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ゴールデンフラワーの一着  作者: 乾為天女


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第28話 博宣の単独行動、星の場所

 七月の終わり、神楽坂の路地は夕方でもぬるかった。工房の二階はミシンの熱とアイロンの蒸気で、窓を開けても空気が逃げない。扇風機が首を振り、糸くずを舞い上げそうで、芽吹が手で押さえて止めた。


 作業台の上には、白いドレス。胸元の小さな金色の花刺繍が、ライトの下で静かに光っている。篠宮が置いていった匂い――古い木箱とラベンダー――は、まだ布の奥に残っていた。


 遼は電卓を叩きながら、数値の横に小さく丸をつける。丸が増えるほど、顔が険しくなるのが分かる。茉子はその横顔を見ないようにして、裏地の縫い目を指でなぞった。針目の間隔を揃えると、気持ちも揃う気がした。


 「今日、篠宮さんから電話」

 遼が言った。声はいつもの平坦さなのに、文だけが妙に柔らかい。

 「『仕上がったら、空の下で一度だけ見たい』って。洋館の周りは明るいから、星が見える場所がないってさ」


 茉子は針を止めた。星、という言葉が布に落ちたみたいに、工房の空気が少し静かになる。

 「空の下で……」

 芽吹が顔を上げ、短く言う。

 「虫、来る」

 「来るね」

 茉子は思わず笑ってしまう。笑っていいのか分からないのに、芽吹の正直さが助け舟みたいに浮く。


 そのとき、博宣が工具箱の取っ手を握ったまま、何でもない声で言った。

 「星の場所なら、探しとく」

 「え?」

 茉子が聞き返す間に、博宣は階段を下り始める。靴の音が一段ずつ、あっさり遠ざかっていった。


 「……待て」

 遼が言ったが、遅い。扉の閉まる音だけが返事だった。


 茉子は針山を抱えたまま、遼を見た。遼は一度だけ眉を寄せたあと、何も言わずに帳簿を閉じる。閉じる音が、いつもより小さい。

 「博宣さん、ほんとに行っちゃった」

 「行くって言ったら行く」

 遼は短く言い、もう一度電卓を叩いた。


 博宣は、神楽坂駅から電車に乗り、地上に出るたび空を見上げた。スマホの画面には星の位置が表示される。けれど、空は白く、夕方の残りが街灯に溶けていた。

 「白いな」

 口に出したら、余計白く見える気がして、博宣は口を閉じた。


 最初に向かったのは、市谷の丘の洋館の近くだった。篠宮の話では、周りの街灯が強い。なら、少しだけ高い場所に上がれば――と単純に考えたが、屋上へ上がる階段は鍵が掛かっていた。管理室の前でインターホンを押すと、若い警備の声が返ってくる。

 「屋上は危ないので」

 「危なくない時間だけ」

 「危ないので」

 会話が、布の端切れみたいにすっぱり切れた。


 その足で、近くの展望スペースにも寄った。入口の前に「入場一〇〇〇円」の看板が立っている。博宣は財布を開け、硬貨を数え、そっと閉じた。

 「星は高いな」

 誰にでもなく言って、背中を向けた。星は空にあるのに、入口で止まるのが悔しくて、歩幅が少し速くなる。


 次は、立体駐車場の屋上。スロープを上りかけたところで、係員に止められた。

 「車、ですか?」

 「……星、です」

 係員が一度だけ瞬きをして、「車で」と言い切った。博宣は「はい」と返して、素直に引き返した。素直に引き返すときだけ、足音が重い。


 飯田橋のほうへ歩くと、橋の上は風がある。川面に街の光が伸びて、星の代わりに広告の文字が揺れる。博宣はポケットから小さなメモ帳を出し、候補を書き潰していった。


 そのうち、坂の途中で「屋上庭園」の小さな看板を見つけた。古い商業ビルの上に、植物の絵が描いてある。入口の横には「無料」「二十一時まで」と書かれた紙。博宣は一瞬だけ立ち止まり、次の瞬間には中へ入っていた。


 受付の女性が顔を上げる。

 「植物ですか?」

 「星です」

 言ってから、博宣は自分でも変だと思った。女性が目を丸くしたので、慌てて付け足す。

 「いや、星も見るんですけど、植物も見ます。どっちも、上で」


 女性は笑って、エレベーターのボタンを指した。

 「屋上は、静かにね。あと、ベンチは譲り合い」

 「譲り合う」

 博宣は真面目に頷き、エレベーターに乗り込んだ。


 扉が開くと、そこは意外なほど暗かった。街の明かりは遠くに散って、植物の影が足元で揺れる。手入れされた低木の間に、小さな白い花が咲いている。屋上なのに、土の匂いがした。


 柵のそばで、スタッフらしい若い男性がホースを片づけていた。博宣の工具箱を見るなり、首を傾げる。

 「設備の方ですか?」

 「違う。縫うほう」

 「縫う……?」

 言いながらも、男性は困った顔で花壇を見た。

 「すみません、最後に霧だけ当てたいんですけど、手が足りなくて」

 博宣は霧吹きを受け取り、言われた通りに白い花へ霧を落とした。細かい水滴が葉に乗り、光が小さく跳ねる。針先の光と、同じ跳ね方だった。

 「助かりました」

 男性が頭を下げる。

 「貸し、でいい?」

 博宣が霧吹きを軽く振ると、男性は笑って頷いた。

 「どうぞ。返すのはいつでも」


 博宣は柵まで歩き、空を見上げた。まだ一つも見えない。けれど、目が慣れると、空の色が少しだけ深くなる。風が汗を冷やす。背中の工具箱が重いのに、なぜか肩が軽かった。


 十分。二十分。街の音が遠のくころ、空に小さな点が浮いた。

 「……あった」

 声に出すと消えそうで、博宣は唇だけ動かした。もう一つ、少し離れたところにも。薄いけれど、確かに光っている。


 ベンチに座っていた年配の男性が「見えた?」と声をかけてきた。

 「見えました」

 「ここ、意外と穴場なんだよ。高いビルに囲まれてるのに、上だけ抜けてる」

 男性は缶コーヒーを掲げ、乾杯みたいに振った。博宣もつられて、会釈だけした。


 博宣はメモ帳に、入口の位置、最寄り駅、開放時間、足元が滑らない靴の注意まで書いた。星の位置は、時間で動く。だから「来るなら二十時過ぎ」と小さく丸を付ける。丸は遼の丸より少し歪んだが、それでいいと思った。


 神楽坂に戻るころには、工房の窓の灯りが外からでも見えた。博宣は階段を上り、扉を開ける。熱と蒸気が、顔にまとわりつく。

 「おかえり……え、何それ」

 茉子が言った。博宣の手には、メモ帳と、屋上庭園でもらった小さな案内の紙。それから、なぜか水やり用の小さな霧吹きが一本。


 「貸してくれた。植物に」

 「植物に?」

 芽吹が霧吹きを見て、ぽつりと言う。

 「優しい」


 遼がメモを受け取り、目で追った。声に出さず、指先だけが行をなぞる。最後の「二十時過ぎ」の丸で、遼の指が止まった。

 「……本当に見えるのか」

 「見えた」

 博宣は即答した。証拠みたいに、スマホの写真を見せる。黒い空に、小さな点が二つ。手ブレしているのに、光だけは消えていない。


 茉子は胸の奥がじんと熱くなった。星が見える場所を探すなんて、今の自分には縫い目より遠い話だった。なのに、博宣はそれを、買い物みたいに済ませてしまっている。


 もし篠宮が、仕上がったドレスを抱えてそこへ来たら。妻の匂いが残る布が、空の匂いを少しだけもらって、金色の花刺繍が街灯じゃない光で浮かぶ。茉子は想像しただけで、喉の奥が熱くなった。直すのは布だけじゃない。誰かの「大事だった」を、もう一度息をさせることだ。


 「どうしてそこまで……」

 茉子が聞くと、博宣は霧吹きを作業台に置き、工具箱の紐を締め直した。返事を考える顔じゃない。いつもと同じ、何でもない顔で言う。

 「友達だから」


 それだけ言って、博宣はまた扉へ向かった。

 「どこ行くんですか」

 「カップ麺、切れた」

 遼が小さく息を吐いた。呆れたようで、どこか助かったみたいでもある。博宣の背中が階段を下りるとき、遼は一度だけ頷いた。誰にも見せないくらい、小さく。


 茉子はメモ帳を胸に抱えた。紙の角が、手のひらに当たって痛い。痛いのに、安心する。星は遠い。けれど、遠いものを、誰かが近づけてくれる夜がある。


 ミシンが再び動き出す。針が布に入る音が、星の点みたいに、小さく確かに続いていった。



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