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ゴールデンフラワーの一着  作者: 乾為天女


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第39話 星降る夜の静寂に紡ぐ約束(後)

 工房の前まで戻ると、夜更けの神楽坂は、昼の顔をすっかり畳んでいた。石畳は乾いて、路地の灯りだけが、布の縫い目みたいに細く続く。金色の花が彫られた小さな看板は、軒下の電球に照らされて、静かに光っていた。


 遼は鍵を出しかけて、やめた。手の中で金属が小さく鳴る。ガーメントバッグを抱えたまま、玄関灯の下に立ち尽くす。茉子も、隣で立った。靴底が石に触れる音が止まると、二人の息だけが残った。


 「……さっき、言いかけた」


 遼の声は、布に針を通す前の、あの小さな迷いみたいに細かった。


 「節約しか、って」


 茉子は返事を急がなかった。急げば、糸が絡まる。遼の横顔を見上げ、まつ毛に灯りが落ちるのを待つ。


 「節約は……夢を長く続ける力です」


 さっき屋上で言った言葉が、ここでも同じ温度で出た。遼は短く息を吐いた。笑わないのに、口元だけが少し緩む。


 「それでも」


 遼は、看板の金色に視線を移し、戻した。


 「嘘をつくなら、最後まで守る」


 茉子の胸が、きゅっと縮む。針山を押さえたときみたいに、硬さが指先へ来る。


 「守る……?」


 遼の喉仏が上下した。言葉を選ぶ動きが、布を裁つ前の定規みたいに慎重だ。


 「俺は、去年のこと……ルリエの件、全部言ったつもりだった。でも、まだ残ってる」

 「残ってる、って……」


 遼は、ガーメントバッグの取っ手を握り直した。指が白くなる。縫い目を引っ張り過ぎると、ほどけるのに。


 「俺、連絡が来てた。……戻れって」


 遼が鍵を握り直すたび、金属が小さく鳴った。坂の上から遠い笑い声が流れ、路地の端で誰かのカップの氷がかちりと当たる。街の音は他人事なのに、二人の足元だけが、縫い代みたいに狭くて確かな場所になっていた。


 茉子の目の前に、見えない封筒が落ちた気がした。音はしないのに、重い。遼の背中が、ほんのわずか丸くなる。昔、頭を下げて全部を持って出た、とあの男が言っていた。あの姿勢が、今、またここにある。


 「今日……君に言わないで、鍵を開けて、普通におやすみって言えた。たぶん」

 「……言えたんですか」


 茉子がそう返すと、遼は一瞬だけ目を丸くして、それから苦い顔をした。否定できない顔だ。


 「言えた。……でも、それは、君に嘘をつくのと同じだ」


 玄関灯の下で、遼の影が揺れる。夜風が通り抜けて、茉子の頬に冷たさが触れた。だけど遼の声は、熱を持っている。


 「俺は、嘘をつくなら最後まで守るって、決めてた。誰かを傷つける嘘なら、なおさら。……去年、そうやって全部背負った。だから」


 遼の言葉が、途中で少しだけ震えた。見せたくない震えを、縫い込むみたいに隠している。


 「でも、君には嘘をつきたくない」


 茉子は息を吸い、ゆっくり吐いた。布のしわを掌で伸ばすみたいに、胸の中の乱れを整える。遼が言う「戻れ」が、何を意味するのか、想像はできる。金の花の印。綺麗な舞台。眩しいライト。――その向こうで、また誰かが転ぶかもしれない、という影。


 「遼さん」


 名前を呼ぶと、遼の肩がほんの少し下がった。硬かった糸が、ほどける瞬間の、あの小さな緩み。


 「戻るの、嫌なんですか」

 「嫌、じゃない。……怖い」


 遼は初めて、自分の内側をそのまま出した。短い言葉なのに、針一本分の鋭さがある。


 「また、誰かを転ばせるのが怖い。……俺がいる場所で」


 茉子は、思わず自分の足元を見た。石畳の上に、二人の靴が並ぶ。転ばないように、ゆっくり歩いて帰ってきた靴だ。


 「私は、転びません」


 言った瞬間、遼が茉子を見る。疑う目じゃない。確かめる目だ。採寸テープを当てるときの、あの真剣さ。


 「転びそうになったら、言います。……遼さんのせいにしないで、ちゃんと、言います」

 「……言えるのか」

 「言えます。……だって、遼さんも言いました」


 茉子は、遼の手元の鍵へ視線を落とした。金属は冷たいはずなのに、遼の指が触れているせいか、どこか温かく見える。


 「君には嘘をつきたくない、って」


 遼は小さく笑った。やっと出た笑いが、少しだけ子どもっぽい。


 「君は、俺を甘やかすのが上手い」

 「甘やかしてません。……採寸です」


 茉子がそう返すと、遼は「それ、便利だな」と呟いた。茉子は笑いそうになって、唇を噛む。噛んでも、笑いは目に出る。遼もそれを見て、あきらめたみたいに息を吐いた。


 「……戻れって言われたのは、今夜じゃない。何度か来てた。返事、してなかった」

 「返事、しないのは……嘘ですか」

 「嘘じゃない。……逃げだ」


 遼はそう言ってから、すぐに首を振った。自分で自分の言葉を縫い直すみたいに。


 「違う。逃げじゃなくて、迷いだ。――君の工房が、今、必要としてるのは、俺だと思ったから」

 「思った、から……?」

 「思ったから、残った。……残ったくせに、言わないでいた」


 茉子は、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。寒さで赤くなる熱じゃない。布の内側に隠した裏地が、体温でじわっと馴染むみたいな熱。


 「言ってくれて、ありがとうございます」


 茉子がそう言うと、遼の目が少しだけ揺れた。「助かりました」と言われたときの、あの照れに似ている。


 「……怒らないのか」

 「怒るなら、怒る理由を聞きます。……今は、理由が足りません」


 遼は「すげえな」と小さく呟いた。褒め言葉なのに、拗ねたみたいな音が混じる。


 「じゃあ、理由を言う。……俺は、ここで縫い続けたい。君が『今日から』って言って、袖を切ったあの日から、ずっと」

 「……そんな前から」


 茉子が驚くと、遼は顔をそむけた。灯りの陰に逃げる動きが、相変わらず下手だ。


 「節約は、夢を長く続ける力だって言ったろ。……俺の夢も、長くしたい」


 茉子の喉が鳴った。言葉が出る前に、遼の手が動いた。針ではなく、指で。茉子の手を探すみたいに、そっと差し出される。


 「約束、していいか」


 遼の掌は、冷えた布みたいに少し冷たい。でも芯がある冷たさだ。触れれば、すぐに体温が移る冷たさ。


 「嘘をつくなら最後まで守る、じゃなくて……」

 「……なくて?」

 「嘘をつかないで、守る。俺は、そうしたい」


 茉子は、遼の手へ自分の指を重ねた。針を持つ指じゃない。布を抱える指。人の手を確かめる指。


 「私も。嘘は、縫い目から出ます」


 茉子が言うと、遼が「出るな」と真面目に返してきた。茉子はつい笑ってしまう。笑い声が、路地にこぼれても、誰も怒らない時間だ。


 遼も笑った。笑いながら、茉子の指を一本ずつ確かめるように絡めていく。指先が結ばれると、不思議と胸の中の針が、痛くなくなる。


 「……共犯者で、いよう」


 遼が言った。あのとき布を探しに走った夜と同じ言葉なのに、今は重さが違う。隠すための合図じゃなくて、守るための合図だ。


 「はい。……共犯者です」


 茉子が頷くと、遼はようやく鍵を回した。カチリ、と音がして、古い扉が少しだけ開く。そこから漏れる暖かい空気が、二人の足元を撫でた。


 金色の花の看板が、静かに光っている。星の明かりと同じ色で、同じ速さで。茉子は、その光を背に、遼の指をもう一度ぎゅっと握った。



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