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ゴールデンフラワーの一着  作者: 乾為天女


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第38話 星降る夜の静寂に紡ぐ約束(前)

 屋上の扉が閉まる音が、夜の中で小さく反響した。空気はひんやりしているのに、茉子の胸の奥だけ熱いままだった。風にさらされた頬が、遅れて赤くなる。


 「じゃ、駅まで一緒に」


 優歌が先に歩き出し、芽吹が布包みを抱え直してついていく。博宣は階段の一段目で止まり、カメラの液晶に映る星の粒を確かめていた。管理人の涙がこぼれた瞬間も、袖口を整える芽吹の指も、ちゃんとそこに収まっているらしい。無表情のまま、博宣は満足そうにうなずいた。


 「それ、あとで送って。……いや、送らなくていい。工房で見せて」


 遼が言うと、博宣は短く親指を立てた。言葉は少ないのに、返事だけはきっちりしているところが、妙に頼もしい。


 エレベーターの前で、芽吹が足を止めた。


 「ねえ。今日のドレス、風に当てすぎると、シワが怒るよ」


 芽吹の視線は遼の腕にあるガーメントバッグへ向いている。遼はすぐに持ち方を変え、肩の角度まで直した。節約を口にするより先に、布を守る手が動く。


 「……こう?」


 「うん。そう。そこで揺らさない」


 芽吹は満足げに笑い、先にエレベーターへ乗り込んだ。優歌も「じゃ、私は明日、朝イチで仕入れ先に電話しとく!」と言いながら入り、扉の間から茉子へ片目をつむる。どこまで見えているのか、少し怖い。


 茉子と遼が乗り込むころには、ふたりはもう「お腹すいた」「コンビニで肉まん買う?」と別の話に移っていた。そういう切り替えの早さに、救われる夜もある。


 エレベーターが一階に着き、外へ出る。街灯の下の歩道はまだ濡れていて、星の欠片みたいな光が点々と落ちていた。屋上で見た星は遠いのに、足元にも星がある。茉子は変な笑いがこみ上げて、口元を押さえた。


 「何?」


 遼が横を向く。問い方がまっすぐで、茉子は正直に言ってしまう。


 「星が、いっぱいです。上にも下にも」


 遼は足元を見て、うん、とだけ言った。すぐに視線を前へ戻す。照れ隠しみたいに歩幅だけ少し大きくなる。


 駅前の交差点で、優歌が腕時計を見た。


 「私はこっち。明日の朝、九時に工房、いける!」


 「私は……寄り道して帰る。甘いの、欲しい」


 芽吹が言い、角を曲がる前に遼のガーメントバッグへ目だけ寄せた。「それ、絶対にぶつけるなよ」と無言で釘を刺した目だ。遼は返事の代わりに、持ち手を握り直す。


 博宣は、言葉より先にカメラのストラップを締め直してから、茉子へ軽く会釈した。シャッターを切る手が、今日は少しだけ柔らかかった。


 ふたりきりになると、夜の音が急に近くなった。遠い車の走る音。自販機の冷却のうなり。信号機の小さな電子音。茉子の心臓の音も、その中に混じっている気がした。


 遼は交差点を渡り切ったところで、いったん立ち止まった。歩道の端に寄り、ガーメントバッグを体の内側へ引き寄せる。布を守る所作が終わってから、ようやく口を開いた。


 「……今日さ」


 「はい」


 茉子は返事を急がないようにした。急いで答えると、針が滑るみたいに言葉が暴れる。遼の言葉は、いつも計算の上に乗っている。だから、計算が崩れる瞬間は、見逃したくなかった。


 「俺は……節約しか、できない」


 吐き出すように言って、遼は自分で首をすくめた。格好よく言えなかった、とでもいうみたいに。手元の持ち手をぎゅっと握り、指先に白い色が浮く。


 茉子は、首を横に振った。


 「節約は、夢を長く続ける力です」


 言い切ってから、自分の声が思ったよりはっきりしていて、茉子のほうが驚いた。遼が目を瞬かせる。だから、続ける。


 「今日の金糸も。裏地も。管理人さんにお見せするための、あの一回のクリーニング代も。遼さんがいなかったら、私、見栄で選んで、途中で息切れしてました」


 息切れ。そう言った瞬間、茉子は自分が何を言ったか気づく。恥ずかしくて、頬が熱くなる。けれど、隠さない。


 「私、直したいところがあると、すぐに布を切り足そうとします。切って足すのは簡単です。でも、切らないで整えるのは、時間がかかります。……遼さんの帳簿があると、その時間をちゃんと守れます」


 遼は、しばらく何も言わなかった。言葉を探すふりもしない。夜の空を見上げるふりもしない。ただ、黙って歩道の先を見ていた。


 茉子はその横顔を、針先の角度を測るみたいにそっと見た。屋上で管理人が「妻が笑っている」と言ったとき、遼は手すりを拭いていた。涙を見られたくない人の動きじゃない。泣けない人の動きだった。泣くかわりに、拭く。守る。


 「……茉子」


 呼ばれて、茉子は小さく息を吸った。名前を呼ばれるだけで、糸が一段細くなるような気がする。


 遼は視線を落とし、茉子の手元を見た。今夜は針も糸も持っていない。持っているのは、指先だけだ。


 遼が、ゆっくり手を差し出した。


 言葉の代わりに、手のひらが、そこにあった。


 茉子は一瞬だけ迷った。布を触るときみたいに、まず温度を確かめる。次に圧を確かめる。最後に、引っ張ってもほつれないか確かめる。習慣が勝手に手順を並べる。


 針ではない。指で。


 茉子は、遼の手のひらに指先を置いた。冷たくはなかった。けれど熱すぎもしない。仕事で使う手の、落ち着いた温度だ。


 遼の指が、ほんの少しだけ動いた。指先が、茉子の指を包もうとして、途中で止まる。勝手に握っていいのか、迷っているのが分かった。


 その迷いが、茉子にはうれしかった。


 茉子は自分の指を一本増やし、遼の指の間へ滑り込ませた。布と布の間に裏地を入れるみたいに、静かに、隙間を埋める。


 遼が、ようやく息を吐いた。


 「……ありがとう」


 「はい。こちらこそ」


 ふたりの手は、握りこぶしにならないまま重なっていた。結ぶでもなく、ほどくでもなく。縫い合わせる前の、仮止めみたいな形。


 信号が青になり、ふたりは歩き出す。歩幅は、さっきより揃っている。


 角を曲がると、自販機の明かりが浮かんだ。遼が立ち止まり、財布を取り出す。硬貨の音が、夜に小さく鳴る。


 「温かいの、飲む?」


 茉子がうなずくと、遼は一番安い表示を探す癖で、まず下段を見た。見てから、上段の「ホットのココア」に目が止まる。少しだけ眉が動く。


 「……これ」


 遼がココアを押すと、缶が落ちる音がした。茉子の手に渡される前に、遼は缶を両手で挟んで温める。自分の手で温めたものを、相手に渡す。たったそれだけなのに、胸がきゅっとなる。


 「遼さんは?」


 「俺は、白湯でいい」


 「白湯、売ってます?」


 「……ないな」


 遼は少し悔しそうに笑い、結局「ホットの緑茶」を押した。節約の人が、身体を冷やさない選択をした。それが、茉子には答えに見えた。


 ふたりで缶を持って歩くと、指の間の隙間がまた少し詰まる。茉子は空を見上げた。星は、屋上ほど大きくない。それでも、確かにそこにある。


 「明日も、縫います」


 茉子が言うと、遼は「うん」と答えた。答えてから、少し間を置いて付け足す。


 「明日……話がある」


 茉子の喉が、ひゅっと鳴りそうになる。けれど、手を離さない。指先の温度を確かめながら、頷いた。


 「はい。待ってます」


 遼は何も言わず、ただ歩く速度だけを、茉子に合わせた。工房のある通りへ向かう足取りが、星の明かりに押されるみたいに静かにまっすぐ伸びていく。



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