8
ひとしきり涙を流したあと、ハジメは店員達に謝った。
「ごめんなさい、泣いたりして」
「謝らないで。悪いのはいっちゃんだよ」
「そんなに責めなくたって……悲しませたのは、本当に悪いことだけど」
なおも店員を責める天の声と、バツが悪い様子で目を泳がせる当の本人。鼻をすすり、ハジメは写真を揃える。妹の名残はこの写真だけだ。大切にしよう。
「会わせるってことは、生きてるってことだよね」
ぽんと手を打ち、店員はハジメに聞く。たぶん、そういうことになるのだろう。頷くや否や、更なる天の声の非難を他所に、店員は提案した。
「妹ちゃんの写真、一枚借りていいかな?」
「いいけど、どうするの?」
「貼り紙作ろう!ショーケンさんだけに任せないで、こっちも動くんだ」
「ねえ、ショーケンさんが会わせるって言ってるんでしょ?僕らは余計なことしない方がいいんじゃないかな」
「でもさ、ここ十年何やってたのかも怪しいモノでしょ?そんなのに任せるの?」
聞いてるこちらが不安になるような言葉を受けて、天の声は沈黙する。店員は自身の名案をハジメにもう一度説明する。
「この写真を使って、貼り紙を作るの。この子を探してます、って。ウエズさんの所とかなら、色んなヒトに見てもらえるんじゃないかな」
「……いいかも!」
ハジメは目を輝かせる。妹は死んでいないと、ショーケンは言っていた。なら、どこかに手がかりを知るヒトもいるはずだ。
早速、妹の写真を一枚選ぶ。ハジメをぽかんとした様子で見つめている写真を差し出すと、店員は笑顔で頷いた。
「うん、この写真なら顔つきもわかりやすくていいね。それじゃあ拡大印刷っと」
「……ほんとにいいのお?」
「大丈夫大丈夫!連絡先は、とりあえず此処のを載せとこうか。ショーケンさんの住所わかんないし、電話ないだろうし」
「住所わかんないけど、おうちはここ」
先程貰った地図を広げる。店員は紙面を覗き込み、感嘆の声を漏らした。
「これ……構内のパンフレットだ」
「うわ、年代物」
「スキャンしよ、スキャン!」
「ダメだよ、ヒトの勝手に複製しちゃあ」
一悶着の後、店員は「住所」のみを裏紙にメモする。
「すぐ終わるから……とりあえず五分だけ待ってて!」
そうしてメモと写真を片手に、店の奥へと消えていった。後に残されたハジメに、天の声が聞く。
「飲み物のおかわり、いる?」
ありがたく頂戴することにした。
野菜ジュースを飲み干した頃、店員が戻ってくる。メモの代わりに、妹の写真が大きく描かれた紙を何枚か手にしている。
「これでどうかな?」
畳の上に紙を一枚敷く。
妹を探しています。
ご連絡はこちらまで。
ハジメでも理解できる平易な文が、妹の顔の隣に記されていた。
「……うん!ありがとうございます」
「これでいい?じゃあ、何枚か印刷したから一枚は此処に貼るね!残りは」
「貼ってくる。いろんなとこ」
今度はこちらから提案する。ウエズさんのいる西口までの道は覚えているし、道すがら色んなところに貼り付けられるはずだ。
満足げに頷く店員の頭上から、たしなめるように声が降る。
「貼り紙は、ちゃんと掲示板に貼ってね。貼ってもいい場所に貼らないと、捨てられたり、怒るモノがいるから」
神妙に頷くと、天の声は穏やかな声音で「約束ね」と付け加えた。
写真と貼り紙のお礼を告げて、ハジメは店を後にする。一先ず西口に向かうことにした。そこならきっと「貼ってもいい場所」があるだろう。
暖簾の店先が並ぶ一画で、路地から伸びた細い手がひらひらと手招いていた。掴まれないように注意して通り過ぎる。無数の手がみっしりと詰まった路地を横目に、ハジメはほんの少し達成感を覚えた。
明滅する電灯と割れた電灯が交互に並ぶ通路の先に、見覚えのある事務所と階段が見えた。事務所が明るいことを確認して、ハジメは駆ける。
「こんにちわ」
なるべく元気よく挨拶をする。ガラスの窓が横に開き、ガスマスクが覗いた。
「こんにちは……あれ、ハジメさんだっけ」
聞き覚えのある穏やかな声に安堵しつつ、ハジメは頷く。ガスマスクの上半身が窓から乗り出した。
「かっこいいカメラだね。どこかにお出かけ?」
カメラのことを褒められて、照れ隠しにポスターを差し出す。
「これ、はるのお願いにきました」
ハジメの手からポスターが離れる。ガスマスクは紙面を眺めて、深く頷いた。
「妹さんを、探しているんだね」
「はい」
「わかった。ここに掲示しようね……ああ、何枚かあるんだ。じゃあ、僕が他の区域の掲示板にも貼ってくるよ」
紙と交換するように、ガスマスクは飴を三個渡した。ポスターと飴、両方のお礼を告げて、ハジメは手を振り立ち去る。
「あ、待ってハジメさん!」
慌てた様子でガスマスクは初めを呼び止める。窓口から姿が消え、物陰の扉を開けて走り寄る。
「ショーケンさんのおうちにまっすぐ戻るなら良いけど、あまり遠くに行っちゃダメだよ。特に北口は危険だから」
「おしえてもらった」
もう一度地図を出して見せる。あ、と小さく声を漏らしてガスマスクは呼吸器付近を軽く掻く。
「良かった。この地図の通り、危険な場所に近づかないでね」
「はい」
「それと、地図の場所以外でも注意すること。何かあったらここに来てね。僕がショーケンさんが来るまで一緒に待つし、なんなら送るから」
頼もしい申し出に、ハジメは小さく頷いた。でも、それは今ではない。一先ずガスマスクと別れて、「安全」な場所を確認する。
まだ、長屋に帰るべき時間ではないはずだ。
地図を眺めつつ通路を歩く。追い越されたり、追い越したり、すれ違ったり。屋台通りや何でも屋前の通り程ではないにしろ、どこもある程度の人通りはあるらしい。
しかしその往来が、不意に無くなった。
長い長い線路沿いの通路と地図を照らし合わせる。ハジメの読み方が間違っていなければ、特に「危険」と言われた場所では無い。
何かあったのだろうか。
あるいは、これから起きるのだろうか。
道端で立ち止まったハジメの側で、鳥の飛翔音が響いた。
びっくりして辺りを見回す。
消えた往来の代わりに、鳩が群れをなして架線や通路沿いに止まっていた。
鳩のつぶらな瞳を見つめる。
「お嬢さん」
囁き声が聞こえた。足元に視線を落とすと、通路沿いの排気口と目があった。
「それは先駆けだ」
排気口の中の何かが瞬きをする。
「さきがけ?」
「早く隠れなさい」
そう告げるなり、排気口から気配が消える。
皆、逃げたのだ。
ハジメは元来た道を戻ろうとする。
先程はすれ違う人間も多かった通りに人影は無い。ただ潜むような息遣いが、そこかしこに在った。
金属の擦れ合う音が響く。どこまでも続く線路の先で、蛍光灯の明滅に合わせて何者かの姿が現れた。
先日と同じ白装束を纏い、鳩を侍らせ、ソレは歩む。暫くハジメは現実感のないソレを見つめ、拾い主の言葉を思い出した。
離れるべきなのだろう。
踵を返し、元来た道を引き返そうとする。
「待て」
ソレの声がハジメを引き留めた。思わず後ろを振り向くと、袖が擦れそうなほど近くにソレは立っていた。息をのむハジメの足元に、鳩が纏わりつく。
ソレが身を屈める。白い布の下で、男女の判別のつかない声が発せられた。
「煙草の匂いがする」
ショウケンの手の者か。
極近くで、ソレは囁く。立ちすくむハジメの周囲を、ソレは観察するように回りはじめた。裾の擦れる音だけが、妙に大きく聞こえる。
「そしてそれ以外は、何も無い。妙なことだ」
呪いも。
縁も。
ハジメの真後ろで、杖を地に打ち付けるような音が響いた。金属音が耳を苛む。音と衝撃が家での出来事と重なって、足が震える。
「何があるのか。何を観たのか」
そうして再びハジメの前に立ち、身を屈めた。
「手を」
籠手に包まれた右手が差し出される。ハジメは少しの間考えて、頭を下げた。
「……ごめんなさい。はやく帰らなきゃ」
「手を」
先程と同じ抑揚で、言葉が繰り返される。足元で彷徨く鳩も、急かすようにこちらを見上げている。
用件を済ませれば、帰してくれるのだろうか。
おずおずとハジメは右手を出す。
細い手首を、厳しい手が軽く覆う。冷たい親指が脈を測るように撫でた。
籠手の仰々しさとは裏腹に、優しげな手つきであったことを、少し意外に思う。
「あの」
白衣の覆面を見上げる。
途端、手首を握る腕に力が籠った。
驚いて手を引こうとする。ハジメの微かな抵抗など意にも介せず、白衣の腕は徐々に締め付ける力を増していく。
「はなしてください」
何度も告げる。静かな通路でハジメの震え声と鳩の地鳴きだけが響く。
手を振り解こうにも、ソレはびくともしない。自身の掌が赤黒く染まっていくのを見て、ハジメはパニックを起こす。
「はなして」
指先が痺れ、骨が軋む。更なる圧迫が加わった。
「痛い、痛い!」
ソレが軽く手を翻す。
ハジメが叫ぶと、ソレは捻った手首を呆気なく離した。地べたにしゃがみ込み、力のこもらない掌を庇う。
逃げなきゃ。
無事な左手で身体を支え、立ち上がる。振り向いた視界が、白い布で覆われた。
「こちらへ」
右手を優しく握り込まれる。あらぬ方向に捻じ曲がった手首を見て、ハジメは過呼吸を起こした。
「ショウケンを待とう」
鉄の匂いが染み付いた袖がハジメの肩を抱き寄せる。しゃくり上げながら、ハジメはなされるがままにされる。
暫く、ハジメとソレは薄暗い路地で立ち尽くした。足の合間を鳩が通り、時折様子を伺うように見上げる。最初は泣きじゃくっていたハジメも、痛みで朦朧としてきたのか段々と無反応になっていた。
その間ソレは、ハジメの背を優しく叩いたり、伝う涙や鼻水を袖で拭ったりと世話をする。時折首筋の一点を脈を確認するようにぐいと押し込んでは、ハジメを一層怯えさせた。
「来ないか」
立ち疲れてしゃがみ込んだ頃、ソレは無感情に呟いた。足元ですすり泣くハジメの傍で膝を折る。
冷たい籠手が、左腕を掴んだ。
「もう一度、試そう」
小さな掌を両手で包み込む。慈愛に満ちた仕草を見て、ハジメは再び泣き叫んだ。
紙か何かのように、ハジメの手はくしゃくしゃに潰されてしまうのだろう。徐々に力が加わる手を振り解こうと必死になる。
視線を感じるのに、誰も助けには来てくれない。地上での扱いを思い出して、虚しさのようなものが込み上げてきた。
籠手の合間から見える指が青くなっていく。
「待て待て」
誰かが諌めるように声を上げ、鳩の鳴き声が止んだ。
握り込まれた手が軽くなる。籠手が離れ、ソレはハジメから幾分か距離を取った。
「お前が来たか」
白衣が呟く。それまで一欠片も感じ取ることが出来なかった感情が、その言葉にはこもっていた。
もっともそれは「負の感情」と言うものが近しいのだろう。
ハジメは振り向く。
誰もいなかった通りに、ただ一つ影があった。
人間とは思えない。
鋏がある。
「見てられなくなってな」
鳩の群れが割れ、影が通る。図書室の図鑑で見た蟹によく似た姿のソレは、つぶらな瞳でハジメを見上げた。
「まったく。誰かを呼ぶなら直接出向けばいいものを」
「会おうとしても、巡りが悪い。向こうから来るのを待つのが得策だ」
そうして無造作にハジメの右腕を掴んだ。折れた手首を圧迫されて、目の縁から涙がこぼれる。
「今日はそれっぽい理由があるな。厄介だ」
どこにあるのかもわからない口で、蟹はため息のような呼吸音を漏らした。
「だとしても、その子があまりにも不憫だ」
鋏を振りかざす。
「放したまえよ」
手首を握る力は弱まらない。
鳩が何羽か飛び立ち、白衣の肩に止まった。
「お前はすぐに縁を切って逃げる。この上、他の者との縁も切るのか。つまらない奴だ」
「なんとでも言え」
小気味良い音を立てて鋏が開く。
「ともかく、この縁はここまで」
何かが切れた。
ハジメの傍らから白衣の気配が無くなり、右手が解放される。力が抜けてへたり込むと、人々のざわめきが染み出すように辺りに響いた。
「大丈夫かね」
かちゃかちゃと足音を鳴らして蟹が近寄る。ハジメのひしゃげた手を器用に鋏の背に乗せ、黒々とした眼で見つめた。
「安心したまえ。こういう怪我は川の奴らが得意だ。ほら、歩けるかな」
鼻をすすりながら立ち上がる。蟹に導かれ、ハジメは線路沿いの通路をとぼとぼ歩き出した。
「ありがとうございます」
呂律の回らない声で感謝を告げる。
「君は……あまりこんな言葉は使いたくないが、運が良い。私はそもそもあいつとは関わらないようにしているからな。そういう縁が繋がる日もあるのだろう」
対向からやって来た男性が、蟹に会釈をする。続いてハジメに目を向けて、気の毒げに眉を下げた。
「今日は少し事情が違ったようだが……時折ああやって、適当なナニカを餌にするのだ」
「エサ」
「よく泣き叫ぶ餌を置けば、正義感に駆られた者が来る。そういう奴を使って引っ掻き回すのが好きなのだよ。いや、好きというよりはそうせざるを得ないと言うべきか」
蟹の多脚が地を引っ掻く音が止んだ。つられてハジメも立ち止まる。
「ところで、キミはショウケンとはどういう関係なんだ」
突然の質問にハジメは戸惑う。何から説明したら良いのだろうか。
「えっと、助けてくれて、いもうとに会わせるから家にいろって」
「うーん犯罪の匂いがするな」
ぶくぶくと蟹は泡を立てる。
「大丈夫かね」
「うん。平気です」
「そうか、なら良いんだが……何にせよアレがキミをそばに置いておくという事は、何かしら観たのだろう」
一転、憤慨するように鋏をかち合わせた。
「しかしそれなら、もっと気を使うべきだ。煙草の煙なんぞではムジナも追い払えないぞ」
再び地を甲殻の脚が擦る。
「取り敢えず怪我を治して、それからショウケンに文句を言おう」
「はい」
病院に良い思い出はあまり無い。お母さんがぴったりとくっついて、おかしな事を言わないように見張るのだ。ハジメは本当の事を言うつもりなんてないのに。
でも、もうそのお母さんもいない。素直に蟹の言う事を聞こう。
「ありがとうございます。えっと……」
口ごもる。しばらく俯いて、やっと「お名前は?」と質問をすることが出来た。
「名前。名前か」
どこか上の空な口調だった。歩みを止めないまま、蟹は言う。
「恥ずかしながら、名乗れる名前が無いのだよ。忘れてしまったからな」
どこからか蟹は笑い声を漏らした。慌ててハジメは聞く。
「お名前わすれたの?どうして?」
「さあ、何故だろう。ただそんなモノは珍しくも無い。地上でも此処でも」
ぱちぱちと鋏が鳴る。
「憶えているのは、権能だけだ」
僅かに沈んだ声だった。しかしすぐに、元の朗らかな口調で告げる。
「ああしかし、よく蟹さんなどと呼ばれる」
「カニさん」
「うん。それが一番慣れている。では、キミの名前は」
「えっと、マツマルハジメです」
「ハジメくんか」
自己紹介を終えて、二人は短い会話を交わしながら「医院」へ向かう。折れた手は痛むが、ごく僅かな会話がその怪我から気を逸させてくれた。
人通りが増え、見覚えのある通りに出る。蟹が進むと人混みが割れ、道ゆく人が愛想よく微笑み、挨拶をする。
「散歩かね」
追い越し様、ひび割れた能面が声をかける。蟹はちょいと鋏を振り、なんでもないように答えた。
「いいや、この子を医院まで連れていく途中だ」
そうしてハジメの様子を確認するためか、軽く甲を斜めに傾けた。
「あともう少しだ」
その言葉に元気付けられ、ハジメはせかせかと足を動かす。
はたして、カニの言う通り路地の先に薄暗い看板が現れた。幾何学的な図形の集合と「骨接」という文字の下で、きれそうな電球が不規則に瞬いている。
鋏で器用に引き戸を開け、蟹は店に入る。
「急患だ」
蟹の甲羅の上から店内を覗き込む。薄暗い小上がりで、滑るような反射が見えた。
「さ、中へ」
蟹に続いて、土間に踏み込む。少し質素で整頓されている点を除けば、造りはガラクタ屋とほぼ同じだった。
「どれ」
小上がりに腰掛けたモノが、水掻きの付いた手で招く。蔓を編み上げた冠から垂れ下がったシダが、さらさらと音を立てた。
一瞬、ハジメは蟹の目を見つめる。先程の白衣から受けた仕打ちを思うと、中々手を差し出すことが出来ない。
「安心したまえ。鳩の奴よりはずっと優しい。患者には厳しいがな」
そんなハジメの心を鑑みたのか、朗らかに蟹は返す。小さく頷いて、ハジメは捻くれた右手を見せた。
「酷いありさまだ」
冷たい手が、ハジメの肘を軽く支える。暫くシダの間から視線が注がれる。
「ぬう」
シダの冠が唸った。
「これは、薬では治らん」
その言葉に、ハジメは狼狽する。傍らの背の低い薬棚へ手を伸ばし、天板の上で縺れていた包帯を取りながら冠は呟いた。
「わかって連れてきたか」
「薬に頼らずとも、治るだろう?」
「治りはするさ。患者次第だが」
添木を当てられながら、ハジメは不安げな声で問う。
「なおらないんですか?このまま?」
「このぐらいの年だったら、無理をせず飯をもりもり食えば骨の二本や三本すぐくっつく。安心しなさい」
抑揚のない声でシダの冠は答える。安心、と言われてハジメはほんの少し肩の力を抜いた。
「呪いやらであっという間に治すことは出来ない、というだけだ」
瞬く間にハジメの腕は包帯と添木で固定される。端切れを継ぎ接いだ三角巾を首に結え、右手を吊す。
「首に負担は。楽かな」
「はい」
「まあ、飛び出てたりごちゃ混ぜにはなっていなかったのは幸いだ」
薬棚の引き出しから紙包を取り出す。
「痛み止めだ。つける薬ではないからな」
「ありがとうございます」
「一つは今飲んでいきなさい」
紙包を手渡され、次いでお猪口が差し出される。空のお猪口の底から水が滲み出て、微かに湯気を上げた。
「白湯だ」
紙包の中身を口に開け、お猪口のぬるま湯で流し込む。
美味しくはないが、胸の内が少しすっきりとした。
「で、金は」
いくつか紙包を渡して、シダの冠は短く聞いた。
ハジメが小物入れを探していると、すかさず蟹が鋏で制する。
「ショウケンに出させるべきだ。曲がりなりにも保護者なのだろう」
「めいわく、かけちゃうから」
既に迷惑はかけているのだろう。その上今回は、「近付くな」と言われていた神霊と接触して怪我を負ってしまったのだ。
きっと物凄い剣幕で怒るのだろう。
沈むハジメに、水掻きのついた手が紙切れを差し出す。
「ではホゴシャとやらにこれを」
数字の並んだ紙切れを、ハジメではなく蟹が受け取る。紙面を眺め、ため息をついた。
「軟膏を買うよりは安いな」
「出来ることが限られていたからな、この子は」
包帯を無造作に纏めて元の場所に戻す。滑らかな指を二、三回握り込み、シダの男は呟いた。
「ここでは生き難いだろう」
その言葉の意味をぼんやりと考えていると、蟹が袖を軽く引いた。
「さ、ショウケンのもとへ行こうか」
小上がりから腰を上げ、ハジメは医者に向かって礼を告げる。
「ありがとうございました」
「世話になった。金はすぐに毟り取ってくるからな」
蟹もまた鋏を振り礼を述べる。
店を出て、再び蟹に導かれ通りを行く。横歩きをしながら蟹は不意に告げた。
「生き難いとまでは行かないが、気をつけた方は良いだろうな」
「ケガのこと?」
「それに関することでもあるが、ハジメくん。キミは奇妙な性質を持っている。何というか……障ることが出来ない」
首を傾げる。
「さわる?さっき、包帯まいてくれた……」
「ああ、触れることは出来る。見ることも出来る。キミは確かにここに在るのに、呪いや加護で干渉する事が出来ないのだ」
蟹の瞳がつぶさに、ハジメを見つめる。思わずハジメは「気をつけ」の姿勢を取った。
「……縁も一本しか見えん。血縁だ。それ以外は何も観えない。繋がりがない。過去にも未来にも」
蟹は独り言のように呟く。どうにもハジメには難しい話で、所在なくもじもじと指先をいじる。
ただ一つ、気になったことがあった。質問をする。
「けつえんって、なに?」
「血の繋がり、要は家族のことだ」
蟹の返事を聞いて、ハジメは嬉しくなる。たった一本の血縁に、心当たりがあった。
「いもうと?」
「いや、そこまではわからない。だが妹がいるのなら、そうなのだろう」
大事にしなさい。
蟹の言葉に、ハジメは満面の笑みで頷く。
会わせてやると言っていたショーケンの言葉よりも、蟹の言葉が嬉しかった。
妹は確かに存在していて、今も「エン」というもので繋がっている。
そんな幸せな想像が、ハジメの胸の内を温めた。




