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此岸顕現観測編  作者: あがり
8/11

8

 ひとしきり涙を流したあと、ハジメは店員達に謝った。


「ごめんなさい、泣いたりして」

「謝らないで。悪いのはいっちゃんだよ」

「そんなに責めなくたって……悲しませたのは、本当に悪いことだけど」


 なおも店員を責める天の声と、バツが悪い様子で目を泳がせる当の本人。鼻をすすり、ハジメは写真を揃える。妹の名残はこの写真だけだ。大切にしよう。


「会わせるってことは、生きてるってことだよね」


 ぽんと手を打ち、店員はハジメに聞く。たぶん、そういうことになるのだろう。頷くや否や、更なる天の声の非難を他所に、店員は提案した。


「妹ちゃんの写真、一枚借りていいかな?」

「いいけど、どうするの?」

「貼り紙作ろう!ショーケンさんだけに任せないで、こっちも動くんだ」

「ねえ、ショーケンさんが会わせるって言ってるんでしょ?僕らは余計なことしない方がいいんじゃないかな」

「でもさ、ここ十年何やってたのかも怪しいモノでしょ?そんなのに任せるの?」


 聞いてるこちらが不安になるような言葉を受けて、天の声は沈黙する。店員は自身の名案をハジメにもう一度説明する。


「この写真を使って、貼り紙を作るの。この子を探してます、って。ウエズさんの所とかなら、色んなヒトに見てもらえるんじゃないかな」

「……いいかも!」


 ハジメは目を輝かせる。妹は死んでいないと、ショーケンは言っていた。なら、どこかに手がかりを知るヒトもいるはずだ。


 早速、妹の写真を一枚選ぶ。ハジメをぽかんとした様子で見つめている写真を差し出すと、店員は笑顔で頷いた。


「うん、この写真なら顔つきもわかりやすくていいね。それじゃあ拡大印刷っと」

「……ほんとにいいのお?」

「大丈夫大丈夫!連絡先は、とりあえず此処のを載せとこうか。ショーケンさんの住所わかんないし、電話ないだろうし」

「住所わかんないけど、おうちはここ」


 先程貰った地図を広げる。店員は紙面を覗き込み、感嘆の声を漏らした。


「これ……構内のパンフレットだ」

「うわ、年代物」

「スキャンしよ、スキャン!」

「ダメだよ、ヒトの勝手に複製しちゃあ」


 一悶着の後、店員は「住所」のみを裏紙にメモする。


「すぐ終わるから……とりあえず五分だけ待ってて!」


 そうしてメモと写真を片手に、店の奥へと消えていった。後に残されたハジメに、天の声が聞く。


「飲み物のおかわり、いる?」


 ありがたく頂戴することにした。


 野菜ジュースを飲み干した頃、店員が戻ってくる。メモの代わりに、妹の写真が大きく描かれた紙を何枚か手にしている。


「これでどうかな?」


 畳の上に紙を一枚敷く。


 妹を探しています。

 ご連絡はこちらまで。


 ハジメでも理解できる平易な文が、妹の顔の隣に記されていた。


「……うん!ありがとうございます」

「これでいい?じゃあ、何枚か印刷したから一枚は此処に貼るね!残りは」

「貼ってくる。いろんなとこ」


 今度はこちらから提案する。ウエズさんのいる西口までの道は覚えているし、道すがら色んなところに貼り付けられるはずだ。


 満足げに頷く店員の頭上から、たしなめるように声が降る。


「貼り紙は、ちゃんと掲示板に貼ってね。貼ってもいい場所に貼らないと、捨てられたり、怒るモノがいるから」


 神妙に頷くと、天の声は穏やかな声音で「約束ね」と付け加えた。


 写真と貼り紙のお礼を告げて、ハジメは店を後にする。一先ず西口に向かうことにした。そこならきっと「貼ってもいい場所」があるだろう。


 暖簾の店先が並ぶ一画で、路地から伸びた細い手がひらひらと手招いていた。掴まれないように注意して通り過ぎる。無数の手がみっしりと詰まった路地を横目に、ハジメはほんの少し達成感を覚えた。


 明滅する電灯と割れた電灯が交互に並ぶ通路の先に、見覚えのある事務所と階段が見えた。事務所が明るいことを確認して、ハジメは駆ける。


「こんにちわ」


 なるべく元気よく挨拶をする。ガラスの窓が横に開き、ガスマスクが覗いた。


「こんにちは……あれ、ハジメさんだっけ」


 聞き覚えのある穏やかな声に安堵しつつ、ハジメは頷く。ガスマスクの上半身が窓から乗り出した。


「かっこいいカメラだね。どこかにお出かけ?」


 カメラのことを褒められて、照れ隠しにポスターを差し出す。


「これ、はるのお願いにきました」


 ハジメの手からポスターが離れる。ガスマスクは紙面を眺めて、深く頷いた。


「妹さんを、探しているんだね」

「はい」

「わかった。ここに掲示しようね……ああ、何枚かあるんだ。じゃあ、僕が他の区域の掲示板にも貼ってくるよ」


 紙と交換するように、ガスマスクは飴を三個渡した。ポスターと飴、両方のお礼を告げて、ハジメは手を振り立ち去る。


「あ、待ってハジメさん!」


 慌てた様子でガスマスクは初めを呼び止める。窓口から姿が消え、物陰の扉を開けて走り寄る。


「ショーケンさんのおうちにまっすぐ戻るなら良いけど、あまり遠くに行っちゃダメだよ。特に北口は危険だから」

「おしえてもらった」


 もう一度地図を出して見せる。あ、と小さく声を漏らしてガスマスクは呼吸器付近を軽く掻く。


「良かった。この地図の通り、危険な場所に近づかないでね」

「はい」

「それと、地図の場所以外でも注意すること。何かあったらここに来てね。僕がショーケンさんが来るまで一緒に待つし、なんなら送るから」


 頼もしい申し出に、ハジメは小さく頷いた。でも、それは今ではない。一先ずガスマスクと別れて、「安全」な場所を確認する。


 まだ、長屋に帰るべき時間ではないはずだ。


 地図を眺めつつ通路を歩く。追い越されたり、追い越したり、すれ違ったり。屋台通りや何でも屋前の通り程ではないにしろ、どこもある程度の人通りはあるらしい。


 しかしその往来が、不意に無くなった。


 長い長い線路沿いの通路と地図を照らし合わせる。ハジメの読み方が間違っていなければ、特に「危険」と言われた場所では無い。


 何かあったのだろうか。


 あるいは、これから起きるのだろうか。


 道端で立ち止まったハジメの側で、鳥の飛翔音が響いた。


 びっくりして辺りを見回す。


 消えた往来の代わりに、鳩が群れをなして架線や通路沿いに止まっていた。


 鳩のつぶらな瞳を見つめる。


「お嬢さん」


 囁き声が聞こえた。足元に視線を落とすと、通路沿いの排気口と目があった。


「それは先駆けだ」


 排気口の中の何かが瞬きをする。


「さきがけ?」

「早く隠れなさい」


 そう告げるなり、排気口から気配が消える。


 皆、逃げたのだ。


 ハジメは元来た道を戻ろうとする。


 先程はすれ違う人間も多かった通りに人影は無い。ただ潜むような息遣いが、そこかしこに在った。


 金属の擦れ合う音が響く。どこまでも続く線路の先で、蛍光灯の明滅に合わせて何者かの姿が現れた。


 先日と同じ白装束を纏い、鳩を侍らせ、ソレは歩む。暫くハジメは現実感のないソレを見つめ、拾い主の言葉を思い出した。


 離れるべきなのだろう。


 踵を返し、元来た道を引き返そうとする。


「待て」


 ソレの声がハジメを引き留めた。思わず後ろを振り向くと、袖が擦れそうなほど近くにソレは立っていた。息をのむハジメの足元に、鳩が纏わりつく。


 ソレが身を屈める。白い布の下で、男女の判別のつかない声が発せられた。


「煙草の匂いがする」


 ショウケンの手の者か。


 極近くで、ソレは囁く。立ちすくむハジメの周囲を、ソレは観察するように回りはじめた。裾の擦れる音だけが、妙に大きく聞こえる。


「そしてそれ以外は、何も無い。妙なことだ」


 呪いも。


 縁も。


 ハジメの真後ろで、杖を地に打ち付けるような音が響いた。金属音が耳を苛む。音と衝撃が家での出来事と重なって、足が震える。


「何があるのか。何を観たのか」


 そうして再びハジメの前に立ち、身を屈めた。


「手を」


 籠手に包まれた右手が差し出される。ハジメは少しの間考えて、頭を下げた。


「……ごめんなさい。はやく帰らなきゃ」

「手を」


 先程と同じ抑揚で、言葉が繰り返される。足元で彷徨く鳩も、急かすようにこちらを見上げている。


 用件を済ませれば、帰してくれるのだろうか。


 おずおずとハジメは右手を出す。


 細い手首を、厳しい手が軽く覆う。冷たい親指が脈を測るように撫でた。


 籠手の仰々しさとは裏腹に、優しげな手つきであったことを、少し意外に思う。


「あの」


 白衣の覆面を見上げる。


 途端、手首を握る腕に力が籠った。


 驚いて手を引こうとする。ハジメの微かな抵抗など意にも介せず、白衣の腕は徐々に締め付ける力を増していく。


「はなしてください」


 何度も告げる。静かな通路でハジメの震え声と鳩の地鳴きだけが響く。


 手を振り解こうにも、ソレはびくともしない。自身の掌が赤黒く染まっていくのを見て、ハジメはパニックを起こす。


「はなして」


 指先が痺れ、骨が軋む。更なる圧迫が加わった。


「痛い、痛い!」


 ソレが軽く手を翻す。


 ハジメが叫ぶと、ソレは捻った手首を呆気なく離した。地べたにしゃがみ込み、力のこもらない掌を庇う。


 逃げなきゃ。


 無事な左手で身体を支え、立ち上がる。振り向いた視界が、白い布で覆われた。


「こちらへ」


 右手を優しく握り込まれる。あらぬ方向に捻じ曲がった手首を見て、ハジメは過呼吸を起こした。


「ショウケンを待とう」


 鉄の匂いが染み付いた袖がハジメの肩を抱き寄せる。しゃくり上げながら、ハジメはなされるがままにされる。


 暫く、ハジメとソレは薄暗い路地で立ち尽くした。足の合間を鳩が通り、時折様子を伺うように見上げる。最初は泣きじゃくっていたハジメも、痛みで朦朧としてきたのか段々と無反応になっていた。


 その間ソレは、ハジメの背を優しく叩いたり、伝う涙や鼻水を袖で拭ったりと世話をする。時折首筋の一点を脈を確認するようにぐいと押し込んでは、ハジメを一層怯えさせた。


「来ないか」


 立ち疲れてしゃがみ込んだ頃、ソレは無感情に呟いた。足元ですすり泣くハジメの傍で膝を折る。


 冷たい籠手が、左腕を掴んだ。


「もう一度、試そう」


 小さな掌を両手で包み込む。慈愛に満ちた仕草を見て、ハジメは再び泣き叫んだ。


 紙か何かのように、ハジメの手はくしゃくしゃに潰されてしまうのだろう。徐々に力が加わる手を振り解こうと必死になる。


 視線を感じるのに、誰も助けには来てくれない。地上での扱いを思い出して、虚しさのようなものが込み上げてきた。


 籠手の合間から見える指が青くなっていく。


「待て待て」


 誰かが諌めるように声を上げ、鳩の鳴き声が止んだ。


 握り込まれた手が軽くなる。籠手が離れ、ソレはハジメから幾分か距離を取った。


「お前が来たか」


 白衣が呟く。それまで一欠片も感じ取ることが出来なかった感情が、その言葉にはこもっていた。


 もっともそれは「負の感情」と言うものが近しいのだろう。


 ハジメは振り向く。


 誰もいなかった通りに、ただ一つ影があった。


 人間とは思えない。


 鋏がある。


「見てられなくなってな」


 鳩の群れが割れ、影が通る。図書室の図鑑で見た蟹によく似た姿のソレは、つぶらな瞳でハジメを見上げた。


「まったく。誰かを呼ぶなら直接出向けばいいものを」

「会おうとしても、巡りが悪い。向こうから来るのを待つのが得策だ」


 そうして無造作にハジメの右腕を掴んだ。折れた手首を圧迫されて、目の縁から涙がこぼれる。


「今日はそれっぽい理由があるな。厄介だ」


 どこにあるのかもわからない口で、蟹はため息のような呼吸音を漏らした。


「だとしても、その子があまりにも不憫だ」


 鋏を振りかざす。


「放したまえよ」


 手首を握る力は弱まらない。


 鳩が何羽か飛び立ち、白衣の肩に止まった。


「お前はすぐに縁を切って逃げる。この上、他の者との縁も切るのか。つまらない奴だ」

「なんとでも言え」


 小気味良い音を立てて鋏が開く。


「ともかく、この縁はここまで」


 何かが切れた。


 ハジメの傍らから白衣の気配が無くなり、右手が解放される。力が抜けてへたり込むと、人々のざわめきが染み出すように辺りに響いた。


「大丈夫かね」


 かちゃかちゃと足音を鳴らして蟹が近寄る。ハジメのひしゃげた手を器用に鋏の背に乗せ、黒々とした眼で見つめた。


「安心したまえ。こういう怪我は川の奴らが得意だ。ほら、歩けるかな」


 鼻をすすりながら立ち上がる。蟹に導かれ、ハジメは線路沿いの通路をとぼとぼ歩き出した。


「ありがとうございます」


 呂律の回らない声で感謝を告げる。


「君は……あまりこんな言葉は使いたくないが、運が良い。私はそもそもあいつとは関わらないようにしているからな。そういう縁が繋がる日もあるのだろう」


 対向からやって来た男性が、蟹に会釈をする。続いてハジメに目を向けて、気の毒げに眉を下げた。


「今日は少し事情が違ったようだが……時折ああやって、適当なナニカを餌にするのだ」

「エサ」

「よく泣き叫ぶ餌を置けば、正義感に駆られた者が来る。そういう奴を使って引っ掻き回すのが好きなのだよ。いや、好きというよりはそうせざるを得ないと言うべきか」


 蟹の多脚が地を引っ掻く音が止んだ。つられてハジメも立ち止まる。


「ところで、キミはショウケンとはどういう関係なんだ」


 突然の質問にハジメは戸惑う。何から説明したら良いのだろうか。


「えっと、助けてくれて、いもうとに会わせるから家にいろって」

「うーん犯罪の匂いがするな」


 ぶくぶくと蟹は泡を立てる。


「大丈夫かね」

「うん。平気です」

「そうか、なら良いんだが……何にせよアレがキミをそばに置いておくという事は、何かしら観たのだろう」


 一転、憤慨するように鋏をかち合わせた。


「しかしそれなら、もっと気を使うべきだ。煙草の煙なんぞではムジナも追い払えないぞ」


 再び地を甲殻の脚が擦る。


「取り敢えず怪我を治して、それからショウケンに文句を言おう」

「はい」


 病院に良い思い出はあまり無い。お母さんがぴったりとくっついて、おかしな事を言わないように見張るのだ。ハジメは本当の事を言うつもりなんてないのに。


 でも、もうそのお母さんもいない。素直に蟹の言う事を聞こう。


「ありがとうございます。えっと……」


口ごもる。しばらく俯いて、やっと「お名前は?」と質問をすることが出来た。


「名前。名前か」


 どこか上の空な口調だった。歩みを止めないまま、蟹は言う。


「恥ずかしながら、名乗れる名前が無いのだよ。忘れてしまったからな」


 どこからか蟹は笑い声を漏らした。慌ててハジメは聞く。


「お名前わすれたの?どうして?」

「さあ、何故だろう。ただそんなモノは珍しくも無い。地上でも此処でも」


 ぱちぱちと鋏が鳴る。


「憶えているのは、権能だけだ」


 僅かに沈んだ声だった。しかしすぐに、元の朗らかな口調で告げる。


「ああしかし、よく蟹さんなどと呼ばれる」

「カニさん」

「うん。それが一番慣れている。では、キミの名前は」

「えっと、マツマルハジメです」

「ハジメくんか」


 自己紹介を終えて、二人は短い会話を交わしながら「医院」へ向かう。折れた手は痛むが、ごく僅かな会話がその怪我から気を逸させてくれた。


 人通りが増え、見覚えのある通りに出る。蟹が進むと人混みが割れ、道ゆく人が愛想よく微笑み、挨拶をする。


「散歩かね」


 追い越し様、ひび割れた能面が声をかける。蟹はちょいと鋏を振り、なんでもないように答えた。


「いいや、この子を医院まで連れていく途中だ」


 そうしてハジメの様子を確認するためか、軽く甲を斜めに傾けた。


「あともう少しだ」


 その言葉に元気付けられ、ハジメはせかせかと足を動かす。


 はたして、カニの言う通り路地の先に薄暗い看板が現れた。幾何学的な図形の集合と「骨接」という文字の下で、きれそうな電球が不規則に瞬いている。


 鋏で器用に引き戸を開け、蟹は店に入る。


「急患だ」


 蟹の甲羅の上から店内を覗き込む。薄暗い小上がりで、滑るような反射が見えた。


「さ、中へ」


 蟹に続いて、土間に踏み込む。少し質素で整頓されている点を除けば、造りはガラクタ屋とほぼ同じだった。


「どれ」


 小上がりに腰掛けたモノが、水掻きの付いた手で招く。蔓を編み上げた冠から垂れ下がったシダが、さらさらと音を立てた。


 一瞬、ハジメは蟹の目を見つめる。先程の白衣から受けた仕打ちを思うと、中々手を差し出すことが出来ない。


「安心したまえ。鳩の奴よりはずっと優しい。患者には厳しいがな」


 そんなハジメの心を鑑みたのか、朗らかに蟹は返す。小さく頷いて、ハジメは捻くれた右手を見せた。


「酷いありさまだ」


 冷たい手が、ハジメの肘を軽く支える。暫くシダの間から視線が注がれる。


「ぬう」


 シダの冠が唸った。


「これは、薬では治らん」


 その言葉に、ハジメは狼狽する。傍らの背の低い薬棚へ手を伸ばし、天板の上で縺れていた包帯を取りながら冠は呟いた。


「わかって連れてきたか」

「薬に頼らずとも、治るだろう?」

「治りはするさ。患者次第だが」


 添木を当てられながら、ハジメは不安げな声で問う。


「なおらないんですか?このまま?」

「このぐらいの年だったら、無理をせず飯をもりもり食えば骨の二本や三本すぐくっつく。安心しなさい」


 抑揚のない声でシダの冠は答える。安心、と言われてハジメはほんの少し肩の力を抜いた。


「呪いやらであっという間に治すことは出来ない、というだけだ」


 瞬く間にハジメの腕は包帯と添木で固定される。端切れを継ぎ接いだ三角巾を首に結え、右手を吊す。


「首に負担は。楽かな」

「はい」

「まあ、飛び出てたりごちゃ混ぜにはなっていなかったのは幸いだ」


 薬棚の引き出しから紙包を取り出す。


「痛み止めだ。つける薬ではないからな」

「ありがとうございます」

「一つは今飲んでいきなさい」


 紙包を手渡され、次いでお猪口が差し出される。空のお猪口の底から水が滲み出て、微かに湯気を上げた。


「白湯だ」


 紙包の中身を口に開け、お猪口のぬるま湯で流し込む。


 美味しくはないが、胸の内が少しすっきりとした。


「で、金は」


 いくつか紙包を渡して、シダの冠は短く聞いた。


 ハジメが小物入れを探していると、すかさず蟹が鋏で制する。


「ショウケンに出させるべきだ。曲がりなりにも保護者なのだろう」

「めいわく、かけちゃうから」


 既に迷惑はかけているのだろう。その上今回は、「近付くな」と言われていた神霊と接触して怪我を負ってしまったのだ。


 きっと物凄い剣幕で怒るのだろう。


 沈むハジメに、水掻きのついた手が紙切れを差し出す。


「ではホゴシャとやらにこれを」


 数字の並んだ紙切れを、ハジメではなく蟹が受け取る。紙面を眺め、ため息をついた。


「軟膏を買うよりは安いな」

「出来ることが限られていたからな、この子は」


 包帯を無造作に纏めて元の場所に戻す。滑らかな指を二、三回握り込み、シダの男は呟いた。


「ここでは生き難いだろう」


 その言葉の意味をぼんやりと考えていると、蟹が袖を軽く引いた。


「さ、ショウケンのもとへ行こうか」


 小上がりから腰を上げ、ハジメは医者に向かって礼を告げる。


「ありがとうございました」

「世話になった。金はすぐに毟り取ってくるからな」


 蟹もまた鋏を振り礼を述べる。


 店を出て、再び蟹に導かれ通りを行く。横歩きをしながら蟹は不意に告げた。


「生き難いとまでは行かないが、気をつけた方は良いだろうな」

「ケガのこと?」

「それに関することでもあるが、ハジメくん。キミは奇妙な性質を持っている。何というか……障ることが出来ない」


 首を傾げる。


「さわる?さっき、包帯まいてくれた……」

「ああ、触れることは出来る。見ることも出来る。キミは確かにここに在るのに、呪いや加護で干渉する事が出来ないのだ」


 蟹の瞳がつぶさに、ハジメを見つめる。思わずハジメは「気をつけ」の姿勢を取った。


「……縁も一本しか見えん。血縁だ。それ以外は何も観えない。繋がりがない。過去にも未来にも」


 蟹は独り言のように呟く。どうにもハジメには難しい話で、所在なくもじもじと指先をいじる。


 ただ一つ、気になったことがあった。質問をする。


「けつえんって、なに?」

「血の繋がり、要は家族のことだ」


 蟹の返事を聞いて、ハジメは嬉しくなる。たった一本の血縁に、心当たりがあった。


「いもうと?」

「いや、そこまではわからない。だが妹がいるのなら、そうなのだろう」


 大事にしなさい。


 蟹の言葉に、ハジメは満面の笑みで頷く。


 会わせてやると言っていたショーケンの言葉よりも、蟹の言葉が嬉しかった。


 妹は確かに存在していて、今も「エン」というもので繋がっている。


 そんな幸せな想像が、ハジメの胸の内を温めた。

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