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此岸顕現観測編  作者: あがり
9/11

9

 長屋を目指して、ハジメと蟹は歩く。蟹が薄暗い路地を避けて明るく人通りの多い通路を選んでいるのに気付いて、道順を必死で覚える。


「もう少しゆっくり歩こうか」


 途中立ち止まって尋ねた蟹の言葉に甘える。ゆっくりとした歩調になった多脚と足並みが揃うたび、少し嬉しくなった。


「ハジメくんは地上から来たようだが……私は少し上の事情には疎くてな。どんな様子なのだろうか」

「えっと、学校があって、リニアがあって、キツネさんがいっぱいいます」

「キツネか。そういえば地下ではあまり見かけないな」


 暫し蟹は泡を吹く。


「それより、学校にリニアとやら!しばらく見ないうちに発展したようだ」

「はってん?」

「ほんの少し前までは、教育や公共事業を出来るような状態ではなかったのだよ。随分と長い間小競り合いをしていて……今は小康状態なのだろう」


 蟹の難しい言葉をハジメは復唱する。少なくとも蟹は、ハジメよりもずっと長く生きていて、地上にも出たことがあるらしい。


「今は、学校は?」


 不意に蟹が尋ねる。ハジメが返答に詰まると、何処からかため息を漏らした。


「何も考えずに連れてきたようだな、ショウケンは」


 そうして、どこか非生物的な動きで右に曲がる。


「読み書き算盤程度だが、教えているところがある。有志の塾だ」

「そろばんって?」

「こう、パチパチっと計算をする……」

「たんまつ?」

「そんな感じだ」


 いくつか路地を跨ぎながら、蟹はハジメに目的地の説明をする。聞く限り、小規模な学校のようだった。


「給食とか、ある?」

「それは無いだろうな……待て待て、食事代ぐらいは彼奴も渡してくれているだろう?」


 立ち止まる蟹に小物入れの中身を見せる。多少憤慨して、蟹は先を急いだ。


「まったく」

「イチマンエンくれた」

「その一万円も、たまたま持っていただけだろうな……うーむ……」


 悩むような素振りを見せる蟹の後ろで、ハジメは少し不安になる。お金も既に一万円では無くなっている。少なくなってきたら、あの男に言えば良いのだろうか。その時男は、ハジメを怒鳴りつけたり手をあげたりするのだろうか。それに、先程の領収書も渡さなければならない。蟹は一緒に言ってくれるというが、ハジメの母親だって、誰か他人がいる時はハジメを打ったりはしなかった。


 俯くハジメの足元で、蟹が再び脚を止めた。


 顔を上げる。


「ここだ」


 蟹が鋏で示した先には、閉じたシャッターがあった。ハジメが反応に困っていると、隣を何かが駆け抜ける。


「蟹のひと、こんにちはー」


 尻尾がぽんぽんと走り去る。ふわふわとした肌触りの余韻にハジメが驚いていると、シャッターが朽ちた音を響かせて上がった。


 硝子窓の向こうに、机と椅子が並んでいる。その一つに、尻尾の持ち主が腰掛けた。


「ああやって、日中子供達に勉強を教えている。君も行ってみると良い……早速挨拶でも」

「あ」


 蟹の提案にハジメは怖気付く。硝子窓の向こうで蠢く「子供達」と馴染めるか、不安になったのだ。そうでなくとも、地上では級友に良い思い出はない。学びの場も心安らぐ場ではなかった。


「……今は、いい」


 申し訳なく思いながらもそう呟くと、蟹は何か意を汲んだように「そうか」と呟いた。その声音が穏やかで、ハジメは安堵する。


「気が向いたらで良いんだ」


 そうして一人と一匹は踵を返す。元来た道を戻るかと思いきや、再び蟹は多脚を止めた。


「もう一ヶ所、逃げ込める場所を案内しよう」


 つぶらな瞳がハジメを見上げる。小さく頷くと、蟹は歩き出した。


「……にげこめる場所?」

「条件付きで無害な場所だ」


 蟹に導かれるまま進む。往来の影は少なくなり、交わされる言葉も密やかなものになる。


 視界の隅で何かが蠢いた。


 振り向くと、路端に幾人か蹲っていた。通り過ぎた時には気付かなかった人影を見つめるハジメの裾を、蟹が引く。


「みんな休んでいるようだ。あまり邪魔をしてはいけないから、急ごう」


 そうして角を左に曲がる。


 そこで、鉢合わせた。


 手を繋いだ人影が二つ、角を曲がった一人と一匹に気付いて立ち止まった。


「あら」


 人影のうち、ハジメとあまり背の変わらない老婆がふにゃりと笑う。杖をつき、微かに覗く目は両方とも白く濁っていた。


「こんにちは」

「こ、こんにちは」

「こんにちは。散歩かね」

「ええ」


 蟹との受け答えの間、老婆に寄り添う人影を見上げる。


 毛玉だらけのカーディガンを羽織った、ハジメの母親よりも若い女性だった。無表情のまま老婆の手を握り、その目は蟹でもハジメでもない場所を見つめている。その場にいるのに、会話を聞いているような様子も無い。


「ミヨちゃんがね、お散歩に行こうって。誘ってくれたの」


 しわだらけの口元を動かしながら、老婆は握った手をゆっくりと引く。それに合わせて、女性も数歩前に出た。


「蟹さん、その子は?迷子かしら」

「ああ、今の住まいに送り届ける途中だ。その前に、色んな場所を案内していたのだよ」

「そお」


 こっくりこっくりと老婆は頷く。


「お名前は?」

「マツマルハジメです」

「ハジメちゃんね。タエコです」


 老婆と自己紹介を交わし、ハジメは再び女性に目を向ける。


 やはり、女性は我関せずといった表情で虚空を見つめていた。


 ハジメの手を、蟹の鋏がちょいとつつく。


「名乗ってみなさい。それから、貴方の名は、と」

「ま、マツマルハジメです。あなたのお名前は」


 蟹に促されるまま答える。


 女性の目が初めてハジメを写した。


「ミヨです」


 続いて、


「あなたのお名前は」


 女性の言葉に呆気にとられていると、再び蟹が手の甲をつついた。


「では、お暇しよう」

「さようなら、蟹さん」


 小さく頭を下げて、ハジメと蟹は二人に背を向ける。背後でこつこつと杖をつく音が響いた。


「……今の二人の周囲は、おそらく地下で最も安全な場所だ」


 蟹が囁く。


「手を出さなければ、何も起こらない」

「てをだす?」


 ハジメの問いに蟹は暫し黙り込んだ。きっと、ハジメにもわかりやすい説明を考えてくれているに違いない。


「悪口を言ったり、暴力を振るうことだ」

「そんなこと、しない」

「ああ、普通はそうなのだ。ただ此処は、普通ではない存在が多過ぎる」


 鳩を連れた白衣の姿が脳裏を過った。きっとアレは「普通ではない存在」の最たるものなのだろう。


 口を噤んだハジメを窺い、蟹は再び世間話を始める。


「そういえば、面白い機械を持っている」

「カメラ?」

「そうか、カメラと言うのか」


 蟹のつぶらな瞳が好奇で輝いた。


 もしかしたら、カメラを知らないのだろうか。


 おずおずとハジメは蟹に尋ねる。


「写真、とる?」

「写真?ああ、あの絵のようなものか」

「うん」

「……魂を盗られると聞いたことがあるが、蟹にも効くかね」


 ハジメは考え込む。


「とられちゃうの?」


 その質問に今度は蟹が考え込む。暫しの沈黙の後、蟹は歩き出した。


「ショーケンに実験しよう」


 何事もなかったら、蟹も写真を撮ってほしいのだろうか。カメラの目盛りを確認する。まだシャッターは切っていないはずだ。


 他愛もない話を交わし、ハジメと蟹は見覚えのある通路に出る。


「ついた」


 そうハジメが言うや否や、荒っぽく長屋の扉が開いた。編笠がひょっこりと現れる。


 視線を感じた。帰ってくるのがわかっていたのだろうか。男は即座にハジメを探知したようだ。


「……少し目を離した隙に、また怪我か」


 大きな溜息をついて、男は竦み上がるハジメに近づく。その間に蟹が割って入った。


「訳は話そう」

「なんだ、蟹がやったのか」

「そんな非道な蟹に見えるか」

「じゃあ誰だ」

「鳩の騒ぎは観ていただろう」


 あー、と男は声を漏らした。何か思い当たったのか、途端に不機嫌そうに腕を組む。


「あれに巻き込まれてたのか。だからとっとと逃げろと」

「一度目をつけられたら、縁を切らぬ限りは逃げ仰せられまいよ……その縁も無かったが」


 そういうわけで、と蟹はハジメの手を引く。


「医者の世話になった」

「おい、軟膏は効かんし高い」

「安心したまえ、普通の治療だ」


 促されるままに領収書を渡す。荒っぽく紙を受け取り、男は唸った。


「くそ……」

「それぐらい君ならすぐに儲けられるだろう」

「上限が決められてるんだ。三万円以上儲けられない」

「そうだったか。賭場の者も考えたものだな」


 領収書を丸め、帯の間に突っ込む。


「いや、そもそも金を出す筋合いもないな」

「そうはいかん。保護者なのだろう」

「後のために手元に置いてるだけだ」

「ウエズ殿のところに行こうか、ハジメくん」


 くるりと返る蟹の背甲に男は声を投げた。


「上に繋がるから駄目だ」

「上の方がフクシとやらも充実しているだろう」

「約束が果たせなくなる」


 語気が強くなった。蟹の鋏を取る手に力が篭る。


 黒々とした目が、ちらりとハジメを見たような気がした。


「……やむにやまれぬ事情というやつかね」


 泡を吹く。


「とにかく、こいつには此処にいてもらわないと困る」


 男は長屋に引っ込む。


「お前も一緒に金の工面を考えろ」

「善処する」


 器用に三和土から長屋に上がっていく蟹の後を追う。薄い布団を畳む男の傍らで、蟹は蹲った。その隣で所在なくハジメも座る。


「こつこつ賭場に通う以外に仕事はないのかね」

「無い。やる気もない。お前だってそうだろう」

「契約に金は必要じゃないからな」


 そこまで告げて、蟹は何か得心がいったように鋏を打ち鳴らした。


「そうだ、何かを質に入れれば良い。羅針盤とかあるだろう」

「らしんばん?」

「駄目だ。これはまだ使うあてがある」


 布団と同様に部屋の隅に積み置かれた道具のことだろうか。男の言葉を聞いて、蟹は再び考え込む。


「ハジメくんぐらいの歳でもできる仕事はあったか」

「あるだろ。給仕とか売血とか」

「売血は肉の卸も兼ねていることが多いぞ」

「……じゃあ、もう少し安全な稼ぎ方はないか」


 穏やかではないやり取りに耳を傾けつつ、カメラを半纏の上に置く。


 それを目ざとく見つけた男が、膝を叩いた。


「それ、金にならないか」

「え」

「勝手に人のものを売るでないよ」

「そういう意味で言ったんじゃない。それを使って、稼げないか」


 カメラを抱き寄せ、男の言葉への答えを考える。カメラに出来ること。


「しゃしん、ですか」

「そうだ。おそらく神霊は写らないが、そこら辺の人間や化けの皮の下くらいは撮れるだろう」

「で、写してどうするんだ」

「勿論売る。地下土産とでも言っておけば一人二人は引っかかる」

「……そう上手くいくかね」


 蟹は鋏をちょいと竦めるように動かす。そうして、帰り道のやりとりを思い出したのか、カサカサと男から離れた。


「そうだ。その案が実用に耐えうるか一つ確かめてみようではないか。ハジメくん、お手並み拝見だ」

「確かめるって何を……」


 そこまで呟いて合点がいったのか、男はため息をつく。胡座を組んだ膝の上に手を置き、上体をハジメに向ける。


「魂が盗られたら、ちゃんと言うんだぞ」

「魂ねえ」

「大丈夫だとおもう」


 ハジメが頷くと、男はポーズを取るでもなく煙草を吸い始めた。


 数歩離れてふらつく片腕でカメラを構え、ファインダー越しに被写体を捉える。


 僅かに鏡筒が前後し、ぼやけた像が鮮明になった。


 シャッターを切る。


 僅かな間、男が動きを止めた。


「ほお」


 男ではなく蟹が驚いたような声を漏らした。


「今ので、写真が出来たのかな」

「まだ」


 ガラクタ屋の言葉を思い出す。


「げんぞう?が必要なんだって」

「ははあ」

「すぐにはわからないし渡すこともできないのか」


 途端、男は興味を失ったように寝転がる。


「そうか」


 金にならないと踏んだのだろうか。蟹を見つめると、蟹もまたハジメを見上げた。


「私はこの先が不安だよ」


 ぷかりと泡が一つ浮かぶ。


 揺らぐ泡に向けて、ハジメはシャッターを切った。


 不安なのは、ハジメも同じだ。






 暗い影から肉塊が浮き出る。長い事タキグチから特訓を受けて、やっと影に紛れるコツを掴んだのだ。たぷたぷと薄暗い路地を這い回り、気を紛らわせる。


 死体やゴミも手当たり次第食べ尽くしてしまった。底無しの空腹に体を動かし、気配を探る。一つ二つ先の明るい路地では、人や心霊が蠢いているのがわかった。お腹は空いているけど、この場を遠く離れるわけにはいかない。それに、肉塊の探し人の気配があるわけでもなかった。


 共にいるのは半龍の少年だけだ。同じように暗がりで丸まって寝ている少年の側で、他の者たちの帰りを待つ。どうやら、肉塊と少年は「お留守番」という役割を預かっているらしい。


 自分の気の向いた時だけ遊んでくれる少年の事を見つめる。ちょっと齧ってみようとして、初めて会った時のことを思い出した。また痛い思いをするのは嫌だ。


 頭上の「眼」を眺める。遠くを見つめる「眼」は、時折肉塊を一瞥するようだった。その度にタキグチ達は潜み場所を変えるが、当の肉塊はあの視線に少しだけ親近感を覚えるようになっていた。


 怖いけど、ちょっとだけ嬉しくなる。


 今日はまだ、「眼」が合っていない。同じお留守番の少年が横になっているのを良いことに、肉塊は意思表示をしてみた。


 贅肉だらけの小さな手を振る。他の神霊より図体は大きいが、街の一角に潜む肉塊は中々目には入らないだろう。それでも届くことを信じて、肉塊は蠕動する。未発達の指先のような手元が温かくなって、ひゃあと叫んだ。


 灯が舞う。


 狐火だ。


 突如自らから出た冷たい熱を持った炎に向かって、肉塊は伸び上がった。短い腕を動かすたびに揺らぐ狐火に気分を良くして口を開く。


 そっぽを向いたままの「目」は、すっかり頭から忘れ去られてしまった。


「う」

「なんだ、イモ。まだ明るい時間だ……」

「うぐー」


 龍の目を持つ少年に何事か語りかける。瞼を擦りながら、少年は体に巻きつけていた尾を解いた。


 金色の瞳に狐火が映る。少年は眉を潜めた。


「狐火……追手か?」

「ぶ」


 疣足をはためかせる。次々と湧き出る狐火が虚空へ昇るのを少年は感心したように眺めていた。


「ほう。お前、芋虫ではなく狐だったか」


 ふふん、と鼻で笑う。


「麻呂には及ばぬな」


 空に浮かび、少年は肉塊の襞だらけの頭に息を吹きかける。温度を伴わない黒焔が纏わり付いた。


 困惑するように肉塊は頭を振る。その様を見て、少年は笑い転げた。疣のような手で払おうにも、短すぎる。勢い余って肉塊は、窄んだ口を大きく広げた。


 黒焔を呑み込む。


「あっ」


 少年は目を丸くした。慌てて肉塊の頭に飛びかかる。


「これ!腹を下すぞ!」

「ぎゅ」


 再び口を窄め、身震いする。溶けるように地に伏した肉塊の上で、少年は右往左往した。


「だ、大丈夫か」


 柔らかな肉を揺さぶる。途端、肉塊から黒焔の渦が吹き出た。小さく声を上げて、少年は飛び離れる。


 舐めるように周囲を灼いた後、焔は霧散した。蹲っていた肉塊は頭をもたげ、笑うような甲高い声を発する。


「うゎう」

「驚かせおって」


 少年は降下する。肉塊の襞を両手でむんずと掴み、引き寄せた。いつものように何事か喚き出すのだろう。肉塊は少年の様子を観察する。


 しかし、肉塊の思惑とは裏腹に心配げな声音で少年は声をかけた。


「大事はないか」

「ぶあ」

「ふん、恐れ知らずも良いとこだ。肝を冷やしたぞ」


 そうして目を逸らす。


「今のは誰にも言うてはならんぞ。特に、タキグチにはな。麻呂がお前を虐めたと思われる」

「んば」

「わかったか」


 肉塊はげっぷをした。その様を見て、少年は何事か言いたそうに口をもごつかせた。


 そんな二人の様子を、遙か彼方から「眼」は見つめていた。少年の肩越しにその視線に気付いて、肉塊は耳を突くような声をあげる。


 そうして、小さな手をもう一度振った。


 肉塊の動きに疑問を持ったのか、視線に気付いたのか、少年は空を見上げる。「眼」と目が合い、顔色を変える。


「見つかったか。イモ、タキグチ達が戻るまで潜るぞ」


 ぴこぴこと動く手を握り、少年は影に浸かる。一方、肉塊は微動だにせず襞を天に向けていた。


「ば」


 ずっと自分を見下ろしていた影が、ほんの少しの間居なくなる時になんと言っていたか。思い出せそうで口を開く。


「ばい」

「ん?」

「ばい」


 ひたすら言葉を繰り返す肉塊を少年は見上げる。しかし痺れを切らしたのか、肉塊の頭にのしかかった。


「ほら!行くぞ!」


 ずぶりと肉塊は影に沈む。


 既に「眼」は逸らされていた。

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