第22話 優歌の目的がほどける
梅雨の晴れ間は、どこか信用できない。空が明るいのに、神楽坂の石畳はまだ湿っていて、靴底がわずかに吸いつく。ゴールデンフラワーの二階の窓を開けると、近所の花屋から切り花の匂いが流れてきた。甘いのに、鼻の奥が少しだけ痛くなる匂いだ。
作業台の上では、白い身頃が広がっている。博宣の妻のドレス修復で学んだ線を、茉子は何度もなぞり直してきた。縫い目が一ミリでも跳ねると、布が怒る。怒った布は、こちらの指先の迷いを容赦なく映す。
「ここ、息、止めてる」
芽吹がアイロン台の横から言った。言いながら、霧吹きを一回だけ、裏地の端に落とす。湿り気の具合を確かめる動きが手慣れていて、口の軽さと手の確かさが妙に噛み合う。
「止めてない……つもり」
茉子が答えると、芽吹は「つもりね」と返して、布端を指で撫でた。
遼は机の前で、提出書類の束を整えている。紙の角を揃える音が、糸を引く音と同じリズムで続く。黒い帳簿は閉じられたままだ。昨日の白いページのことを思い出すと、茉子の喉は勝手に乾いた。
鈴が鳴った。短く一回。遼が顔を上げ、茉子も針を止めそうになって、慌てて止めなかったふりをした。
階段を上がる足音が、いつもより速い。扉が開いて、湿った風と一緒に優歌が入ってきた。
優歌は傘を畳み、傘袋に入れ、靴を揃える。床に水滴が一滴も落ちないように手首を返し、それから、濡れた袖を外側へ折って水を切った。全部、同じ順番だ。
「遼先輩」
その呼び方が、針先に小さな衝撃を与えた。茉子は糸を引きながら、耳だけを近づける。
遼の眉が一瞬だけ動いた。けれど、すぐいつもの顔に戻る。
「……久しぶりに呼ぶな、それ」
「必要なので」
優歌は淡々と言って、封筒を机の上へ置いた。白地に金の箔押し。細い花の印。メゾン・ルリエの名前が、目立たないのに目を引いた。
芽吹が「うわ、見せびらかし封筒」と小声で言い、茉子の肩が少しだけ揺れた。揺れた肩を誤魔化すように、茉子は縫い針を布へ入れる。針がすっと通ったのに、胸がざらつく。
遼は封筒の端を指で押さえ、爪を立てずに開けた。中から出てきたのは一枚の紙と、薄いメモだった。紙には、日時と場所。南青山。ビル名。会議室番号まで書いてある。
「呼び出し?」
遼が短く言う。
「相談です。……あなたが、戻る話」
優歌の言い方はいつも通りなのに、「戻る」という単語だけが、布の上で浮いて聞こえた。
茉子は針を落としそうになった。落とさないために、指に力を入れた。力を入れすぎて、糸が少しだけ締まり、縫い目が硬くなる。茉子は息を吐き、縫い直すために、縫ったばかりの糸をほどいた。ほどく音が、心の中の何かを剥がす音に似ていた。
「戻らない」
遼の返事は短い。帳簿の数字みたいに、余白がない。
「理由は、ありますよね」
「理由があるから戻らない」
「それ、同じです」
優歌が言い返す。言い返すのに、声は上げない。机の上の紙を指で二回叩く。叩く位置が正確すぎて、逆に怖い。
茉子の視線が、遼の手元へ吸い寄せられた。封筒の金の縁取り。メモの筆圧。そこに、昨日の白いページが重なる。空白の年。あの白さは、南青山へつながっているのか。
「審査会の前に、話を片づけたいってこと?」
遼が聞く。聞き方は軽いのに、指は封筒の角を押さえたままだ。
優歌は頷いた。
「審査会の当日、あなたが会場にいるだけで、向こうはざわつく。そうなったら、こっちも困る」
「こっち?」
遼の目が細くなる。
「メゾン・ルリエです」
優歌は言い切った。言い切ると同時に、茉子の胸の奥がまたざわついた。優歌が、ただのライバルじゃない。遼と同じ場所にいた。そう言われた気がして、針先が落ち着かない。
優歌は机の上の黒い帳簿へ、指先を向けた。開いてもいないのに、場所を知っているみたいな動きだった。
「その帳簿、白い年がありますよね」
遼の肩が、ほんの少しだけ上がる。上がったのに、口元は動かない。
「……見たのか」
「見ました。僕は数字が好きじゃないけど、白いのは目立つ」
優歌は言って、封筒の縁を撫でた。金の箔が、指の腹でわずかに鳴る。
「白くしたままにするなら、それでいい。でも、審査会の前に、向こうはあなたの顔を探す。探されたら、ここまで飛んでくる」
「飛んでくるって……誰が」
遼が聞き返すと、優歌は一拍置いて答えた。
「あなたが逃げたと思ってる人たちです」
逃げた、という言葉が、工房の中でひとつだけ角を持った。茉子の指先が、布の上で止まりかける。止めたくないのに、止まりそうになる。
遼は鉛筆を置いた。置くとき、音を立てないように机へ滑らせる。丁寧すぎる動きは、何かを押し込めるときの癖に見えた。
「俺は逃げてない」
「逃げてないなら、会えばいい」
優歌は淡々と返す。淡々としているのに、背筋がまっすぐで、引かないのが分かる。
「ここでやる仕事がある」
遼が言うと、優歌は作業台の白い身頃へ目を向けた。縫い目を見て、すぐ視線を戻す。
「それ、間に合いますか」
「間に合わせる」
「あなたがいなくなったら、間に合わない」
優歌が言った瞬間、茉子の胸がきゅっと縮んだ。遼がいなくなる、という想像が、糸くずみたいに指先へ絡みつく。
遼は封筒の紙を二つ折りにしないまま、指で押さえた。
「俺は、ここにいる」
「なら、ここにいる理由を、向こうへ言ってください」
優歌は言った。命令じゃない。お願いとも違う。縫い針を置けない人への、針と同じ重さの言葉だった。
茉子は口を開きかけた。「いつから知り合いなんですか」と言いたかった。言いかけて、やめた。やめたのは、勇気がないからじゃない。ここで言葉を挟むと、縫い目が乱れるのが分かってしまったからだ。布は、茉子の逃げ道を許さない。
芽吹が、茉子の肩を軽く叩いた。
「とりあえず手を動かそ」
その一言が、針を持つ指に戻る合図みたいだった。茉子は小さく頷き、目を落として縫い進める。縫い目を揃えるほど、耳が敏感になるのが困る。
遼は封筒を机の端へずらし、紙を裏返して見た。裏には、名前が一つだけ書いてあった。人名。茉子は読めない距離なのに、遼の喉がわずかに鳴るのが見えた。
「……その人、いま何をしてる」
「待ってます。あなたを」
優歌の答えは短い。短いのに、工房の空気が一段冷えた。
遼は笑わなかった。笑わない代わりに、針山を指で押した。針が少し揺れて、光が揺れる。
「俺は、いまここで縫ってる。茉子も、芽吹も。博宣の約束もある」
「約束は、守れます。あなたがここに戻るなら」
優歌が言った「戻る」が二回目で、茉子の胸に引っかかった。戻る先は、ゴールデンフラワーじゃない。別の場所だ。優歌の視線は、遼だけを見ている。茉子の存在は、机の端の糸くずと同じくらい、そこにあるだけだった。
それが悔しいのか、怖いのか、茉子は自分で分からない。分からないまま、縫い目を揃える。針先は迷いなく布を貫いて、糸がきれいに寝た。布は、茉子の感情を知らないふりをしてくれる。
優歌が封筒を持ち上げた。
「来週の火曜、十八時。南青山。来ないなら、僕がここへ来ます」
「来るな」
「来ます」
優歌は言い切って、靴を履き、傘を持った。去り際に、茉子へ視線を向けた。ほんの一瞬。針先くらいの時間。
「縫い目、いいですね」
それだけ言って、扉を閉めた。
階段を下りる音が消えると、工房には針の音と、アイロンの微かな熱の匂いだけが残った。遼は封筒を見ないようにして、提出物のチェック表に線を引く。線がまっすぐすぎて、茉子は逆に痛くなる。
茉子は縫い目から目を離さずに、遼へ言おうとして言えなかった言葉を、糸に結び直した。
――あなたは、どこへ戻るの。
言えないなら、縫って言う。遼が前に言ったことを思い出す。茉子は頷き、手を止めなかった。止めなかったのに、胸の奥のざわつきは、ほどけるどころか、別の結び目を作り始めていた。




