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ゴールデンフラワーの一着  作者: 乾為天女


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第37話 星の見える屋上庭園

 鍵を閉めたあと、遼が「一回、寄っていきます」と言った。言い方が、買い出しに寄るのと同じ温度で、だから茉子はすぐには意味がつかめなかった。


 「どこに……?」

 「洋館。管理人さんに、見せる約束がある」


 そう言われて、茉子は胸の奥がきゅっと縮んだ。見せる。完成した一着を。あの金色の石を預かったまま、黙って終わるわけにはいかない。頭では分かっているのに、足元だけが少し重い。


 芽吹は階段の踊り場で、肩に掛けた道具袋を持ち替えた。

 「夜の屋上って、寒いよね。上、風がやばい」

 言いながらも、袋の口をきっちり結び直す。遼が無言でマフラーを差し出すと、芽吹は受け取って首に巻き、「あんたのじゃないの?」と目だけで訊いた。遼は首を振る。芽吹は笑って、巻いたまま返さなかった。


 博宣は、いつもの無表情のまま、カメラのストラップを短く調整している。工房の灯りの下では目立たなかった黒い機材が、夜道の外灯に当たると少しだけ艶を出した。


 洋館の裏口は、玄関より静かだった。扉を開けると、廊下の空気がひやりとする。古い木と、磨かれた金属と、どこかに残る香水の甘さ。管理人が先に立ち、鍵束が小さく鳴った。


 「……遅い時間に、すみません」

 管理人は謝りながらも、足取りは迷わない。茉子は、持ってきたガーメントバッグを抱え直した。腕の中に、布の重さと、責任の重さが重なる。


 エレベーターはなく、細い階段で屋上へ上がる。芽吹が三段目で小さく止まり、振り返って遼を見る。

 「ねえ、今度から屋上の仕事は、筋トレって言って」

 遼が「余計に値段が上がる」と返す。芽吹は息を吐き、「値段の話、やめて」と笑った。茉子は、その笑いに救われた。笑うと、肩の力が少し抜ける。


 扉を押し開けると、空がいきなり広がった。屋上庭園は、想像よりずっと静かだった。植え込みの低い木々は冷えた土の匂いを抱え、ベンチの木目は月明かりで淡く浮かぶ。風がない。夜なのに、布が暴れない。まるで、ここだけ時間が縫い止められているみたいだった。


 空には星が散っていた。数えようとしても追いつかない。茉子は、息を吸った。冷たいはずなのに、胸の内側が温かい。


 管理人が手すりのそばで立ち止まり、振り返る。

 「……ここで、よく妻が座っていました。夜の花を見て、星を見て……それで、笑って」


 言葉が途中で切れた。管理人は咳払いをして、喉を整えようとしたが、うまくいかない。茉子はガーメントバッグのファスナーに指を掛け、開ける速度だけを、ゆっくりにした。


 遼が、手すりに付いた白い埃を、指先で拭った。拭ったあと、袖の端で二度、丁寧に磨く。何かをしていないと、言葉が溢れてしまう人の動きだった。


 「……出します」

 茉子が言うと、芽吹がすっと横に来て、バッグの中の布を支える位置に手を添えた。指先が、布に触れるか触れないかの距離で止まる。触れて皺がつくのを嫌がっているのが分かる。


 茉子は布を引き上げた。


 深い青のドレスは、夜の空に溶けない青だった。光を吸い、必要な分だけ返す。胸元の線は控えめで、そのぶん肩から落ちるシルエットが美しい。裾は風を待っているように軽く、けれど落ち着いていた。


 そして、ボタン――ゴールデンクォーツは、灯りのない屋上でこそ、静かに光った。派手ではない。蜂蜜の中に星が溶けているみたいな金色が、縫い糸の間で呼吸している。


 管理人は一歩、近づいた。けれど、すぐに立ち止まる。手を伸ばしたいのに、伸ばせない。伸ばしたら、何かが崩れる気がする。そんな足の止まり方だった。


 博宣のシャッターが小さく鳴った。音は控えめで、なのに、空気の輪郭だけがくっきりする。茉子は、写されることを意識していない管理人の横顔に、時間が重なって見えた。


 管理人の目が、ボタンから裾へ、裾から裏地へ、丁寧に滑った。縫い目を追う視線が、妻の手つきに似ている気がして、茉子は胸を押さえた。呼吸が浅くなる。


 管理人はふと、裏地の折り返しに目を留めた。見えるはずのない場所を、知っている人の目だった。

 「……ここ、昔から、妻が……」

 言葉が途切れる。茉子は頷き、指先で裏地の端をそっと開いた。縫い目をほどくのではない。影を、少しだけずらす。

 そこに、糸だけで形になった三文字が眠っていた。読み取るには近づかないといけない。でも、近づきすぎると、触れてしまう。


 管理人は目を細め、息を吸って、吐いた。

 「……ちゃんと、残してくれたんですね」

 茉子は小さく頷いた。

 「勝手に、触れられませんでした。……ここは、この一着の心臓みたいで」

 遼が横で小さく「うん」とだけ言った。肯定の音なのに、妙に頼もしい。


 管理人は手を伸ばし、空中で止めた。指先が震える。触れたいのに触れない。その距離のまま、目を閉じた。

 「……この三文字を縫った夜、妻は、やけに機嫌が良かった。『見えないところが一番、嘘つけないのよ』って」

 言って、管理人は笑った。涙が頬を伝っても、笑いだけはほどけない。



 「……きれいだ」

 声が、震えていた。


 管理人はもう一歩近づき、指先で裾の空気をすくった。布には触れない。それでも、布が揺れた。茉子は、縫い目がほどけないように祈るみたいに、腕に力を込めた。


 管理人の喉が動いた。

 「……妻が、笑っている」

 言い終えた瞬間、まぶたの端から雫が落ちた。落ちた雫は、急いで拭われなかった。拭くと、笑いまで消えてしまいそうだったから。


 芽吹がそっと、袖口を整えた。誰に見せるためでもない。本人に見せるために、線を真っ直ぐにする。その手つきが、言葉より優しかった。


 遼は、手すりを拭き終えた指で、自分のポケットを探り、ハンカチを一枚取り出した。無地で、少しだけ角が擦れている。節約の人の持ち物らしく、使い込まれているのに清潔だった。


 遼は何も言わず、管理人の手元にそれを差し出した。管理人は受け取り、口元を押さえる。押さえたまま、深く頭を下げた。背中が小さく震える。


 「……ありがとうございます。……この一着を、こんなふうに……」


 茉子は首を横に振った。

 「こちらこそ、預けてくださって……。あの石も、……守れました」

 守れた、という言葉が自分の口から出たことに、茉子は少し驚いた。けれど嘘ではない。怖かった。けれど、怖かった分だけ、手が真剣になった。


 管理人は涙のまま、笑った。苦しいのに、笑う。茉子は、その笑いが本物だと分かって、胸の奥がほどけた。


 「ねえ」

 芽吹が小さく言った。

 「泣くとさ、袖が濡れる。……でも、乾く。風、ないし」

 言い方が妙に実務的で、茉子は思わず吹き出しそうになる。管理人も、鼻で短く笑った。博宣のシャッターが、また一度だけ鳴った。


 星は変わらず、そこにある。屋上庭園の植え込みが、夜の匂いを吸って、静かに吐く。茉子はドレスを抱えたまま、空を見上げた。針で縫った線より、ずっと大きな線が、空に引かれている気がした。


 帰る時間になり、管理人が扉へ戻るとき、茉子はドレスをそっとバッグへ戻した。管理人が最後に、布へ向かって小さく「おかえり」と言った。言い方が、家の中の誰かに向ける声だった。


 階段を降りる途中、遼が茉子の歩幅を一段だけ待った。茉子は「すみません」と言いかけて、言葉を飲み込む。ここで謝ると、今夜の星が曇る気がした。


 屋上の扉が閉まり、鍵の音が遠ざかっても、空の星は消えない。茉子の胸の中にも、同じ光が残っている。


 それは、誰かの笑顔を守れた光だ。


 茉子は息を吐き、隣を歩く遼の横顔を見た。遼は何も言わない。けれど、肩の位置だけが、さっきより少し近い。


 茉子は、指先を握った。針ではない。指で、明日の言葉を確かめるみたいに。



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