第25話 天国の裏側の地獄
「……針、どこ置いた?」
工房の床に落ちた銀色が、月明かりみたいにちらついた。神楽坂の路地裏、二階の窓。カーテンの隙間から入る街灯の光で、遼がしゃがみこんでいる。畳を守るために敷いた養生シートが、彼の膝の下でくしゃりと鳴った。
本番まで、あと七日。
数字は紙の上では軽いのに、胸の奥では鉄みたいに重い。
茉子は作業台の端で、糸の先を探していた。指先が乾いて、糸が皮膚に引っかからない。針穴に通すだけのことが、今夜は“やること”の中で一番むずかしく感じる。
目を瞬いたら、視界の端でミシンのライトが二つに割れた。自分のまぶたが、勝手に半分閉じようとする。
「そこ」
芽吹が、鉛筆の尻で床をつついた。声はいつもみたいに平たくて、けれど少しだけ擦れている。彼女も眠いのだ。
「ありがと……」
茉子が言いかけたところで、遼が針をつまみ上げた。
「ここ。踏むと痛いから」
踏んだ経験がある言い方だった。
博宣は、椅子の背に上着を掛けたまま、作業台の下で静かにうなだれていた。起きているのか寝ているのか分からない。片手だけ、糸切りばさみを握っている。
「ねえ」
芽吹が作業台に肘をつく。型紙の上に影が落ちた。
「今日、ここまでって言ったの、何時?」
遼が壁の“作業の区切り表”を見た。付箋がずらりと貼られ、赤いペンで“仮縫い②/夜”と書かれている。
「二十一時」
「いま、何時?」
遼が腕時計を見て、少し間を置いた。
「……二時二十七分」
芽吹が笑った。笑いというより、息が漏れたみたいな音だった。
「区切り、どこ行った」
茉子は喉の奥が痛くなって、何も言えなかった。
自分が「もう少しだけ」を重ねたせいだ。縫い目の幅が揃わないのを見つけるたびに、ほどいて、また縫って。遼は止めてくれたのに、茉子は首を振ってしまった。
勝ちたい。と言うのは簡単だ。
勝つために、目の前の一針を妥協しない。と言うのも簡単だ。
けれど、身体がついてこないときの自分の声は、案外みっともない。
「茉子」
遼が立ち上がり、作業台の向こうから指先だけで布を押さえた。パターンの線が少しだけずれている。
「ここ、縫い代……一ミリ出てる」
言い方は穏やかなのに、針先で刺されたみたいに胸が痛んだ。
「ごめんなさい。すぐ直します」
茉子は、ほどき始めた。糸を引く。ほどけない。引く。糸が絡まる。
そのうち、指先が震えて、糸端が見えなくなった。
「……やめる」
芽吹が椅子を引いた。脚が床を擦って、夜の静けさに刃物みたいな音が立つ。
「帰る。無理。明日、朝からやればいい」
言い切って、鞄に手を伸ばす。いつもなら「そうだね」と言えるはずの言葉が、茉子の喉に引っかかった。
明日、朝から。
朝からの“朝”が、来る前に自分は倒れるかもしれない。
その想像が怖くて、怖いのに、針を置くのも怖い。
「芽吹ちゃん、ごめん」
茉子は椅子から立った。足がふわりと浮くようで、床が一瞬遠くなる。
「私が……私が引っぱってる。帰っていい。ほんとに、ごめん」
芽吹は返事をしなかった。鞄のファスナーを閉める音だけがした。
遼が何か言いかけて、言葉を飲み込んだのが分かった。彼も、どれが正解か分からない顔をしている。
そのとき。
玄関の引き戸が、す、と開いた。
博宣が、消えたみたいに静かに立っていた。さっきまで床でうなだれていたはずなのに、いつの間に。
両腕には、コンビニの白い袋。さらに袋。さらに袋。袋が、山。
彼は何も言わずに、作業台の端へそれらを置き始めた。
「……なに、それ」
芽吹が呆れた声で言う。
袋の中身は、カップ麺だった。しょうゆ、味噌、塩、担々。見たことのない限定パッケージまである。まるで工房が、夜食の売り場になったみたいだ。
博宣は、最後の一個を置き終えると、ふう、と息を吐いた。
それだけ。
「……山ほど」
茉子が呟くと、博宣は目だけで頷いた。
遼が袋をのぞいて、眉を上げた。
「これ、全部……」
博宣は、胸ポケットからレシートを出して、遼の手に挟んだ。レシートの長さが、やたらと長い。
遼の指が一瞬ぴくりと動く。計算している顔だ。
「……割引、使ってる」
遼がぼそりと言うと、芽吹の口元がひくっと上がった。
笑っていいのか、泣いていいのか分からない。茉子の目の奥が熱くなるのに、同時に、変なところが可笑しくて、唇が震えた。
「食べて、寝よう」
遼が、工房の小さな電気ポットに水を入れ始めた。いつもは節約で、必要な分だけしか沸かさない男が、今夜は迷わず満杯まで入れる。
「本番まで、あと七日。ここから先は、気合いだけじゃ縫えない」
芽吹が鞄の持ち手を握ったまま、立ち尽くしている。
茉子は、彼女の前に歩いた。
「芽吹ちゃん。帰っていいって言ったけど……帰らないでって言いたい」
言葉が、まっすぐ出た。眠さで飾る余裕がないから、余計に本音になる。
芽吹は、目を細めた。
「……言うの、遅い」
そう言って、鞄を椅子の上に置いた。置く音が、さっきの刃物みたいな音じゃなくて、布みたいに柔らかい音だった。
お湯が沸く音がして、工房が少しだけ“家”に戻る。
博宣が、どれを誰に渡すでもなく、ただ蓋をぺりぺりと剥がしていく。手元が妙に丁寧だ。
遼は、ふたの裏に貼ってある注意書きを読んでから、湯を注いだ。注意書きまで読む男の誠実さが、今夜は可笑しい。
「明日から」
遼が言った。カップ麺の湯気の向こうで、目だけが真剣になる。
「交代で寝る。二人ずつ。夜は二時間、必ず横になる。茉子、拒否は却下」
「……はい」
即答すると、遼がわずかに息を吐いた。
「芽吹も」
遼は、彼女を見た。
「帰るなら、帰るって言っていい。でも、残るなら、寝る。倒れたら、その時点で負けだ」
芽吹は箸を持ったまま、数秒黙ったあと、頷いた。
「……倒れるの、やだ」
茉子は湯気で湿ったまつ毛を瞬かせた。
遼が決めたのは、作業の段取りだけじゃない。
誰かが一人で背負って、勝手に潰れていく流れを、ここで断ち切ったのだ。
カップ麺をすすった瞬間、塩気が身体にしみた。
涙と似た温度で、喉を通っていく。
博宣が、なぜこんなに種類を買ったのか分かった気がした。選べる余地があるだけで、人は少しだけ生き返る。
「……天国みたい」
茉子がぼそりと言うと、芽吹が鼻で笑った。
「天国の裏側、地獄ね」
「うん」
茉子は頷いた。頷けた自分が、少し嬉しかった。
遼がカップを置いて、手の甲で口元を拭いた。
「地獄でも、縫えば終わる」
言い方が淡々としているのに、なぜだか救われる。
夜はまだ深い。けれど、さっきまでの深さとは違う。
茉子は糸を切り、新しい糸を通した。針穴に、今度はすっと入った。
遼が“作業の区切り表”の付箋を一枚剥がし、明日の欄に貼り替える。
芽吹がライトの角度を変え、布の影が綺麗に出る位置を作る。
博宣は、空になったカップを重ねて、黙ってゴミ袋を広げた。
笑っていいのか泣いていいのか、分からないまま。
それでも全員が、変な顔で頷いていた。




