第31話 本番当日、靴がない
神楽坂の朝は、石畳がまだ冷たい。会場の裏口に着くと、運搬用のシャッターが半分だけ開いていて、段ボールの山と布の匂いが外へこぼれていた。
茉子は、肩に掛けたガーメントバッグを抱き直し、指先でファスナーを確かめた。昨夜、針先で跳ねた金色の光を思い出す。あのボタンは、いまこの中で眠っている。
控室に入ると、鏡の前にモデルの紗良が立っていた。髪はまとめられ、首筋のうなじが照明で柔らかく光る。床には衣装箱、メイク道具、靴の箱がきちんと並んで――いるはずだった。
紗良が足元を見下ろし、片方の素足をちょこんと上げた。
「……靴、ないです」
言い方が、妙に丁寧だった。
遼は手元のチェック表をめくり、靴の欄を指でなぞった。昨日、箱を受け取った署名もある。だからこそ、声が短くなる。
「箱、どこ置いた?」
「ここです。さっきまで、ここに」
紗良が椅子の横を指す。そこには、薄い跡だけが残っていた。床の埃が、四角く抜けている。
優歌が、袖をまくったまま入ってきた。目だけで状況をつかむと、いきなり手を叩いた。
「探す場所、分けましょう。控室、搬入口、舞台袖、倉庫。十分で戻る。遼さん、倉庫は私も行く」
誰も返事をする前に、優歌はメイクさんに向かって「靴のメーカーさん、連絡先あります?」と聞き、すでにスマホを耳に当てていた。
茉子は息を吸い、吐いた。胸の奥で、布が引きつれるみたいに緊張が絡む。靴がない。それは、ドレスの完成を否定されるのと同じだ。
けれど、針目はもう揃っている。できることを探すしかない。
「……代わりの靴、ありますか」
茉子が言うと、紗良のマネージャーが首を横に振った。
「色味が合うのは、これだけのはずで……」
芽吹が、机の端に置いてあった細長いリボンの束をそっと持ち上げた。昨夜遅くまで、黙って縫っていたやつだ。端の処理が、ほつれないように二重になっている。
芽吹は、束を一度ほどいてから、茉子の手に一本渡した。
「足首、これで作れる」
「……足首?」
「靴が違っても、目線を上げればいい」
茉子はリボンを指で挟んだ。艶のある布が、光を吸って柔らかく返す。ドレスの金色に寄り添う、落ち着いた色だ。
「芽吹さん、これ……」
「言う前に、巻いてみて」
芽吹は紗良の前にしゃがみ、足首にそっと指を添えた。紗良も、足を出したまま動かない。芽吹の指先が、迷わずにリボンを通していく。
遼は倉庫へ走った。廊下の角を曲がるたび、何かにぶつかりそうになり、謝りながら肩をすぼめる。倉庫の扉を開けると、衣装の箱が天井まで積まれていた。床は舞台用の黒いテープだらけで、靴の箱は似たようなのが山ほどある。
「……探し物って、なんでこう、似た箱ばっかなんだよ」
遼は膝をついた。床に手をつくと、黒い埃が掌にべったり付いた。箱を一つずつ引き出しては、ラベルを見る。数字が踊る。メーカー名が似ている。サイズ表記が小さい。
膝はすぐに白っぽくなり、ズボンの生地がざらついた。
舞台袖では、音響チェックの低いベース音が鳴っていた。スタッフが通るたびに「そこ通るよ!」と声が飛ぶ。遼は「すみません!」と返しながら箱を開け、閉じ、開け、閉じた。
ようやく見つけた箱は、片方だけだった。右だけ、しかもサイズが違う。
「……誰のだよ」
遼は箱を抱えたまま、天を仰いだ。照明の光が、目に刺さった。
その頃、控室では芽吹のリボンが足首に花を咲かせていた。紗良の裸足に、リボンが交差して巻かれ、最後に小さな結び目が踊る。靴がなくても、足元に視線が集まる形ができる。
茉子は鏡越しにそれを見て、口元が勝手にほどけた。泣きそうなのに、笑ってしまう。
「……ありがとうございます。芽吹さん、ほんとに」
礼の言い方が、途中でふにゃりと崩れた。
芽吹は結び目を整え、胸を張った。返事は短い。
そこへ、博宣が小さな一眼カメラを胸に下げて入ってきた。黒いジャケットの内側から、布を拭くための白いハンカチを取り出し、遼の膝を見て一度止まる。
「……床、強いね」
博宣は、言い訳みたいに呟いてから、控室の隅にある「落とし物」の箱を指した。スタッフが何でも放り込む段ボールで、ガムテープに手書きでそう書いてある。
「さっき、靴っぽい箱、ここに入れた人いた」
「ほんと?」
茉子が身を乗り出すと、博宣は肩をすくめた。確証はない、という動きだ。でも、茉子はその箱へ走った。
段ボールの中には、手袋、ヘアピン、名札、謎の充電ケーブル。靴の箱も二つあった。茉子は息を止めて、ふたを開ける。
片方は子ども用の白いシューズ、もう片方は舞台用の黒いブーツだった。
「……ちがう」
声が小さく漏れた。悔しさが、舌の奥で苦くなる。
それでも、博宣は箱の端に置いてあった滑り止めテープを一枚だけ拾い上げ、芽吹のリボンの裏側にそっと貼った。
「歩くとき、ここ、ずれやすい」
芽吹が黙って頷き、紗良の足首の裏を指で押さえて確かめた。紗良は、片足で立っても顔色を変えず、ふっと息を吐く。
「歩けます。ちゃんと、歩けます」
その一言で、控室の空気が少しだけ軽くなった。
「当然」
優歌が戻ってきた。片手にメモ、もう片方で誰かに短く指示を出しながら、茉子に目線を寄せる。
「代替の靴、搬入口に一足届く。色は近い。サイズも合う。間に合う」
茉子が「え……」と声を漏らすと、優歌は息を吐いた。
「私、電話で頼んだだけ。走ったのは配送の人」
そう言って、優歌は紗良の足首のリボンを見て、ほんの少し口角を上げた。
「その飾り、いい。予定外なのに、ドレスの金を引き立ててる」
遼が戻ってきたのは、その直後だった。膝が埃だらけで、袖口も黒い。顔は少し赤い。けれど、目だけは諦めていない。
「靴、見つからなかった。箱は……全部、違った」
遼が言うと、茉子は一瞬だけ胸が締まった。それでも、遼の膝の汚れを見た瞬間、別の気持ちが湧いた。あの人は、床に膝をついて探した。服が汚れるのを気にするより先に。
「……遼さん」
茉子は遼のズボンの膝に、そっと指を伸ばした。埃を払おうとして、途中でやめた。払ったら、探した証が消えてしまう気がした。
搬入口から届いた靴は、確かに色が近かった。けれど、完全に同じではない。光の当たり方で、少しだけ違いが見える。
茉子は、芽吹のリボンを見た。リボンが足首に線を作り、視線を上に導く。金色のボタンへ。ドレスの裾の揺れへ。
茉子は頷いた。
「これでいけます。足元、芽吹さんのリボンがあるから」
開演まで、あと十五分。
控室の時計の秒針が、音を立てて進む。茉子はガーメントバッグを開け、ドレスを取り出した。布が空気を含んでふわりと広がる。金色の小さな飾りが、控室の白い光を受けて、ひと息だけ瞬く。
茉子は針山を見た。針はもう刺さっていない。だから、言葉で縫うしかない。
茉子は鏡の中の自分に向かって、ではなく、そこにいる全員へ向かって言った。
「今日も、世界に一着を縫います」
その言葉のあとで、遼が笑った。膝の埃のまま、肩をすくめるように。
「じゃあ、共犯者でいよう」
舞台袖の幕が、ゆっくり上がり始めた。




