第30話 ゴールデンクォーツのボタン
夜の神楽坂は、昼よりも音が少ない。路地の先でタクシーが一台、ゆっくりと曲がっただけで、あとは古い洋館の窓に、作業灯の白い四角が浮かんでいる。
工房の中では、布の擦れる音と、針の細い音だけが続いていた。
茉子は、机の端で小さく息を整えた。前の仮縫いで遼から借りた手袋は、指先だけが出る形で、布の感触は残るのに冷えは和らぐ。
それでも、針を持つ指は固かった。冷たい、というより、今夜の一針が最後になるのだと、身体のほうが分かってしまっている。
「ここ、あと二ミリ……」
芽吹がライトの角度を変える。光が布の山を滑り、縫い目の影をはっきりと浮かべた。
遼は計算機を横に置き、口を閉じたまま頷く。言葉を足すと、針が迷う。そんな空気が、四人の間にできていた。
そこへ、控えめなノックが入った。
遼が顔を上げるより先に、茉子の背筋が伸びた。あのノックは、この洋館の廊下の音だ。
「……起きてますか」
扉が少しだけ開き、管理人が顔を出した。制服の上着は脱いでいて、白いシャツの袖を肘までまくっている。手には、小さな木箱があった。
木箱は、両手で抱えるほどでもないのに、持ち方だけがやけに丁寧だった。
「遅くにすみません。……これ、持ってきました」
管理人は机の端に箱を置き、開ける前に一度だけ、指先で蓋を押さえた。押さえたまま、目を伏せる。言い出し方を、探しているみたいに。
茉子は手袋の布を、指でつまんだ。喉の奥が乾く。
箱が開くと、柔らかな布の上に、丸い石がひとつ、寝ていた。
金色といっても派手ではない。蜂蜜のように濃いところと、薄いところが混ざって、灯りの角度で静かに変わる。
「……ゴールデンクォーツです」
管理人が小さく言った。名前を言うだけで、箱の中の石が重くなる気がした。
「妻が……昔、いつも触っていたものです。……今夜、最後の仕上げでしょう。中心に、どうしても“芯”が要るなら、これを」
茉子の手が止まった。
「む、無理です。こんなの……」
言い終える前に、声が裏返った。自分で驚いて、口を閉じる。
針の先が、作業灯の下で白く光っている。その白さが、急に怖くなる。
遼が椅子から立ち上がった。管理人の箱に手を伸ばさず、箱と茉子の間に、掌を置く。
「貸す側が不安なら、借りる側も不安です。……でも」
遼は、机の端に置いてあった伝票の束を、きっちり揃えた。揃える動作が、なぜか落ち着いた声に繋がる。
「責任は二人で持ちます。……僕と、茉子さんで」
茉子は遼を見た。遼は目を逸らさなかった。数字を見つめる時と同じ目だ。逃げ道を探さない。
その目に押されて、茉子の胸の中で、怖さの形が変わった。触れたくない怖さから、触れなきゃ守れない怖さへ。
管理人が、ふっと息を吐いた。
「……いいんです。返してくれれば、それで。壊れたら……その時は、二人が、泣くでしょう」
泣く、という言葉が出たのに、管理人の口元は笑っていない。笑い方ではなく、冗談みたいに軽くするための言い方だった。
「泣くのは、先に僕です」
遼が即答した。
芽吹がライトを上げたまま、肩を震わせた。優歌が、黙って工具箱から細いペンチを取り出し、石に触れない距離で留め具の形を確認する。
「ボタンにします」
茉子は、ようやく声を出した。自分の声が、思ったより低い。
「石を、ただ縫い付けるんじゃなくて……受ける輪を作って、そこを縫います。外れたら、石が転がる。だから、二重にします。……目立たない場所に、保険の糸も通します」
遼が頷く。
「糸、最強で」
茉子は、糸棚の奥から、前に守り抜いた一本を引き出した。柔らかいのに、引っ張っても負けない糸。値段の話で喧嘩した夜に、二人で探して、二人で買った糸。
それを針に通す時、茉子の指先が少しだけ震えた。
管理人が箱から石を取り上げようとして、手を止めた。
「……触れますか」
茉子は首を横に振りかけて、途中で止めた。手袋の上から、箱の布に指を置く。冷たさが、薄い布越しに伝わる。
「……触ります。今夜だけ」
遼が、茉子の肘の近くに、掌を置いた。支えるのではなく、逃げない場所を作るみたいに。
茉子は石をつまみ、優歌が用意した小さな輪に、そっと落とす。
カチ、と音がした。音がしただけで、工房の空気が一段、緊張する。
芽吹が、ライトを少しだけ落とした。眩しすぎると、手元が見えなくなる。
「息。吸って」
芽吹の声は短い。命令の形なのに、嫌な感じがしない。茉子はその通りに、吸って、吐いた。
針が輪の布に入る。抜ける。もう一度、入る。抜ける。
茉子は数えた。縫い目の数ではなく、呼吸の数を。呼吸が乱れると、針が乱れる。
遼は横で、糸を送る。引っ張りすぎない。緩めすぎない。糸が鳴かない速度で、一定に。
途中で、輪が一度だけずれた。
「っ」
茉子の喉が鳴る。
遼が手を伸ばし、輪の外側に指を添えた。石には触れない。触れないまま、輪だけを戻す。
優歌が小さく頷き、ペンチで留め具をほんの少しだけ締める。金属がひと息で形を変える音がした。
茉子は、声にしないまま笑った。怖いのに、笑ってしまう。こんな夜に、四人が同じ方向を向いているのが、可笑しい。
管理人は一歩下がって、両手を腹の前で組んだ。いつも廊下で見かける姿勢だ。でも今夜だけは、足の指先がほんの少し、内側を向いている。
最後の返し縫いを入れる時、石が灯りを受けた。
金色の光が、針先で跳ねた。跳ねた光が、布の上に小さな点を作って、すぐ消える。
まるで、縫うたびに星がひとつ、生まれては消えていくみたいだった。
茉子は糸を切った。切った瞬間、背中の汗が冷えたのが分かった。
遼が、布をそっと持ち上げる。ボタンは、そこにあった。派手ではないのに、目が吸い寄せられる。
茉子は、縫い目を指でなぞらない。なぞれば、石の冷たさが伝わって、また怖くなる。だから、目だけで確かめる。
管理人が近づき、胸の前で手を止めた。触りたいのに触れない距離。
「……妻が、こういうの、好きでした」
それだけ言って、管理人は目を細めた。涙を見せないための目の形だと、茉子は思った。
遼が、箱の蓋を閉めた。中身はもう入っていないのに、蓋を閉める動作が儀式みたいに丁寧だった。
「明日、光の中で返します」
管理人は頷き、頷いた後で、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「星の場所……見つかりましたか」
管理人がふいに言った。
茉子は驚いて、優歌と芽吹を見た。二人は何も言わない。言わないのに、遼が小さく顎を引いた。
「博宣が、探しました」
管理人は笑った。今度は、目も笑っていた。
「……なら、約束は守れますね」
それだけ残し、管理人は扉を閉めた。廊下の足音が遠ざかる。遠ざかる音が、今夜の緊張を少しずつほどいていった。
工房に残った四人は、しばらく誰も喋らなかった。
茉子は、完成に近づいたドレスの胸元を見た。金色の芯が、静かに息をしている。
遼が小さく言う。
「……二人で、持ったな」
茉子は頷き、手袋を外した。指先は冷たくない。怖さが、別のものに縫い替わっていた。
机の上の針山に、針を戻す。
針の先が、作業灯を受けて一瞬だけ光った。あの石の光と同じ高さで。
茉子は、明日の本番の光を思い浮かべ、胸の奥でそっと笑った。




