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ゴールデンフラワーの一着  作者: 乾為天女


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第27話 優歌の選択

 翌朝の神楽坂は、昨夜の雨をなかったことにしたみたいに乾いていた。工房の窓を開けると、石畳の匂いと、どこかのパン屋の甘い湯気が一緒に入ってくる。ミシンの音はまだ控えめで、代わりに、アイロンの蒸気が小さく鳴っていた。


 茉子は作業台の端に布を広げ、昨日の縫い目を指の腹でなぞった。針穴の間隔は揃っているのに、胸のあたりだけ、少し呼吸が落ち着かない。遼が夜に話したことが、糸みたいに残っていて、ふとした拍子に引っかかる。


 机の片隅には、領収書の束と、遼の電卓。数字が並ぶだけなのに、背中が寒くなる。茉子が視線を外すと、遼は小銭入れから硬貨を一枚だけ出して、針山の横に置いた。置き方が丁寧で、まるで“これ以上は出せない”という境界線みたいだった。


 「茉子さん、糸、取ってきます。昨日の青、あと一巻きほしいです」

 優歌が倉庫の棚を見上げながら言った。口調はいつもどおり軽いのに、指先は必要な色だけを迷わず抜き出している。


 遼はメモ帳を開き、赤鉛筆で何かを丸で囲んだ。

 「買うなら、量を見て。余ったら次に回す」

 「はいはい。電卓の神様、了解です」

 優歌は笑って、階段を下りていった。


 その背中が消えたころ、工房のチャイムが鳴った。遼の顔が一瞬だけ固くなる。茉子が振り向くより早く、ドアの向こうから、靴音が一つ、やけに綺麗に響いた。


 現れた男は、コートの襟まできっちり整えていた。雨上がりの道を歩いてきたはずなのに、裾に泥ひとつない。手には、金色に箔押しされた名刺入れ。差し出された名刺の角が、光を跳ね返した。


 「こちらの工房さん、でよろしいですか。……噂を聞きましてね」

 男は、窓辺の仮縫い用ボディと、吊るしたドレスの裾を見回した。視線だけが高い場所にいる。


 遼が一歩前に出る。

 「噂って」

 「勝ちたいでしょう。勝ちたいなら、針と糸だけじゃ足りない。審査の席には、席の空気がある。そこに風を通す方法が――」

 男はそう言って、名刺を指で弾いた。硬い紙が、軽く鳴る。


 「具体的には?」

 遼の声は低い。茉子は、遼の背中の端がほんの少しだけ張っているのを見た。


 男は笑って、ポケットからもう一枚の名刺を出した。

 「この方に相談すればいい。材料も、仕立ても、こちらで“整えて”差し上げます。勝つための形にね。あなた方は、最後に縫い合わせるだけで――」


 「整える、って」

 芽吹がアイロン台から顔を上げた。いつもより遅い瞬きで男を見る。男は“味方が増えた”と勘違いしたらしく、声を弾ませた。


 「簡単に言えば、評価の高い“型”を借りる。手元の服に合わせて、自然に見えるように調整する。タグも、それらしく――」

 「タグ?」

 芽吹が短く返す。

 「審査員はね、目が肥えている。しかし、目は“印象”にも弱い。名のある工房の匂いが少し混ざれば、判断が――」


 茉子の喉がきゅっと縮む。勝ちたい。工房を守りたい。けれど、いま男の言葉は、布の裏地みたいに冷たく肌に貼りついてくる。遼が何も言わないのが、逆に怖い。


 そのとき、男は遼の机にある領収書の束をちらりと見た。目線が一瞬だけ下に降りる。そこから、優しい声を作る。

 「資金の心配も、いらない。先にこちらで立て替えます。勝てば、回収は簡単です。あなた方の努力が報われる。……正しい形でね」

 “正しい”の言い方だけが、やけに滑らかだった。


 階段の下から足音が戻ってきた。優歌が袋を片手に上がってくる。紙袋には、近所の手芸店のロゴ。男は優歌を見ると、待っていましたと言わんばかりに笑顔を深くした。


 「あなたが優歌さんですね。腕がいいと聞いている。正直に言うと、今のままでは不利です。相手は大きい。けれど、勝てる道はあります。――ここだけの話」

 男の声が、砂糖みたいに滑らかになる。


 優歌は袋を置き、名刺を一度見た。次に、作業台の上の布を見た。最後に、茉子の手元に視線が止まった。針山に刺さった針が、朝の光に細く光っている。


 「……“整える”って、何をするんですか」

 優歌が聞き返す。

 「たとえば、既に評価の高い型紙を――」

 男が言いかけた瞬間、優歌が首を横に振った。はっきりした動きなのに、乱暴さがない。名刺の角が、優歌の指でそっと押し戻される。


 「自分の服で勝ちたいです」

 言葉は短かった。でも、工房の空気が一つ、静かに揃った気がした。


 男の笑みが止まる。

 「理想論ですよ。いま勝たなければ、次はないかもしれない」

 「次があるかどうかは、僕が決めます」

 優歌は袋から糸を一本取り出し、棚に戻した。名刺を見ない。針穴を見ている。


 「若さで言い切れるのは、今だけです」

 男が苦い声を出す。

 優歌は針山から一本抜き、指先で針の先を確かめた。

 「今だけでも、いいです。僕、昨日の夜、ここで見たんです。誰かが、“出せなかった”って。だから、出したいんです。自分の手を」

 遼の背中が、ほんの少しだけ沈む。茉子は、優歌が“誰か”と言ったのに、視線を遼へ向けなかったのを見た。


 茉子は、胸の奥が温かくなるのを感じた。昨夜、遼の悔しさを“刺さない”と決めた自分の手が、今度は、誰かの決めたことを支えたいと思っている。


 遼は黙って引き出しを開けた。中から、同じ箔押しの名刺が一枚、ちらりと見える。遼はそれを手に取り、指先で紙の端をなぞった。迷いが通り過ぎるまでの、ほんの一呼吸。次の瞬間、遼は名刺を戻し、引き出しを静かに閉めた。


 アイロン台の前で、芽吹が蒸気を止めたまま呟く。

 「言うだけじゃないね」

 視線は布から外さない。けれど、口角がほんの少しだけ上がっている。


 男は一拍遅れて、咳払いをした。

 「……では、また機会があれば」

 ドアへ向かう背中が、最初より少し小さく見えた。


 芽吹が手元の霧吹きを持ち上げた。男のコートの肩へ向けて、狙いをつける。

 「……芽吹さん?」

 茉子が小声で止めると、芽吹は霧吹きを元に戻した。

 「誤噴射しそうだっただけ」

 遼が咳払いで笑いを隠す。


 茉子が、思わず声をかける。

 「名刺、落としてます」

 床に落ちていたのは、男の名刺ではなく、優歌が持ってきた手芸店のポイントカードだった。優歌が拾い上げ、真顔で言う。

 「これ、落とすと僕のほうが痛いです」

 遼が小さく息を吐いて、口元だけで笑った。芽吹は蒸気を再開し、白い雲をふわりと上げる。


 男が去ると、工房の音が戻ってきた。ミシンが一定のリズムを刻み、糸が布を引っ張る。茉子は優歌に、青い糸を差し出した。

 「ありがとう。……さっきの」

 「糸? どういたしまして」

 優歌は、わざと話題を違えるように、針を一本抜いた。

 「この青、目立ちすぎます? でも、裏で光るの、好きなんですよね」


 遼がメモ帳をめくり、いつもの調子で言う。

 「好きはいい。けど、無駄はだめ」

 「無駄にしません。縫い目で返します」

 優歌はそう言って、指ぬきをはめた。金属が小さく鳴る。勝つための道が、どこにあるかではない。縫うべき場所が、いま目の前にある。


 茉子は布を押さえ、針が入る瞬間の感触を確かめた。呼吸が、さっきより深くなる。窓の外で、神楽坂の昼が始まっていく。工房の中では、今日も世界に一着を作る手が、同じ方向へ動き出していた。



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