第21話 帳簿の空白
六月の雨は、神楽坂の石畳をいつもより暗く見せる。昼の光が薄いせいか、路地の奥にあるゴールデンフラワーの金色の看板まで、湿った空気をまとって鈍く光っていた。茉子は玄関で傘を畳み、靴を揃えると、袖口を二回だけ払ってから階段を上がった。
作業台の上には、縫いかけの身頃と、遼が広げたレシートの束。紙の角がぴたりと揃っている。遼はそれを一枚ずつ指で送り、鉛筆で数字を拾い上げていく。数字が布より先に並ぶ音がする。
「今日は、茉子も書いてみる?」
遼が帳簿を茉子のほうへ寄せた。表紙は黒く、角が丸い。開くと、細い罫線の上に、几帳面な字が積もっている。茉子は喉を鳴らし、ペンを握り直した。
「はい。……間違えたら、直します」
「数字は、直し方が大事。布と一緒」
遼が笑う。笑い方は軽いのに、目は紙の上から離れない。茉子はメモ帳を開き、遼の言い回しまで書き留めてから、帳簿の空欄に小さく数字を入れた。
仕入れ。糸。ボタン。アイロン台の替えカバー。細かい項目が、縫い目みたいに続いている。茉子は途中で息を整え、遼の指先の動きを盗むように見た。速いのに乱れない。針仕事と同じだ、と頭のどこかで思う。
ページをめくったとき、指が止まった。
そこだけ、白い。
月ごとの欄が並んでいるのに、数字も、丸も、遼の癖のある小さなチェックもない。前の年はびっしり埋まっている。次の年も埋まっている。その間に挟まった一年が、まるごと抜け落ちたみたいに空いていた。
「遼さん……これ、ここ」
茉子が声を落として言うと、遼の鉛筆が、ぴたりと止まった。止まったのに、遼の顔は笑ったままだった。笑いが紙の上で固まる。
「そこは、いい。飛ばして」
「でも、年が……」
「空白。うん。空白だね」
遼はあっさり認めた。なのに、説明はしない。茉子の手元へ視線を落とし、別のページを指で叩く。
「ほら、こっち。ここの端布、今週で使い切る予定だろ? 数字が合わないと、天国と地獄が入れ替わる」
天国と地獄。遼が言うと、帳簿の黒い線が急に熱を持つ気がした。布の天国は、客の笑顔。地獄は、針が折れる音と、予算の赤字。どっちも見たくないのに、どっちも見ないと縫えない。
茉子は「はい」と返事をした。返事はしたのに、指先が空白のページに吸い寄せられる。白い紙が、穴みたいだった。覗いたら落ちそうなのに、目が離せない。
そこへ、階下の鈴が鳴った。
雨粒が看板に当たる音に混ざって、短いベルが一回だけ響く。遼が帳簿を閉じるのが早い。茉子が瞬きをした間に、空白は見えなくなっていた。
「俺、出る」
遼が階段を下りる。茉子は作業台に残されたレシートを見つめ、ペンを置いた。ペンの先が、まだ紙の白さを覚えている。
数分後、遼と一緒に上がってきた足音が、ひとつ増えた。革靴の音が濡れた木に硬く響く。扉が開いて、優歌が顔を出す。
「お邪魔します。……雨、こっちも容赦ないですね」
優歌は傘の水滴を二回だけ落とし、靴を揃える動きが無駄なくきれいだった。視線はすぐ作業台へ、帳簿へ――そして、遼の顔へ戻る。
「袖山、どうですか」
優歌が聞く。遼が「まあまあ」と答える。二人のやりとりは、縫い代みたいに薄くて強い。茉子はその間に挟まって、頷くしかなかった。
優歌が作業台の横へ寄り、レシートの束をちらりと見た。
「……帳簿、珍しいですね」
茉子の胸がひゅっと縮んだ。さっきの空白が、優歌の目に映った気がして。
「茉子に教えてただけ」
遼は明るく言った。明るいのに、声の芯が少し固い。
茉子は思わず口を挟みそうになって、唇を噛んだ。言葉は針と同じだ。刺した場所を間違えると、ほどくのが難しい。
優歌は、茉子の顔を一度だけ見た。目が合う。そこに、余計な同情も、からかいもない。まっすぐで、だから怖い。
「……知らないほうが楽ですよ」
優歌は、淡々と言った。天気の話みたいに軽く。けれど茉子の胸の奥に、冷たい雨が落ちた。
遼が笑う。
「優歌、それは言い方が悪い」
「事実です」
「事実って言い方も悪い」
遼は、わざとらしくため息をつき、紙袋を差し出した。中身は、いつもの安い菓子パン。優歌が一瞬だけ眉を動かす。
「買ってきたんですか」
「値引きシール付き。……食べる?」
「食べます」
即答だった。芽吹がいたら「変な人」と笑うだろう。茉子は、そのやりとりで少しだけ息が戻った。戻ったのに、空白のページは頭の中で開いたままだ。
「優歌さん、今日は……」
茉子が言いかけると、優歌は袖山の布を手に取り、指先で縫い目をなぞった。
「確認に来ただけです。あなたの針目、安定しました。遼の『良い意味で』が効いてる」
遼が咳払いをした。
「俺の言葉、勝手に使うな」
「便利なので」
優歌が真顔で返す。茉子は笑いそうになって、また唇を噛んだ。笑うと、心が緩む。緩んだら、空白に落ちそうで怖い。
遼が話題を切り替えるみたいに、作業台の上へ型紙を広げた。
「よし。今日は胸元の当たりをもう一回見る。茉子、仮縫いのピン、ここ。芽吹が来る前に終わらせよう」
「はい」
茉子は、返事の音で自分を縫い止めた。
針を持つ。布に刺す。引く。糸が通る。繰り返す。いつもなら、縫い目が整うほど心も整うのに、今日は逆だった。縫い目がまっすぐになるほど、胸の中のざわつきが目立つ。遼が笑っても、優歌が淡々としても、空白のページだけが白く光る。
「……茉子、指」
遼の声が近い。茉子が手元を見ると、針先が指の腹をかすっていた。赤い点が一つ、布の上に落ちそうになっている。茉子は慌てて布を引っ込めた。
「す、すみません」
「謝るのは布に」
遼が引き出しから絆創膏を出し、茉子の手を取った。掌が温かい。茉子はその温かさに、さっきまでの冷たさが少し溶けるのを感じた。
優歌がぽつりと言う。
「赤は、目立ちます。白い布ほど」
言い方は冷たいのに、目は茉子の指先をちゃんと見ている。遼が絆創膏を貼り終えると、茉子は小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
遼は「うん」とだけ返し、布を元の位置に戻した。
「共犯者なんだから。血は二人分、高い」
茉子は思わず笑った。笑いは小さい。でも確かに出た。遼の冗談は、いつも数字みたいに短いのに、ちゃんと効く。
雨音が少し弱まった。窓の外で、石畳を走るタイヤの音が遠ざかる。茉子は縫い目に目を戻し、絆創膏の付いた指で、糸を引いた。
空白はまだ埋まらない。遼の口も、優歌の目も、そこを語らない。
それでも茉子は、針を進める。知らないままでも縫える日もある。けれど、知らないほうが楽だと言われた瞬間から、茉子はもう、その白さを忘れられなくなっていた。
胸の奥がざわつく。ざわつくのに、縫い目は揃う。茉子は、その矛盾ごと、布に押し込むように針を入れた。
そのとき、階段の下でまた鈴が鳴った。今度は短く二回。遼が顔を上げるより早く、芽吹が濡れた前髪を指で払って上がってくる。
「うわ、湿気。ここ、布が怒るやつじゃん」
言いながらも、芽吹は靴を揃え、傘を壁に立てかけ、濡れた袖を外側へ折って水滴を落とす。作業が手順になっていて、そこだけ妙に几帳面だ。
「茉子、指どうしたの」
芽吹が絆創膏に気づく。茉子が「あ、これは……」と口ごもると、遼が先に言った。
「数字に刺された」
芽吹が吹き出す。
「帳簿って針より痛いの? やだー」
優歌が菓子パンの袋を畳みながら、淡々と返した。
「痛いなら、止めればいい。けど、止めたら終わる」
芽吹が「それ、今言う?」と笑い、遼が「ほら、優歌は結果主義だから」と肩をすくめる。三人の空気が一瞬だけ軽くなって、茉子はその軽さに救われた気がした。
優歌は帰り際、作業台の端を指で一度叩いた。
「締切、見えました。あとで遼に確認します」
「確認って、俺に言うなよ」
「あなたが帳簿を握ってるからです」
優歌はそれだけ言って、扉を閉めた。階段を下りる靴音が、雨音の中へ溶けていく。
残ったのは、針の音と、紙の匂いと、埋まらない空白の気配だった。茉子は縫い目に視線を戻す。布は待ってくれない。客の体は待ってくれない。
だから針を進める。けれど、知らないほうが楽だと言われた瞬間から、茉子はもう、その白さを忘れられなくなっていた。




