第29話 最後の仮縫い、言えなかった言葉
博宣が階段を下りたあと、工房の空気が少しだけ静かになった。扉の隙間から入ってくる外の湿気と、二階の熱と蒸気が混ざって、息を吸うと甘い木の匂いがした。
作業台の端に、博宣のメモ帳が置かれている。角ばった文字で「屋上庭園 二十時過ぎ 滑りにくい靴」と書いてある。茉子はそれを見て、胸の奥がきゅっと縮んだ。星が見える場所なんて、いまの自分には遠すぎると思っていたのに、紙一枚で、少し近づいた気がした。
「明日の午前、最後の仮縫い」
遼が、紙の上に目を落としたまま言った。いつもの電卓は閉じられていて、代わりに針山の横に小さなメモがある。「篠宮 十時」「ボタン位置再確認」「裾 五ミリ」。
茉子は「はい」と返事をしたのに、声が喉の奥でひっくり返った。自分でも驚いて口を押さえる。芽吹がミシンの前で肩をすくめて笑いそうになり、笑うのをやめた。笑いを止めるときの顔が、なぜか大人っぽい。
白いドレスは、いま“途中の顔”をしていた。仮の縫い糸がところどころ飛び出し、線で描いたみたいに形をつくっている。胸元の金の花は、完成の顔を先に見せてしまっているせいで、他が追いついていないみたいに見えた。
「やることは分かってる。けど……」
茉子は糸を通しながら、言葉が細くなるのを感じた。明日、篠宮に着てもらう。袖の角度、ウエストの絞り、背中の開き。自分が縫った線が、そのまま相手の呼吸になる。思っただけで指先が硬くなる。
針を持つ手が、冷たかった。
汗をかいているのに、手だけが冷たい。冷房の風が、ちょうど作業台の上に落ちてきているせいだ。芽吹が「扇風機、弱くする?」と聞くが、弱くすると蒸気が逃げない。遼は「……電気代が増える」と言いかけて、咳払いでごまかした。
茉子は笑おうとして失敗した。針先が布に入らない。入っても、出る場所がずれる。たった一針で、脳が大げさに騒ぐ。
「手、見せて」
遼が言った。命令みたいな短さなのに、声は柔らかい。茉子は「大丈夫です」と言いながら手を出した。遼の指が、茉子の指先を軽く押した。冷えた金属に触れたみたいに、じんとする。
遼は黙って自分の手袋を外した。薄い灰色で、指先が少しすり減っている。親指のところだけ違う糸で縫い直されていて、その縫い目が妙に丁寧だった。
「……直したんですか」
「捨てるのは早い」
遼はそれだけ言って、茉子の手に手袋をのせた。
夏なのに、手袋は意外と気持ちいい。内側が少しだけあったかい。遼の手の温度が、どこかに残っている気がして、茉子は慌てて首を振った。そんなの、気のせいだ。たぶん。
「いま言えないなら、縫って言え」
遼が、布の上の線を指でなぞりながら言った。
茉子は、瞬きをした。言えない言葉は、いくつもある。
「ありがとうございます」も、「怖いです」も、「助けてほしい」も。もっと奥に沈めて、見ないふりをしている言葉もある。
針を進めるとき、遼の声が続いた。
「縫い目は、嘘をつかない。乱れたら、乱れてるって出る。揃えたら、揃えてるって出る」
「……はい」
「だから、いまの気持ちを、縫い目に押し込めればいい」
芽吹が黙ってライトを寄せた。古いスタンドライトの首が、少しきしむ。光が、白い布の上に円をつくる。そこだけ昼みたいに明るい。
茉子は深く息を吸い、吐いた。吸うときに、ラベンダーの匂いがほんの少し強くなる。篠宮の記憶の匂いだ。縫うのは、服。けれど、縫っているのは、誰かの時間でもある。
針を入れる。出す。糸を引く。指先の感覚が戻ってくる。遼の手袋の内側が、糸の引っかかりを教えてくれる。さっきまで震えていた手が、いまは一定の速度で動いている。
仮縫いの糸は、あえて少し太い。明日、ほどきやすいように。ほどくことを前提に縫うなんて、最初は嫌だった。せっかく縫ったのに、と。けれど最近は、ほどくことが怖くなくなってきた。ほどいても、また縫える。むしろ、ほどいた線があるから、次の線が迷わない。
「……遼さん」
茉子は、言いかけて止めた。言葉が出る前に、針が次の位置に行ってしまう。針のほうが先に進む。
遼は返事をしなかった。返事を待っていないのかもしれない。彼は作業台の向こうで、ボタンの位置の印を消してはつけ直している。ペン先が布に触れる音が、針の音に混ざる。
芽吹が糸切りばさみを出し、仮縫い糸の端を揃えた。髪を耳にかける動きが、やけに静かで、茉子は胸の奥が少しだけ温かくなる。芽吹は冷めやすい、と自分で言う。でも、手元はいつも、ちゃんと残る。
「優歌、明日の段取り、もう一回言って」
遼が言った。
優歌はミシンの前で背筋を伸ばした。以前みたいに勢いだけで返事をしない。呼吸を整えてから、短く言う。
「十時に篠宮さん。採寸の確認。ウエスト、背中、袖。終わったら、裾の長さ。写真は博宣さんが撮る」
「靴とアクセは?」
「持ってきてもらう。忘れたら……」
優歌が言いよどむ。茉子の針が一瞬止まった。忘れたらどうする。忘れられたら困る。
「忘れたら、工房の予備で合わせる」
遼がさらっと言った。
「予備、あるんですか」
茉子が思わず聞くと、遼は「節約の副産物」とだけ言って、引き出しを指した。中には、黒いシンプルなパンプスが一足、丁寧に包まれていた。芽吹が「いつ買ったのそれ」と小声で突っ込み、遼は「いつでもいいだろ」と返した。茉子は笑ってしまった。笑うと、肩の力が抜ける。
針がまた動き出す。仮縫い線が、白い布の上で形を固める。背中の開きのカーブを作るところで、茉子は一度だけ手を止めた。ここは篠宮の呼吸が出入りする場所だ。背中の肌が見えるか見えないかで、品の境目が変わる。茉子は手のひらで布をなで、目を閉じた。
――言えなかった言葉。
「怖いです」と言ったら、遼はどうするだろう。笑うわけがない。きっと、黙って対策を書く。芽吹は「怖いのは、手が止まるから怖いんだよ」と言って、ライトを近づける。優歌は「僕も怖いっす」と言って、余計に緊張する。博宣は何も言わないけれど、写真のシャッターを一回だけ切る。そんな未来が見えた。
それでも、言えなかった。
だから茉子は、縫った。背中の内側、表から見えないところに、ほんの小さな返し縫いを入れる。花の形でも、文字でもない。ただ、糸が二度戻って、強く結ばれる縫い方。ほどけにくい縫い方。
「……いまの、何」
芽吹が気づいた。声は小さく、からかう感じがない。
「秘密です」
茉子は言って、また針を進めた。秘密は言葉にしたら消える。いまは縫い目の中で生きていてほしい。
遼が、布の端を押さえる指に力を入れた。茉子が引く糸が真っ直ぐになるように、少しだけ角度を変える。助けるというより、邪魔をしないための動きだ。そういうところが、遼らしい。
深夜一時。アイロンの蒸気が少しだけ弱くなり、工房の音が小さくなる。最後の仮縫い線がつながったとき、茉子は針を置いて、肩で息をした。
遼が、手袋を見た。
「返して」
「……はい」
茉子は名残惜しくて、指を一度だけ握った。遼の手袋の形が、手に残る。渡すとき、遼の指が一瞬だけ茉子の手の甲に触れた。たったそれだけで、心臓が変な音を立てた。
「明日、言える?」
遼が聞いた。目は帳簿のほうを見ているのに、声だけがこっちを向いている。
茉子は布を見た。縫い目は揃っている。揃っているのに、胸の中は揃っていない。
「……縫った分だけ、近づきます」
「それでいい」
芽吹がライトを消した。暗くなった工房で、金色の花刺繍だけが、最後まで目に残る。茉子はその光に、さっき縫った秘密を重ねた。明日、ほどくために縫った糸。ほどけないように、こっそり入れた返し縫い。
外はまだ蒸し暑いはずなのに、工房の中には少しだけ、夜風が入ってきた。扉の向こうで、博宣が買ってきたカップ麺の袋ががさっと鳴る音がした。遼が「静かに」と言い、芽吹が笑いを噛み殺す。
茉子は笑いながら、もう一度だけドレスを見た。
明日、篠宮がこれを着て息をする。その息の音のそばに、きっと自分の言えなかった言葉も、縫い目の形で残る。
だから、もう一針。見えない場所に、そっと入れる。
針が布を抜ける音が、小さな星みたいに、工房の中で瞬いた。




