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ゴールデンフラワーの一着  作者: 乾為天女


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第35話 優歌、敗北の握手

 呼ばれたのは、茉子の名前だった。

 廊下の奥で、黒いスーツの男が軽く手招きする。昨夜の熱気が引いた会場の裏側は、空調の冷たい息だけがきちんと流れていて、針仕事のときとは違う汗が、背中を薄く濡らす。


 遼が隣に並んだ。歩幅が同じになるまで、わざと一歩遅れて合わせてくる。手には封筒。紙の角が、何度も触れた場所だけ少し丸い。

 芽吹は三歩後ろを歩き、肩口の縫い代みたいに無言でついてくる。博宣はカメラを持ち上げかけて、スタッフの視線に気づき、今度は自分の胸ポケットへしまった。レンズキャップを閉める音が、やけに大きい。


 扉の横のプレートには「確認室」とあった。文字が整いすぎていて、笑えないのに、茉子の口元が引きつった。

 遼が小さく囁く。

 「数字なら得意なんだけどな」

 「布も、得意です」

 「布は、君だろ」

 そう言って、遼は封筒を茉子の手に戻した。握っているのは、茉子がやる。そういう分担だ。


 小さな控室の扉が開くと、机の向こうに二人。名札の角度が揃っているのが、妙に怖い。

 「ゴールデンフラワーの茉子さん。先ほどの作品について、確認があります」

 男の声は淡々としていた。冷たいわけではない。ただ、余計な飾りがない。


 茉子は椅子の端に腰を下ろし、膝の上の封筒を押さえた。

 「作品内側の線についてです。縫製の癖、あるいは指導元の特徴が見えました」

 もう一人が、内側の写真を見せる。裏地の端。針目の流れが、花びらみたいに整っている。

 「この線は、メゾン・ルリエの職人が好む処理に似ています」

 その言葉で、遼の肩が一瞬だけ上がった。昨日の廊下の角。金の花のパス。刺さる言葉。全部が一度に戻ってくる。


 茉子は息を整えた。謝る、ではない。言い訳でもない。

 隠すと、布は歪む。ここは、隠してはいけない場所だ。

 「はい。あの線は、優歌さんに教わりました」

 口に出すと、胸の奥が少し軽くなる。

 「許可があります。私が、自分の手で引き直しました。……でも、最初の教えは、確かに、優歌さんのものです」


 封筒を開ける。紙の音が、部屋の静けさを切った。

 許可の文面。日時。署名。簡潔で、きれいな字。

 遼が黙って横から一枚、領収書のコピーを出した。布の購入日。材料の内訳。数字が、嘘を嫌う形で並んでいる。

 博宣は椅子の背でそわそわして、結局、指先で自分の口を押さえた。写真を撮りたい衝動を、歯で噛むみたいに。


 「技術の引用は、説明が必要です」

 審査側の一人が、ペン先を机に置いた。

 「しかし、あなたは説明をした。許可もある。再構成もある」

 もう一人が、写真と茉子の顔を交互に見た。

 「そして、あなたの針目はあなたのものです。線だけでは、服は立ちません」

 その言い方が、なぜか優しかった。


 茉子は、膝の上で指先を握った。針山はないのに、指の腹がまだ糸を探している。

 「ありがとうございます」

 言うと、声が少しだけ震えた。震えたままでも、縫い直せる。そう思えた。


 部屋を出たところで、廊下の端に優歌が立っていた。背筋が真っ直ぐで、壁にもたれない。扉が閉まるのを待っていたように、茉子の目を見て、短く頷いた。

 その頷きが、許可証の紙より、少しだけ重い。


 遼が息を吐いた。長い息だった。

 「……胃が、帳簿より縮む」

 茉子が笑いそうになると、遼はすぐ顔を背け、ポケットを探る。そして、出てきたのは小さな飴だった。包み紙の端が、丁寧に折られている。

 「糖分」

 「また?」

 「安い。効く」

 短い言葉が、笑いの針先で胸をつつく。


 発表の掲示が貼り出されると、人の波が寄る。紙の前には肩が並び、香水と布と緊張が混ざった匂いがする。

 芽吹は一歩引いて、茉子の背中のタグを指で直した。直すのは一瞬。興味を失うのも一瞬。

 「ずれてた」

 「ありがとう」

 茉子が言うと、芽吹は「うん」とも言わず、別の袖口を眺め始めた。袖口の糸端だけを、爪でちょいと整える。誰にも気づかれない場所だけ、きれいになる。


 紙の上で、ゴールデンフラワーの名前が見えた。

 文字が見えた瞬間、胸の中で何かがほどけて、代わりに熱が上がる。喜びは針の先みたいに細いのに、刺さると深い。

 遼が、掲示の紙から目を離さず、ただ一言だけ言った。

 「残った」


 茉子の視線は、紙の下へ滑った。探してしまう。優歌の名前。

 見つからない。代わりに、メゾン・ルリエの文字だけが、別の場所で淡く滲んで見えた。周囲の人が「まさか」と小声を落とす。誰かが笑いかけて、すぐ口を押さえる。

 茉子は、その空気に飲まれそうになって、唇の裏を噛んだ。勝った、と言い切れるほど強くない。けれど、ここに立ったのは、誰かを踏みにじるためじゃない。


 ふと、紙の前の隙間から、優歌の横顔が見えた。掲示に近づきすぎない距離で、指先だけが紙に触れる。触れた瞬間、すぐ離す。爪の先が、ほんの少し白い。

 優歌は一度だけ目を閉じ、開いた。袖口のボタンを掛け直すみたいに、表情を掛け直す。

 その指先が、工房で袖山をなだめた指先だと気づき、茉子は胸の奥がきゅっと縮んだ。

 それだけで、足の裏が地面に縫い留められた気がした。茉子は肩を落として、初めて息を吸う。


 背後で、布の擦れる音がした。

 振り向く前に、茉子の視界の端へ、きっちり揃った手が入る。指先まで迷いがない。

 「良い服でした」

 優歌だった。黒いジャケットのボタンは全部留まっている。なのに、声は以前より少し柔らかい。


 茉子は一拍遅れて、その手を握り返した。掌は冷たくない。布を触ってきた人の温度だ。

 握った瞬間、あの朝の工房が蘇る。袖山の針目を見て、優歌が言った。「均す、じゃなくて、なだめる」。

 布は保育園児だ、と芽吹が笑った。遼が「布巾、出せ」と短く言った。あのときの笑いが、今日の胸の熱に縫い込まれている。


 「教えてくれた袖、効きました」

 茉子が言うと、優歌の口角が、ほんの少しだけ上がる。

 「……礼は、袖で、でしたね」

 優歌がそう言って、すぐ目線を外した。照れを隠すみたいに、掲示の紙の端を見ている。


 遼は、何も言わない。言い返さない。

 昨日までなら、きっと言っていた。数字みたいに短い言葉で、刺さることを。

 でも今、遼は優歌の背中を見て、口を閉じた。閉じたまま、飴の包み紙を指で畳む。角を揃える。小さな折り目が、妙に優しい。


 優歌は握手を終えると、背筋を伸ばし直した。

 「次は、あなたの線で、勝ってください」

 それだけ言って、歩き去る。足音が石の床にきちんと響き、やがて人の波に溶けた。


 茉子は、まだ自分の掌に残る感触を見つめた。針で結んだ糸とは違う。でも、ほどけない結び方がある。

 博宣が、少し遅れて咳払いをした。

 「……撮っていい?」

 「だめ」

 「即答が刺さる」

 遼が言い、博宣は肩をすくめて笑った。芽吹は掲示の紙から視線を外さずに、ぼそりと言う。

 「刺さるなら、縫えば」

 その言葉が雑なのに、妙に正しい。


 遼が隣で、飴の包み紙をポケットへ戻す。

 「……帰ったら、帳簿、開く」

 「はい」

 茉子は頷いた。今日は、針と数字と、握手の温度を、ちゃんと持ち帰れる。



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