第26話 遼、節約の理由
夜の工房は、昼のざわめきが嘘みたいに静かだった。作業台の上には、さっきまで転がっていた針山が、きちんと定位置に戻っている。糸切りばさみも、チャコも、定規も。博宣が置いていった湯気の名残だけが、電気ポットの口から細く消えていった。
玄関の引き戸に鍵をかけ、遼が小さく息を吐く。いつもの癖なのか、戸袋の隙間まで指でなぞって確認したあと、財布を出して、今日のレシートを机の端に並べ始めた。
茉子は、布端を揃える手を止めて見てしまう。たった数枚の紙が、遼の指先で、角と角を合わせられていく。まるで型紙みたいに。
「……それ、毎日やってるの?」
問いかけると、遼の指が一瞬だけ止まった。止まって、また動く。否定も肯定もせず、黙って並べ続ける。
茉子は、沈黙の形が崩れないように、声の温度を落とした。
「さっき、優歌ちゃんが『これ、買っておきますね』って言ったの、断ってたでしょ。糸、足りなかったのに」
遼はレシートを揃え終えると、輪ゴムで束ね、胸ポケットにしまった。代わりに出してきたのは、使い込まれた小さなメモ帳だった。表紙の角が丸くなっている。ページを開くと、日付と数字が並び、最後に小さな丸がひとつ付いている。
「糸は、明日の朝、問屋で買う。夜に買うと、同じものが高い」
「……それも、計算?」
「計算。あと、癖」
癖、と言いながら、遼は笑わない。笑わないまま、椅子に腰を下ろした。工房の蛍光灯が、彼の睫毛の影を落とす。茉子は、布を抱えたまま、喉の奥に引っかかった疑問を押し出した。
「どうして……そこまで?」
遼は視線を上げない。メモ帳を指で押さえ、鉛筆の尻でページの端をとんとん、と鳴らした。音は乾いているのに、聞いている茉子の胸の奥は、濡れた布みたいに重くなる。
「昔な」
遼が、やっと言った。
「家の金が、急に足りなくなった」
遼の声は低い。誰かに聞かれないように、というより、自分の中の扉を開けるのが怖いみたいだった。
「父親が倒れて、仕事が止まって。母親は、請求書を見ないふりしてた。俺はバイト増やして、家に入れて……それでも追いつかなかった」
鉛筆が、メモ帳の端をなぞる。指先が白くなる。
「その頃、好きな人がいた。服を作るのが上手くて、専門学校に行きたいって言ってた。俺、格好つけてさ。『俺が何とかする』って、言った」
遼は、言い終えたあと、指先で自分の親指の腹をこすった。そこに、昔の針だこの跡が残っているみたいな仕草だった。
高校の帰り、遼は駅前のパン屋で、値引きシールの貼られた食パンを買っていた。夕方になれば半額になる。家族の分と、自分の分と。袋の口を縛るリボンまで、ほどいて取っておく。紐は、意外と使えるから。
そのまま工場の夜勤の入り口へ走り、制服に着替えて、深夜のベルトコンベアの前に立った。機械の音は大きいのに、頭の中は、好きな人の「パリで服を見たいな」という声でいっぱいだった。
「小銭、瓶に貯めてたんだ。百円玉が十枚たまったら、ちょっとだけ嬉しくて」
遼が短く笑う。笑いはすぐ消える。
「でも、瓶って、すぐ軽くなる。家の封筒に入れると、一瞬でなくなる。俺の瓶は、夢の形にならなかった」
遼は立ち上がり、作業台の下の引き出しを開けた。縫い針の替えや、ボタンの箱が詰まった引き出しの奥から、小さな紙包みを取り出す。
広げると、金色の花の形をした、古いボタンがひとつ転がった。磨けば光るけれど、今は少しくすんでいる。
「これ、昔、買った。安いボタンを一個だけ」
遼は、指先で花びらを撫でた。
「『お守りにする』って言って渡したけど、結局、返ってきた。……俺が、受け取る資格ないのに」
茉子は息を飲んだ。金色の花は、この工房の鍵の形にも、刺繍にも、どこか似ている。似ているからこそ、遼の胸の奥に刺さったまま抜けない針みたいに見えた。
工房の壁に掛かったトルソーが、薄暗い影の中で黙っている。茉子は、針を持たない手を握りしめた。遼は続ける。淡々としているのに、言葉の端が、布を裂く刃みたいに鋭い。
「結局、何ともできなかった。学費って、数字じゃなくて、現金だから」
短く息を吸う音がした。
「俺が渡せたのは、『ごめん』だけだった。夢を縫い止める糸が、俺には足りなかった」
茉子は、思わず目を伏せた。遼の話の中に出てくる女の子の顔を、想像しようとして、やめる。想像してしまったら、勝手に嫉妬して、勝手に針を刺してしまいそうだった。
それは、遼が自分で縫い直そうとしている部分を、余計に広げることになる。
「それで……節約?」
茉子が聞くと、遼は肩を少しだけすくめた。
「節約っていうか……余裕がないのが怖い。誰かが『行きたい』って言ったときに、俺が『無理』って言う側になるのが」
遼は、そこで言葉を止めた。メモ帳を閉じる。閉じる音が、妙に大きく響く。
「だから、余った糸も捨てない。ボタンも取っておく。レシートも取る。俺の中では、全部、縫い代みたいなもんだ」
茉子は、遼の言い方に、少しだけ笑いそうになった。縫い代。服を作る人間が、最後に残しておく余白。
茉子は、作業台の端に置いてあった小さな紙袋を手に取った。さっき、優歌が置いていった、コンビニの袋だ。中には、紙コップのココアが二つと、安いクッキーが一袋。
「……じゃあ、これは?」
茉子が袋を揺らすと、遼が眉を動かした。
「優歌が買ったやつだろ」
「うん。『二人で飲んでください』って。断れなかった」
「……」
「断られたら、優歌ちゃん、また勝手にリボン作り始めるよ?」
茉子が言うと、遼の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。茉子は、その隙に紙コップを押し付ける。温かさが、遼の指に移った。
「今は、支えられています」
茉子は、まっすぐ言った。言ってから、急に恥ずかしくなって、視線を作業台の角に落とす。
「遼さんが、朝の順番を決めてくれるから。私、針を刺す場所を迷わないで済む。……今日だって、止めてくれた」
遼は返事をしない。代わりに、コップを持ったまま目をそらして、ふっと笑った。笑い方は軽いのに、そこに薄い寂しさが混ざっているのが分かる。
茉子は、その笑いに針を刺さない。問い詰めない。慰めの言葉で縫い潰さない。今夜の布は、柔らかいままにしておく。
茉子はクッキーの袋を開け、半分だけ遼の前に置いた。遼が受け取るまで、指を離さない。
遼は観念したように、ひとつ摘んで口に入れた。甘さに驚いたのか、ほんの少しだけ目が丸くなる。
「……高いやつじゃないだろうな」
「百三十八円」
「……許容範囲」
二人の間に、笑いが落ちた。大きな笑いじゃない。糸くずみたいに小さくて、でも確かにそこにある笑い。
茉子は、ココアを一口飲み、喉の奥が温かくなるのを感じた。外の神楽坂はきっと冷えているのに、工房の中だけ、布の匂いと湯気で春みたいだ。
遼が立ち上がり、作業台の上の型紙をそっと撫でた。
「明日は、ここからだ。縫い直す場所、もう分かってる」
茉子も頷き、布を広げる。針穴の列が、月明かりみたいに並んでいる。
「……遼さん」
「ん?」
「その縫い代、今日の分は、私も持ちます」
遼はまた目をそらして、さっきより少しだけちゃんと笑った。
茉子は、針に糸を通す。細い糸が、指先の湿り気をすべって、穴に吸い込まれていく。
今夜の静けさは、縫い目を揃えるための静けさだった。




