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ゴールデンフラワーの一着  作者: 乾為天女


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第24話 断ち切れない、ほどけない

 雨が上がったあとの神楽坂は、石畳がまだ湿っているのに、空だけが先に夏の匂いを連れてくる。二階の窓から入る風が、裁ち台の上の型紙をふわりと浮かせ、茉子は慌てて文鎮を置き直した。紙がめくれる音が、胸の奥のざわつきを叩く。


 昨日、共犯者みたいに抱えて帰ってきた布が、いま目の前にある。包みをほどくとき、指先が勝手に遠慮して、布の角に触れるだけで息が浅くなる。金色の看板の光じゃない、布そのものが持っている光。高いものは、値札がなくても分かってしまう。


 包みの中の紙には、朝の市場の匂いがまだ残っている気がした。小さな屋根の下、段ボールの山をかき分けて、遼が値段を確かめる前に指で布の耳を探ったこと。茉子が「これ、花びらになる」と言ったら、遼が眉を動かして「余る?」と真顔で聞いたこと。余るかどうか、先に聞く男の声を思い出すと、笑いが喉で止まった。余らせたくない。余らせたら、縫う前に負けたみたいで。


 布を広げる前に、茉子は手を洗った。石けんの泡を指の間まで入れ、爪の先をこすり、最後に冷たい水で流す。清潔にしたいのに、手の中の震えは洗い流せない。タオルで拭いても、指先の感覚が落ち着かない。


 芽吹はマスキングテープで裁ち台の端に線を引き、「ここから先は落としたら即死」と書いた。即死という字だけが妙に達筆で、茉子は思わず鼻で笑いそうになった。

 「即死って何」

 遼が言うと、芽吹は肩をすくめる。

 「布が。心が。財布が」

 遼は「財布は死なせない」とだけ返し、文鎮を一つ増やした。増やした文鎮は、博宣が黙って持ってきたものだった。裁ち台の隅に置かれた鉄の塊は、見た目よりずっと重い。重さがあるものは、軽い言葉より頼りになる。


 「布目、ちゃんと通ってる?」

 芽吹が言いながら、アイロンのスイッチを入れた。いつもなら「切っちゃえ切っちゃえ」と煽りそうなのに、今日は煽らない。煽らない芽吹のほうが、逆に怖い。


 「……通ってます。たぶん」

 茉子が言うと、芽吹は「たぶん禁止」と返した。口は軽いのに、手は文鎮をきっちり三角に並べている。布がずれないように、逃げ道を塞ぐ並べ方だった。


 遼は帳簿を開くでもなく、いつもの鉛筆を持つでもなく、裁ちばさみを磨いていた。刃の根元から先まで、布で拭く。拭いて、光を確かめる。節約男が、刃物の光だけは惜しまないときがある。茉子はそれを見るだけで、背筋が伸びた。


 「茉子」

 遼が、はさみを置いた。置いた音が、作業場の空気を一段静かにする。

 「型紙、もう一回、合わせる」

 「はい」

 茉子は返事をして、返事の終わりが震えたのを自分だけが聞いた。


 裁ち台の上に布を広げる。裏側に印したチョークの線が、細い川みたいに走っている。茉子が指先でその線をなぞると、線の先で未来が切られてしまう気がした。切ったら戻らない。ほどいて縫い直すことはできても、切った布は増えない。


 遼が定規で線を確認し、優歌が無言で目線を落とした。

 「……ここの角、二ミリ」

 優歌が言う。声の温度は変わらないのに、その二ミリが命綱みたいに聞こえる。

 「直します」

 茉子が言い、チョークを持ち直す。手が、小さく震えた。


 震えに気づいたのは、茉子自身が一番遅かった。握っているはずのチョークが、指先から逃げようとしている。目の前の布が、急に遠くなる。

 昨日の朝、空白の帳簿の白さが脳裏をよぎった。優歌の「知らないほうが楽ですよ」という声が、布の下から聞こえた気がした。知りたいのに、聞けない。ほどけない結び目を、胸の奥に抱えたまま。


 「……切れない」

 茉子の声は、自分の耳にも細く聞こえた。


 芽吹が霧吹きを持った手を止めた。博宣がカメラを触っていた指を止めた。縫い糸の音が、ない。作業場の空気が、布と同じように張り詰める。


 遼は何も言わず、茉子の右手の横へ立った。彼の影が、チョークの線を覆う。影の中で、線だけが白く光る。

 「ここまで来た」

 遼が言った。いつもみたいに軽口がない。

 「切ろう」


 遼の手が、茉子の手に重なった。掌が、温かい。熱すぎないのに、冷えた指先が少しずつ動くのが分かる。遼は押しつけない。添えるだけで、逃げ道は塞がない。なのに、茉子の手は逃げなかった。


 「……私が、切ります」

 茉子が言うと、遼は「うん」とだけ返した。返事が短いほど、信用できるときがある。


 裁ちばさみの重みが、手首にのしかかる。刃先を布に当てる。布が、息を止める。茉子も息を止めた。

 刃が閉じる。

 音は、思ったより小さかった。布が泣く音じゃない。乾いた、決意の音だった。


 茉子は一気に進めた。途中で止めたら、震えが戻る。震えが戻ったら、線が曲がる。曲がった線は、全部を巻き込む。だから、止まらない。刃を閉じて、開いて、閉じて、開いて。手首の動きだけで、世界が切れていく。


 最後の一回、刃を閉じた瞬間、視界がにじんだ。

 涙が一滴、ぽとりと落ちた。布ではなく、裁ち台の木に落ちる。木の上で丸く広がり、すぐに消えた。消えたのに、茉子の喉は詰まった。


 「……すみません」

 言ったら、もっとこぼれそうだった。


 遼は何も言わなかった。代わりに、ポケットからハンカチを出した。白地に、小さな青い線が一本。どこかの安いセットに入っていそうな、素朴なやつ。角だけが少し擦れている。

 遼はそれを、茉子の手元へそっと置いた。置く動きが、布に触れるときと同じくらい丁寧だった。


 ハンカチの角に、金色の糸で小さな花が縫い込まれているのが見えた。豪華じゃない。針目が細いだけ。たぶん、作業場の端に残っていた糸の切れ端で、気づかれない場所に一針ずつ足したのだ。茉子はそれを見て、言葉がまた喉の奥でほどけかけた。


 茉子はハンカチを掴んで、目元に当てた。布の繊維が、涙を吸う。吸われるたびに、胸の奥の結び目が少しだけ緩む気がした。

 「……切れました」

 茉子が言うと、遼は「切れた」と返した。確認みたいに。


 芽吹が、ようやく息を吐いた。

 「今の、全員、息止めてたでしょ」

 声が少し裏返っていて、茉子は笑いそうになった。笑いそうになって、また涙が出そうになる。


 優歌が裁断した布端を持ち上げ、光に透かす。

 「きれいです。線も、刃も」

 短い評価だった。褒め言葉なのに、照れた様子はない。茉子の胸だけが、じわじわ熱くなる。


 博宣が黙って、裁断した布を大きな不織布に包み直した。包み終えると、作業台の端に湯飲みを四つ置く。中身は、いつもの安い麦茶。氷が少しだけ入っている。

 「……飲む?」

 博宣が小さく言う。いつもより声が低い。


 茉子はハンカチを膝の上で畳み、頷いた。

 「飲みます」

 答えたら、喉がほどけた。麦茶が冷たくて、涙の味が薄くなる。


 遼が裁ちばさみを閉じ、刃先に布をかぶせた。

 「次」

 それだけ言って、型紙の次のパーツを指で叩く。作業は、待ってくれない。けれど、今の一回の「次」は、茉子にとって「一緒に行く」の合図みたいだった。


 茉子はハンカチを握り直し、裁ち台の前に戻った。胸の結び目は、まだ残っている。ほどけない部分は、まだある。

 それでも、切った。切って、進めた。

 断ち切れないものがあるから、針を持てるのだと、茉子は思った。



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