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ゴールデンフラワーの一着  作者: 乾為天女


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第34話 嘘の清算

 翌朝、会場の裏口の廊下は、昨夜の熱が抜けきらずに、空気がぬるい。舞台の香りがまだ残っていて、布とスプレーと、誰かがこぼしたコーヒーの匂いが混ざっていた。

 茉子は、肩に掛けたバッグの紐を握り直した。指の内側に、紙の角が当たる。封筒の中に入っているのは、森田から預かった一通の書面と、自分が書き直した説明文の控えだ。紙の端には、森田の字で小さく「星」とだけ走り書きがある。読むたびに、胸の奥が少し温かくなる。


 スタッフに呼ばれたのは、短い言葉だった。

 「ゴールデンフラワーの茉子さん。審査側から、確認があります」


 遼が、歩きながら息を止めた。止めたまま、数歩進んで、やっと吐く。吐き方が、倉庫で靴の箱を開け閉めしたときと同じだ。

 「……来たな」

 遼は、昨日の夜の通路の暗さを思い出したみたいに、目を細めた。


 芽吹は、後ろからついてきて、指で髪を耳にかける。動作がゆっくりで、焦りを外側に出さない。

 博宣はカメラを胸に下げたまま、廊下の壁の案内表示を撮ろうとして、スタッフに手のひらを向けられた。

 「撮影は、ここから先はご遠慮ください」

 「……すみません。癖で」

 博宣はカメラを抱えるように持ち直し、肩をすぼめた。癖という言い方が、言い訳に聞こえないところが、逆に悔しい。


 扉の前で、遼が茉子の方へ体を少しだけ寄せた。声は小さい。

 「俺が言うか?」

 茉子は首を横に振った。首の振り方が、自分でも驚くほどはっきりしていた。

 「私が言います。最初に線を写したの、私です」

 「写したって言い方、やめろ」

 遼が即座に返し、眉だけが動いた。

 「……学んだ。だな」


 茉子は封筒を握り、頷いた。頷きながら、紙の中の言葉を頭の中で並べ直す。謝る。経緯を話す。許可があることを示す。自分の手で引き直したことを説明する。余計な飾りを付けない。針目みたいに、まっすぐ。


 扉が開くと、机が三つ並んだ小さな部屋だった。ライトが白く、窓は閉まっている。審査員の札は置かれていないけれど、座っている人の姿勢が、札より重い。

 中央の女性が、書類を揃えながら口を開いた。

 「昨日の作品について、確認があります。袖のライン。由来を、説明できますか」

 声は穏やかだ。穏やかだからこそ、逃げられない。


 茉子は一歩前へ出た。靴底が床に吸い付く音がする。喉が乾く。けれど、唇の奥で一度だけ舌を動かし、声を出した。

 「はい。あの線は、以前お預かりしたドレスの修復作業で学びました。袖の内側のカーブです」

 言いながら、封筒から書面を出す。紙が空気に触れて、ぱり、と小さく鳴った。


 「学んだ、というのは」

 別の審査員が質問する。視線は紙ではなく、茉子の顔にある。

 「見て覚えました。けれど、そのまま使ったわけではありません。一度、私の手で型紙を引き直し、仮縫いも重ねて、別の動きになるように調整しました」

 茉子は自分の指先を少しだけ持ち上げた。縫い代の幅を示すときの癖が出そうになって、すぐ止める。ここは作業台じゃない。


 遼が横で、息を浅く吸った。茉子は気づいている。遼が「俺のせいで」と言いたいのを、言わないようにしている。言ったら、また一人で背負ってしまうから。


 中央の女性が書面に目を落とし、ゆっくり読み上げた。

 「所有者の許可……森田様。『線の学びを認める。ただし説明文で嘘をしないこと』」

 読み上げられた言葉が、部屋の中で一度止まり、ふっと軽くなる。


 審査員の男性が、茉子の提出書類を指で叩いた。

 「説明文の控え、見せてください」

 「はい」

 茉子は、書き直した紙を差し出した。自分の字の癖が恥ずかしい。けれど、恥ずかしいからこそ、嘘が入る余地がない。


 男性は一度だけ視線を上げ、言った。

 「あなたは、最初に『偶然』と書きかけた」

 胸がきゅっと縮む。そこまで読まれている。

 「はい。でも……やめました。嘘だと思ったので」

 茉子は、言い切った。言い切ると、喉の奥が少し楽になる。


 中央の女性が、ペンを置いた。

 「許可があることは確認しました。学びを隠さず、あなたの手で作り直している。――こちらとしては、問題ありません」

 茉子の背中の筋肉が、ほどける。汗が、一気に浮いた。茉子は手の甲で、背中に流れそうな汗を拭った。服の中で、皮膚がひやりとする。


 ただ、女性は続けた。

 「最終選考に進む場合、作品紹介文にも、学びの出典を明記してください。あなたの言葉で。短くてもいい。曖昧にしないこと」

 「はい。必ず書きます」

 茉子は即答した。短く言うと、言い訳が入らない。


 もう一人の審査員が、書面の端を指で押さえた。

 「このドレス、タグに“メゾン・ルリエ”とありますね」

 遼の肩が、わずかに揺れた。茉子は頷く。

 「はい。修復で初めて知りました。……だからこそ、勝手に自分のものにしないと決めました」

 茉子は森田の家の廊下の写真を思い出す。ミシンの前で笑っていた人。布の匂いが、今も胸に残っている。

 「私は、奥さまの線に助けてもらいました。その助けを、嘘で汚したくありません」


 部屋の空気が一拍だけ静かになり、中央の女性が小さく頷いた。

 「よろしい。以上です。待合へ戻ってください」


 扉を出ると、廊下の空気が少し冷たく感じた。茉子は壁に手をつきそうになって、やめた。頼るなら、壁じゃなくて、自分の足だ。

 「……正直でよかった」

 茉子が呟くと、遼が隣で「当たり前だ」と返した。声は小さいのに、言い切っている。


 待合へ向かう途中、芽吹が自販機の前で立ち止まった。硬貨投入口を見つめて、首を傾げる。

 「百円玉、入れていい?」

 「入れる場所、そこじゃない」

 遼が即座に言い、芽吹の指先を機械の正しい穴へ導く。指先が触れそうで触れない距離。芽吹は「へえ」とだけ言って、すぐ興味を失ったようにボタンを押した。

 缶が落ちる音が、やけに大きい。博宣がその音に反応して、カメラを構えかけ、またスタッフの視線に気づいて手を引っ込める。


 椅子に戻ると、黒いスーツの男が廊下の角に立っていた。メゾン・ルリエの金の花が、パスの端で光っている。

 男は何も言わない。ただ、茉子の手元の封筒を見てから、遼を見る。遼は目を逸らさない。

 男は、わずかに顎を引いた。それだけで、昨夜の刺さる言葉が少しだけ丸くなる。


 扉の近くにいた優歌が、茉子の横へ並び、短く言った。

 「……次は、結果ですね」

 「はい」

 茉子は頷き、指先を握った。針山はない。けれど、指先はまだ、縫う形を覚えている。


 遼が自分のポケットから小さな飴を一つ出した。包み紙が、コンビニの安いやつだ。

 「……糖分」

 「節約の匂いがする」

 「匂いじゃなくて味だ」

 遼が言うと、茉子は笑ってしまった。笑うと、胸の奥の硬いものが、さらにほどける。


 笑いが収まると、待合の天井のダウンライトが、白い点で並んで見えた。茉子は無意識に三つ数える。森田が言った「三つ見えれば十分」が、紙の角の痛みと一緒に蘇る。

 ここは屋上じゃない。夜空でもない。でも、胸の中には小さな光が残っている。


 扉の向こうで、誰かの名前が呼ばれる。優歌が立ち上がり、背筋を伸ばした。

 茉子は、その背中を見送りながら、自分の膝の上の封筒を指で撫でた。嘘を終わらせた証が、ここにある。

 次は、服の力だけで、胸を鳴らす番だ。



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