。
(……おのれ、信長……!)
怒りに狂った光秀の軍勢は、その後の力攻めで黒井城を文字通り粉砕した。残る八上城も兵糧が尽き、頼みの綱であった「赤鬼」赤井直正が病没したことで、ついに陥落。
ここに、お牧を犠牲にした丹波攻略は平定された。
皮肉にも、信長の非情な策が丹波平定を数年早める結果となった。だが、その引き換えに失ったものはあまりに大きく、光秀の胸中には「本能寺」へと続く黒い炎が静かに、だが確実に灯っていた。




