第32話 光の中の影
舞台袖の空気は、布の匂いとヘアスプレーの甘い匂いが混ざって、少しだけむせる。南青山のホールは天井が高く、照明の熱が上へ逃げていくのに、足元だけが落ち着かない。
茉子は黒い袖口を握りしめて、舞台の隙間から客席を見た。前列の席には、審査員の札が置かれている。札の文字は小さいのに、そこだけ眩しい。隣の席には、商店街の人たちもいる。パン屋の奥さんが、両手で膝を押さえて座り直した。隣の酒屋の店主は、ネクタイを締め直しながら、そわそわと落ち着かない。
舞台の上では、司会の声が滑らかに流れていた。
「次は――神楽坂の工房『ゴールデンフラワー』より、一着」
呼吸が一拍、遅れる。
芽吹が茉子の肩を、指先で一度だけ叩いた。言葉はない。叩く強さもない。ただ、合図だけがある。
茉子は頷いて、モデルの紗良の背中へ目を向けた。
紗良は笑っていた。鏡の前の笑いとは違う。舞台へ出る前の、軽い笑いだ。
「靴、ないまま出るって、人生で初めてです」
「……歩き方は、昨日より綺麗です」
茉子が言うと、紗良は足首をそっと回した。芽吹のリボンが、くるりと揺れる。赤くない。派手でもない。でも、そこに「結ぶ」という意思が見える。
舞台監督が通りすがりに紗良の足元を見て、眉を上げた。
「靴は?」
芽吹が胸を張って、言い切った。
「ありません。代わりに、結び目があります」
監督は一瞬だけ固まり、次の瞬間、笑いを噛み殺した顔で親指を立てた。
「転ぶなよ」
「転びません。転びそうになったら、意地で起き上がります」
芽吹の返しに、茉子の肩がふるえる。笑ってはいけないのに、笑いが出る。胸の奥が少しだけ軽くなった。
博宣が舞台袖の隅でカメラの設定を弄りながら、ぼそっと言った。
「裸足の一歩って、映えるんだよ。……でも、マジで転ぶなよ」
「さっきと同じこと言ってる」
芽吹が呆れたふりをし、博宣は「それだけ大事ってこと」と言ってシャッターを半押しした。
遼は最後尾に立って、舞台監督の手元を見ていた。膝に付いた埃は、まだ落ちていない。隠そうともしていない。黒いスラックスの膝だけが、昼の神楽坂の床を持ち込んでいるみたいだった。
遼は茉子を見ずに、短く言った。
「裾、二センチ上。照明で沈む」
茉子はすぐに頷いた。遼がそう言うときは、ちゃんと見えている。裾の光り方も、転ぶ足の角度も、客の目の動きも。
舞台監督の手が上がる。
音楽が、低く始まった。
紗良が息を吸い、足の指で床を掴む。芽吹のリボンが、結び目のところで小さく震えた。
その瞬間、茉子は自分の指先を見た。
針を持っていないのに、指先が針を探している。布に触れたい。縫い目を確かめたい。けれど、いま縫うのは布じゃない。今日までの時間だ。迷って止まった夜を、言い訳を飲み込んだ朝を、遼が帳簿の白い年を「飛ばして」と言った瞬間を。
紗良が舞台へ出た。
照明が落ち、一本の光が、ドレスを拾う。
客席が、どよめいた。
どよめきは声ではない。息だ。何人もの息が、同じところで止まる音だ。
金色のボタンが、光の芯で一度だけ瞬く。ゴールデンクォーツの粒が、布の奥で火花みたいに散って、すぐ落ち着く。裾の金糸が、足元の暗さを持ち上げる。裸足の指が見えた瞬間、誰かが「え」と小さく漏らした。次の瞬間、芽吹のリボンが、足首をきゅっと引き締め、足元の不安を「意図」に変えた。
茉子は息を吐いた。吐くと、胸の奥に針穴がひとつ空く。そこへ、次の呼吸が通る。
針目の数だけ、穴が増える。穴が増えると、息が通る。息が通ると、前が見える。
舞台の向こう側で、紗良が一歩、二歩、三歩。
足元は静かだ。裸足なのに、音がしない。床を叩くのではなく、床を撫でていく。
客席の最前列で、審査員の一人が身を乗り出した。ペンが動き、紙が擦れる。茉子はその音に、胸が締まるのを感じた。
少し後ろの席で、黒いスーツの青年が、腕を組んだまま見ていた。光の当たり方を確かめるみたいに、目だけが動く。茉子は、その横顔に見覚えがあった。
優歌だ。
優歌は、茉子と目が合っても逸らさなかった。唇が、ほんのわずかに動く。言葉にすると、負ける、とでも言いそうな動きだった。茉子は、目だけで会釈して、すぐ舞台へ視線を戻した。
紗良がターンした瞬間、ドレスが花びらのように開いた。金糸が客席の暗さへ線を引く。その線が、ただ綺麗なだけじゃなく、紗良の足元の「怖さ」を引き上げて、胸へ持ってくる。
茉子は喉の奥が熱くなった。怖さも、一緒に見せる。その覚悟が、布の中に入っている。
そのとき、遼が動いた。
舞台袖のさらに奥。スタッフ用の通路へ、視線が吸い寄せられたみたいに、首がそちらへ向く。
茉子は遼の横顔を見た。横顔は、いつもと同じだと思った。眉の角度も、口の線も。
なのに、次の瞬間、遼の顔から色が抜けた。
通路の先に、黒いスーツの男が立っていた。首から下げたパスには、金の花の印――メゾン・ルリエ。
男は笑っていない。笑わないのに、口元だけが動く。
「……久しぶりだな」
声は小さいのに、遼の肩が固まった。
遼は返事をしなかった。喉の奥で、何かが詰まるみたいに、息だけが止まる。手元の紙が、指先から少しだけずれた。
茉子は気づいた。遼が、逃げないようにしている。逃げないために、動けなくなっている。
けれど、舞台の上では紗良が歩き続ける。靴がないまま、堂々と。布が揺れ、光が追いかける。客席の息がまた止まり、次の瞬間、ふっと吐き出される。
茉子の心は二つに割れた。遼のほうへ行きたい。遼の前に立って「いまは見ないで」と言いたい。
でも、紗良の背中がそこにある。今日の一歩は、紗良だけのものじゃない。芽吹のリボンも、博宣のシャッターも、遼の埃まみれの膝も、全部が縫い合わさっている。
茉子は、自分の手を握りしめた。針を持たない手で。
そして、目を舞台の上へ戻した。
前だけを見る、と決めるために、わざわざ決め直した。
舞台の端で、紗良が一礼する。
その瞬間、客席のどよめきが拍手に変わった。拍手は温度がある。手と手がぶつかる音が、工房の作業台みたいに確かだ。
芽吹が袖の中で小さくガッツポーズを作り、博宣のシャッターが連続で鳴った。茉子の目の奥が熱くなった。泣くのはあとだ。泣くなら、縫い目をほどかない場所で泣く。
紗良が舞台袖へ戻ると同時に、茉子は駆け寄った。
「大丈夫でした?」
「大丈夫。……足の指、ちゃんと生きてます」
紗良が笑いながら足の指を動かし、芽吹が「よし」と短く頷く。茉子はドレスの脇へ手を入れ、縫い目が開いていないか指先で確かめた。布は静かだ。縫い目も静かだ。静かなのに、胸だけが騒がしい。
拍手の残り香がホールに漂う中、遼は通路へ一歩、足を踏み出した。足音が小さい。膝の埃を引きずる音もない。
茉子はドレスを抱えたまま、遼の背中を見た。背中が、いつもより遠い。
通路の男が遼へ近づいた。近づき方が、客へ出す笑いじゃない。仕事の顔だ。
「審査会に出るって、本当か」
男が言い、遼の喉仏が上下した。
「……ここで、やることがある」
遼の声は絞ったみたいに低い。
「まだ、終わってないんだろ。あの件」
男の最後の単語が、拍手の音の裏へ沈み込む。茉子は聞き取れなかった。聞き取れなかったのに、胸の奥が冷える。
茉子は気づく。聞き取れない言葉のほうが、人を縛ることがある。
舞台の上では、次の出品者の紹介が始まった。スポットライトがまた別の場所へ移り、客席の視線もそちらへ流れる。
茉子はドレスの肩を抱え直し、遼のほうを見ないまま、暗がりに向けて小さく言った。
「遼さん。……終わったら、話しましょう」
返事は聞こえない。
でも、遼の指先が、胸の前で一度だけ握られたのが見えた。
光の中の拍手の裏側で、影が、ゆっくり形を持ち始めていた。




