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ゴールデンフラワーの一着  作者: 乾為天女


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第23話 共犯者、再び

 宅配便の追跡画面が、同じ場所で止まったままだった。

 神楽坂の坂の途中、ゴールデンフラワーの二階の作業台に、茉子はスマホを伏せて置いた。画面の白が、まるで謝罪の札みたいに見える。


 「今日の午前中には届くって……言ってたのに」

 言い終える前に、針が指先をかすめた。痛みより先に、背中がひやりとする。ここまで縫ってきたのに、最後の一枚がない。仕上げの“花びら”になる布がない。


 茉子は伝票の電話番号へ掛け、耳を当てた。

 『ただいま大変混み合っております』

 機械の声は丁寧なのに、同じ文だけを繰り返す。茉子は「はい、はい」と返事をしてしまい、虚しくて口を押さえた。

 遼が横から覗き込み、短く言う。

 「そこ、待っても動かない」


 遼は壁際の棚から領収書の束を抜き、手元でぱらぱらとめくっていた。無駄のない動きのまま、顔だけ茉子に向ける。

 「止まった場所、どこ」

 「東日本橋……って、出てる」

 「じゃあ、取りに行く」

 「え。配送センターに?」

 「配送センターじゃない。問屋街」


 遼は財布を閉じ、シャツの袖をひと折りした。いつもより早い。茉子は作業台の上の布見本を握りしめる。淡い金の光沢が、窓からの光に揺れて、ため息みたいに広がった。


 「今から?」

 「今から。……早い方が、いい」

 遼が短く言うと、作業場の空気が少しだけ軽くなる。茉子は笑うか迷い、結局、口角だけを上げた。

 「また共犯者ですか」

 遼の眉が、ほんの少しだけ動く。

 「また共犯者だ」


 時計は午前四時半を回っていた。

 神楽坂駅の改札前には、夜の名残りがまだ貼り付いている。自動販売機の明かりだけが妙に元気で、コーヒーの缶の金色が目に刺さる。遼は二本買って、一本を無言で差し出した。


 「砂糖、入ってる」

 「飲めるだろ」

 「飲めますけど……遼さん、いつもブラックなのに」

 「今日は特別」

 遼は自分の缶を軽く振ってから、開けた。ぷしゅ、と小さな音。茉子も真似して開ける。甘い匂いが、冷えた朝の空気にやわらかく混ざった。


 改札にタッチした瞬間、茉子のICカードが「残高不足」で止まった。

 「え、うそ……」

 背後の人に「どうぞ」と譲り、茉子は赤い表示を見つめる。遼はため息をつくでもなく、券売機へ向かい、硬貨を三枚だけ入れた。

 「千円、入れとけ」

 「でも、こんな時間に……」

 「今は、針を止める方が高い」

 茉子は、言い返す言葉を探して負けた。財布から小銭を出し、「後で返します」と言うと、遼は「端数はいい」とだけ返した。端数がいちばん厳しい人なのに。


 東西線から浅草線へ、乗り換えの通路を小走りに進む。靴音が、まだ眠っている駅に響いて、二人の影が壁に伸びる。

 「遼さん、走るの上手い」

 「節約だ。遅れたら、その分探す店が増える」

 「走るのも節約に入るんだ……」

 茉子が息を整えながら言うと、遼は笑い声を出さずに、肩だけを揺らした。


 東日本橋で地上に出ると、空が薄く色づき始めていた。

 問屋のシャッターはまだ半分閉じたままの店も多い。それでも、角を曲がるたびに、布の匂いがする。新しい布の、乾いた紙みたいな匂い。古い布の、誰かの家の押し入れみたいな匂い。


 「どこから当たる?」

 茉子が聞くと、遼はスマホの地図を一瞬見て、すぐ顔を上げる。

 「前に行った店。あそこは、端物が回るのが早い」

 「第八話の、あの……」

 「言うな」

 遼の声がいつもより低くて、茉子はふっと笑った。言ったら捕まる、みたいな顔をしたのだ。


 角を一つ間違えて、二人はボタン専門の建物に入ってしまった。

 階段の踊り場に、色とりどりのボタンが山になっている。茉子が「わあ」と声を漏らすと、店の人が「布は隣!」と指をさした。

 遼は小さく頭を下げて、茉子の腕を軽く引いた。

 「今は眺めるな」

 「でも、これ、星みたい……」

 「星は、後」

 遼の言い方が妙に真面目で、茉子はつい笑ってしまう。


 目的の店の前には、すでに数人の買い付けが並んでいた。職人らしい手。爪の間に染みた色。肩から大きな袋。茉子は自分の手を見て、指先の糸くずを払った。

 遼が一歩前に出て、店主と短く会話を交わす。声が小さくて聞き取れない。茉子は布見本を胸に抱えたまま、店の中の奥行きを目で追った。


 シャッターが開くと同時に、布が波のように見えた。

 棚、箱、台車。金具の音。紙札の擦れる音。布と布が触れる音。茉子は一瞬だけ立ち尽くし、遼の背中を見て、やっと足を動かした。


 「この色……」

 目に飛び込んできたのは、淡い金に近いベージュのオーガンジーだった。光に当たると、砂浜の粒がきらっとするみたいに、細かく輝く。茉子は指でそっと撫でる。薄いのに、芯がある。


 「似てる」

 遼が言う。

 「でも、花びらの落ち方が……」

 茉子が眉を寄せると、遼は布の端を少し持ち上げ、空気に揺らした。

 「落ち方、見ろ」

 布が、ふわっと沈む。重さがあるのに、重く見えない。茉子の胸の奥が、少しだけほどけた。


 店主が「それ、残り一本だよ」と言った。

 茉子は反射で「ください」と言いかけ、遼の手が視界に入って止まる。遼は値札を指で押さえ、店主の目を見た。

 「まとめて買う。こっちの芯地も。値、落ちる?」

 「朝っぱらから強気だねえ」

 「朝だから。……針が止まる」

 遼がそう言うと、店主は一拍置いて、笑った。

 「じゃあ、千、まける」

 遼は迷いなく財布を開け、紙幣を出す。茉子は思わず、遼の手元を見つめた。節約が、誰かの夢のために使われる瞬間は、眩しい。


 包みが手渡されると、茉子は両腕で抱えた。布の重みが、現実の重みだった。

 「……捕まりませんでした」

 茉子が小さく言うと、遼は包みの端を持って支えた。

 「まだ。帰るまで」

 「じゃあ、今度こそ、ちゃんと逃げます」

 「逃げるのか」

 「捕まりたくないので」

 茉子が真面目な顔で言うと、遼は肩をすくめた。笑ったのが分かったのは、呼吸が少しだけ軽くなったからだ。


 遼がスマホを取り出し、作業場のグループチャットに写真を送った。

 『確保』

 写真の中には、金の光を含む布の包み。

 すぐに芽吹から返信が来た。

 『朝から何してんの……(ねむ)』

 その次に、優歌。

 『助かります。戻ったら縫い目、確認させてください』

 茉子は「助かった」と言葉を打ちたくなったが、指が冷えて、画面を触るのが怖かった。遼が代わりに「戻る」とだけ返し、ポケットへしまう。


 帰り道、朝の風が背中を押した。

 問屋街の角のパン屋から、焼きたての匂いが流れてくる。茉子の腹が、きゅ、と鳴った。茉子は咳払いでごまかし、遼は何も言わずに足を止めた。


 「買う」

 遼が一言だけ言って、店に入る。茉子が追いかけようとすると、布の包みが腕の中でずれた。遼が戻ってきて、包みを持ち上げ、紐を締め直す。

 「ここ、緩い」

 遼の指が紐を結び、茉子の指がほどけないように押さえる。二人の指先が触れ、茉子は反射で息を止めた。遼は見ていないふりをして、結び目を作った。


 紙袋の中の小さなパンを渡される。

 「……朝ごはん代、後で」

 茉子が言うと、遼は首を横に振る。

 「今は、布を守れ」

 「はい」

 茉子はパンを一口かじった。温かい。甘い。喉の奥の緊張が、ゆっくり溶ける。


 浅草線のホームへ向かう階段で、茉子はふと、遼の横顔を見た。

 頬のあたりに、朝の光が当たっている。眠そうでもない。疲れているはずなのに、目だけが冴えている。


 「遼さん」

 「ん」

 「……今日は、助かりました」

 「助かったのは、こっちもだ」

 遼は言いながら、茉子の歩く速さに合わせた。


 電車が揺れるたび、布の包みがかすかに膝に触れた。茉子はその感触を確かめるように、腕に力を入れる。遼は向かいの窓に映る二人の影を見て、視線を戻した。


 神楽坂の地上に出る頃、坂の石畳は朝露で光っていた。

 茉子が一歩踏み出す。遼が一歩踏み出す。靴音が、同じ間隔で鳴る。

 合ってしまったのだ、と茉子は思う。合わせたわけじゃないのに、合ってしまった。


 「……足、揃ってます」

 茉子が照れ隠しに言うと、遼は前を見たまま、息を吐いた。

 「だから、共犯者だ」

 茉子は布の包みを抱え直し、「じゃあ、戻って縫いましょう」と言った。


 遼は一瞬だけ、立ち止まりそうになった。

 そして、何も言わずに歩幅を合わせた。



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