第33話 遼の空白の年
拍手が、遠くへ引いていく。舞台の明かりが落ちた瞬間、さっきまで熱かった空気が、すうっと冷めた。紗良は袖に戻るなり、胸の前で両手を合わせて、茉子へ深く頭を下げた。
「足の指、ちゃんと生きてます」
「……よかったです」
茉子の声は、笑っているのか泣いているのか、自分でもわからない。芽吹は紗良の肩へ、さっき結んだリボンをそっと乗せて言った。
「これ、返して。……あ、でも、今夜だけは貸しとく」
「貸すって言い方、かわいいね」
博宣がシャッターを切りながら、余計な一言を足した。
「芽吹、照れた顔、撮る?」
「撮らないで」
そんなやり取りの横で、遼は少し離れた通路へ視線を置いたまま、動けずにいた。茉子が遼の横へ行こうとしたとき、黒いスーツの男が、舞台袖のさらに奥から現れた。
首から下げたパスに、金の花の印――メゾン・ルリエ。
男は笑っていない。笑わないまま、口元だけが動く。
「……久しぶりだな、遼」
遼の肩が固まった。呼吸の音が、布の擦れる音より大きく聞こえる。茉子は一歩だけ、遼へ近づいた。遼は、茉子を見ることを避けているのではない。避けないために、目を動かせなくなっている。
「用件だけ言え」
遼が、やっと声を出した。声は乾いていた。
「用件? 簡単だ。『ここに来るな』って言われたから、来た」
男は片手でパスを押さえ、視線を舞台の方へ向けた。
「……いい出来だった。光の拾い方が、ルリエの癖に近い。いや、癖じゃないな。あの線だ」
茉子の胸がきゅっと縮む。「線」という言い方が、針の先みたいに鋭い。遼が一歩前へ出ようとした。けれど男は、遼の動きに合わせて半歩だけ詰め、逃げ道を塞ぐ。
「今さら、俺に何をさせたい」
「させたい? 違う。見に来ただけだ。……君が、また縫う場所を見つけたって聞いたからな」
男の視線が茉子へ移る。茉子の胸元のスタッフ札を、読むように眺めた。
「君が、茉子さん?」
名指しされた瞬間、茉子は背筋を伸ばした。体は勝手に縮みそうになるのに、喉は変に熱い。
「はい」
「遼は、迷惑をかけるだろう。……昔からそうだ。自分で背負って、自分だけで折れる」
遼が、歯を食いしばった。茉子は、その音を聞いた気がした。
「やめろ」
「やめない。君が消えた一年、現場は大混乱だった。君がいないと、縫い目の判断が遅れる。遅れれば、事故が起きる」
男は言葉を切って、遼の手元を見た。遼が握っている紙は、舞台の進行表だ。そこに、薄い折り目が増えている。
遼の喉が上下した。
「事故の話を、ここでするな」
男は、淡く息を吐いた。
「君が辞めた理由は、みんな知ってる。『俺の責任だ』って言って、頭を下げて、全部を持って出て行った」
その言い方は、褒めていないのに、刺さる。
茉子は思い出した。遼が、金を使わない理由を、ぽつりと話した夜。小さな工房の灯りの下で、遼が指を組み、ほどいて、また組んだ。あの指の動きは、布に触れていないのに、縫っているみたいだった。
茉子は男へ一歩、遼と並ぶ位置まで出た。遼の肩に触れない距離で、けれど同じ線上に立つ。
「事故って……何があったんですか」
遼が、茉子の方へ顔を向けた。初めて、茉子を見る。止めたい顔と、言わなきゃいけない顔が、同じ場所にある。
「……本番の前日だった」
遼は舞台袖の床を見つめたまま、言葉を落とした。
「衣装の裾が、ほんの指一本分、長かった。直せば間に合う。そう思った。……でも、現場は急いでいた。『いい』って言われた。俺も、押し切れなかった」
遼の指先が、空をつまむ。縫い代の幅を測るみたいに、たった数ミリを示した。
「本番で、モデルが踏んだ。転んだ。足首を痛めた。……客席の目の前で」
茉子は息を吸って、吐いた。さっきの紗良の裸足が、頭の中で重なる。布が危険にもなることを、茉子は今夜、知ったばかりだった。
「俺は、言った。『俺が悪い』って。……言えば、終わると思った」
遼の声が、少しだけ揺れた。
「でも終わらなかった。ルリエの名前が傷ついた。関係者も、モデルも、制作も……みんなが、俺の言葉で一回、止まった」
遼は唇を結び、ほどいた。
「その一年、縫えなかった。針を持つと、足首の角度が浮かぶ。……縫うたびに、誰かを転ばせる気がした」
男は、黙っていた。黙ることで、遼の言葉を促すみたいだった。
茉子は、遼の横顔を見る。遼はいつも、必要なことは言ってくれる。採寸の取り方も、縫い代の守り方も。けれど自分のことだけは、ぎりぎりまで言わない。言わない代わりに、針目で片づけようとする。
茉子は、腰につけた小さな針山を押さえた。指先に、針の硬さが伝わる。硬さは、怖さの形だ。でも、硬いから折れない。折れないから、縫える。
「遼さん」
茉子は、名前を呼ぶだけで、声をまっすぐにした。
「迷惑、って言うなら……今日、もう十分です。靴がないのに、遼さん、膝が埃だらけになるまで探してました」
茉子は、遼の膝の汚れを見た。黒い布に、神楽坂の床の色が残っている。
「それ、誰のためですか。……紗良さんのためで、私たちのためです」
遼が、ほんの少し眉を動かした。驚いたのか、怒ったのか、わからない動き。
「俺が、また迷惑をかける」
遼は男に向けるより先に、茉子へ言った。逃げ道を作らない言い方だった。
「ルリエが動けば、工房も巻き込まれる。審査だって、スポンサーだって……。俺がいると、余計なものを呼ぶ」
茉子は、胸の前で一度だけ、両手を握った。針山が当たって少し痛い。その痛さが、今の茉子には都合がいい。言葉を薄くしない。
「一緒に背負います」
茉子は言った。声は小さくない。
「遼さんが一人で折れるなら、二人で折れないようにします。……明日も縫うので。いてください」
芽吹が、後ろで小さく「うわ」と言った。博宣が「今、撮っていいやつ?」と聞き、芽吹が「撮らないで!」とまた言った。場違いなやり取りが、緊張の糸をほんの少しだけ緩める。
遼は、ゆっくり顔を上げた。男を見る。そして、茉子を見る。視線を逸らさない。逸らすと、また一人で背負ってしまうから。
「……わかった」
遼の返事は短い。けれど、その短さに、茉子は手のひらの汗を確かめた。ここに立っている、と遼が言っている。
黒いスーツの男が、わずかに顎を引いた。勝ち誇った顔でも、負けた顔でもない。ただ、事務的に言った。
「なら、覚えておけ。あの線は、簡単に許されるものじゃない。君たちが、どこまで正直でいられるか……見ている」
男は踵を返し、通路の暗がりへ消えた。金の花の印だけが、一瞬、光を拾って、すぐ影に沈んだ。
茉子は遼へ横目で笑う。笑うとき、口角だけじゃなく、目の奥も動くようにした。
「……遼さん、息してます?」
「してる。……たぶん」
「たぶんはだめです」
遼が、鼻で小さく笑った。笑いは短くて、すぐ消える。でも消える前に、茉子の胸の奥へ落ちる。
舞台の外の夜は冷たい。けれど、針目はまだ温かい。茉子は遼と並び、次に縫うものの形を、頭の中でなぞった。明日も、世界に一着を縫うために。




