第36話 帰り道、言葉の針先
工房の灯りを落とすと、夜は思ったよりすぐに入り込んできた。昼間は布の匂いに紛れていた木の湿り気が、階段の踊り場で急に鼻の奥へ刺さる。茉子は最後の戸締まりを確認し、鍵を回した。金色の花の小さな看板は、外灯に照らされて、昼より静かに光っている。
「おつかれさま。……いや、まだ終わってないか。帳簿」
遼がぽつりと言って、手に持った封筒を振る。封筒の角は、いつも通りきっちり揃っていた。折り目が曲がるのが嫌なのだろう、指でそっと撫でて角を立て直している。
茉子は笑いそうになって、すぐ咳払いに変えた。今日一日、針と紙と、握手の温度が体の中でごちゃごちゃに絡まっている。ほどくには、家に帰ってからの方が良い。そう思ったのに、夜の空気が冷たくて、思考が小さく固まってしまう。
階段を降りると、路地の石畳が濡れていた。雨ではない。誰かが打ち水をしたらしい。灯りの輪の外は黒いのに、石の表面だけが薄く光って、歩く場所を教えてくれる。
「芽吹さんは?」
茉子が訊くと、遼は顎で坂の方を指した。
「先に行った。『針、寝かせる』とか言って」
「針……寝るんですか」
「寝かせるんだろ。知らん」
短いのに、少しだけ柔らかい。茉子はその微妙な変化を、針先で布を確かめるみたいに確かめた。
博宣の姿は見えない。たぶん、いつものように少し遅れて、暗いところで勝手にシャッターを切っている。茉子は振り向かずに歩き出した。振り向いたら、写真にされる。そういう確信がある。
神楽坂の夜は、賑やかなのに落ち着いている。路地の奥から食器の触れ合う音が聞こえ、暖簾の向こうで笑い声が弾ける。けれど、それは壁の向こうの話で、石畳の上を歩く足音だけは、こちらのものだった。
遼はいつもより口数が少ない。封筒の代わりに、小さなビニール袋を持っている。今日の端布だ。芽吹が「捨てるな」と押しつけたもの。遼は受け取ったとき、眉を動かしただけで、文句は言わなかった。
「……今日、優歌は、ちゃんと見てたな」
遼が言った。見上げず、前だけ見ている。言葉の針先を、なるべく誰にも刺さらない角度で出すみたいに。
「はい。見てくれました。……握手も」
茉子が答えると、遼は小さく鼻で笑った。
「握手で済むなら安い」
「安い……」
「怪我したら高い。握手は、ただだろ」
遼はそう言って、自分の言葉が妙だと思ったのか、口を閉じた。茉子は笑いをこぼしてしまう。夜の空気に白く溶けて、すぐ消えた。
坂の途中で、茉子の靴が石の段差に引っかかった。小さくつんのめり、反射で腕を振る。次の瞬間、遼の手が肘のあたりを支えた。強く掴まない。ただ、倒れないくらいの圧だけかける。
「……危ない」
遼の声は低い。叱るより先に、足元を確かめる声音だった。
「すみません。石畳、慣れなくて」
茉子が言うと、遼は肘から手を離した。離し方が丁寧で、そこにも癖がある。
「靴底が減ってる。張り替えた方がいい」
「……それって、高いですよね」
「高い。だが、転ぶより安い」
遼は言い切って、また歩き出す。茉子はその背中を追いかけながら、胸の奥がふっとほどけるのを感じた。遼の節約は、削るためじゃない。守るための針目みたいだ。破れないように、ほつれないように、目立たないところで支える。
坂の下に、白い自販機の灯りが見えた。夜道の中で、そこだけ昼みたいに明るい。茉子が無意識に足を向けると、遼が先に値札を見て、眉をほんの少し動かした。
「高い」
「え、温かいお茶、飲みたいです」
「この値段で温かいだけは、割に合わん」
遼はそう言って、茉子の肩を軽く押し戻し、角を曲がった。そこにあった小さな商店の前で立ち止まり、戸のガラス越しに並んだ缶の値札を確かめる。
「……こっちは、十円安い」
「十円で、そこまで……」
茉子が言いかけると、遼は真顔のまま言った。
「十円が三十回で、針一本だ」
「針、また増やすんですね」
「増やすのは、刺さるから嫌だ」
「じゃあ、糸で」
「糸なら、ほどけたら結べる」
遼は結局、温かい麦茶を一本だけ買って、茉子へ渡した。自分は買わない。茉子が首を振ると、遼は短く言う。
「一本で十分だ。二本は、帰り道が甘くなる」
意味が分からないのに、分かった気もして、茉子は缶を両手で包んだ。指先がじんわり温まる。
神楽坂の坂道は、上るときより下りの方が怖い。目線が下がり、つい足元ばかり見てしまう。けれど、遼の歩幅に合わせると、不思議と前が見えた。夜の路地の灯りが、線のように続いている。
少し歩いたところで、遼が突然止まった。茉子も止まり、並んで立つ。店の外灯の明かりが、二人の影を石畳へ縫い付けた。
遼が喉を鳴らした。言いたいことがあるのに、針を通す穴が見つからない人みたいに。
「……俺さ」
そこで一度、息を吸う。
「俺は、ここにいていいのか」
茉子は足を止めたまま、遼の横顔を見た。外灯の光で、睫毛の影が頬に落ちている。遼は視線を上げない。坂の先の暗がりを見ている。まるで、そこに答えが落ちているかのように。
胸の中に、針が一本立つ。返事を間違えたら、遼の言葉の布が裂けてしまう気がした。茉子は、手袋を外すみたいに慎重に言葉を選んだ。選びながら、選びすぎないようにする。
「いてください。明日も縫うので」
自分でも驚くくらい、まっすぐな声が出た。飾らない。言い訳しない。針目みたいに、必要な分だけ。
遼はその言葉を受けて、目を閉じた。短く息を吐く。吐いた息が夜にほどけ、白く揺れた。
「……明日も、か」
「はい。今日の続きです」
「今日で終わったと思った」
「終わってません。終わったら……困ります」
茉子は自分で言って、少し笑った。困る、という言葉が、思ったよりあっさり口から出た。それは弱さの告白みたいで、でも不思議と恥ずかしくない。遼がここにいることが、もう当たり前になっているのだ。
遼は肩をすくめた。ほんの少しだけ。
「困るのは、支出が増えるからだ」
「針が増えます?」
「針は増やすな。刺さる」
「じゃあ、言葉は?」
茉子がそう訊くと、遼は一瞬だけ茉子を見た。視線が触れた瞬間、針先みたいに鋭いのに、痛くない。
「言葉は……刺さったら、縫えばいい」
遼が言った。さっき芽吹が放った雑な正しさを、遼なりの手つきで直してきたみたいに。
茉子は頷き、歩き出す。遼も歩き出す。今度は、さっきより少しだけ近い距離で、歩幅が揃った。神楽坂の石畳が、やけにやさしい音を立てる。靴音が丸くなり、夜の路地に溶けていく。
角を曲がると、風が少し強くなった。茉子は無意識に肩をすぼめる。遼が歩きながら、持っていたビニール袋を持ち替えた。自分の体側に寄せて、風で飛ばないようにする。端布を守るみたいに、茉子の歩幅も守っているように見えて、茉子は喉の奥が熱くなった。
「遼さん」
「ん」
「明日、帳簿……手伝います」
「数字は、刺さらない」
「刺さります。心に」
「なら、縫え」
遼はそう言って、少しだけ口角を上げた。見逃したら分からないくらいの笑み。茉子はそれを見逃さなかった。針穴を見つけたときの、あの小さな嬉しさが、胸の中でこつんと鳴った。
夜道は続く。けれど、今は怖くない。言葉の針先を、互いに刺さないように持ち替えながら、二人は帰り道を縫っていった。




