第20話 良い意味で、最短の遠回り
遼が「今日は、ここまで」と言ったあとも、茉子の指は布を離さなかった。ほどいた糸くずが、作業台の端に小さく溜まっている。たった一晩で伸びた裏地。たった一枚の写真で見つかった影。たった一回の失敗が、胸の中で何回も鳴る。
「もう少しだけ……縫い直して、朝に確認して……」
茉子が言いかけたとき、遼が湯気の立つカップをそっと置いた。木の台に当たる音が、妙に静かだった。
「寝て、朝、良い意味でやり直そう」
遼は作業灯のスイッチに手を伸ばし、ぱちり、と光を落とした。いきなり闇になるわけじゃない。窓の外の街灯と、階段の足元灯が残り、布の白さだけが浮く。まるで「ここまで」と線を引かれたみたいで、茉子は唇を噛んだ。
「でも、納期が……」
「眠い手の一針は、あとで二針になる」
遼はそう言って、リッパーを茉子の指から抜き取った。奪うというより、包み込む動きだった。茉子の指先が、ふっと軽くなる。
窓の外では、雨がアスファルトを叩いている。梅雨の夜は布の湿り方が違う。乾いたつもりの裏地が、じわりと重くなる。茉子は腕の内側に触れ、汗でも雨でもない冷たさを感じた。
「家に帰っても、寝られません」
言ってしまってから、茉子は自分の声の幼さに驚いた。言い訳みたいだ。でも本当だった。
遼は鍵束をいったん握り、また机に置いた。
「上、使うか」
「え?」
「二階。昔、職人が泊まることがあって。今は物置だけど、畳はある。布を踏まないように、ここで眠れ」
言い方が実務的で、誘い文句じゃない。なのに胸の奥が少しだけ温かくなって、茉子は慌てて頷いた。
遼は押し入れから薄い敷布団を出し、角を揃えて畳へ置いた。掛け布団の代わりに、肌触りのいい綿の端布を大きく広げる。茉子が「これ、いいんですか」と言うと、遼は端布の端を指で揃えた。
「肌に当てるなら、これが一番」
「……布が、布団になるんですね」
「逆だ。布団が布だ」
遼の返しが妙に真面目で、茉子は笑いそうになって、胸がきゅっとした。布に触れていると、安心する。それは遼も同じなのかもしれない。
枕代わりに、遼は折り畳んだ型紙用の厚紙をタオルで包んだ。茉子が目を丸くすると、遼はタオルの端をきっちり折る。
「硬いけど、首は落ちない」
「……節約の勝ち方って、こういうことですか」
茉子が言うと、遼は否定も肯定もせず、電気ポットのコードを丁寧に巻いた。使い終わったものを、次に困らない形へ戻す。そういう手つきだった。
階下へ戻ると、遼が小さな鍋を火に掛けた。コンビニの豆乳と、余っていた蜂蜜。茉子が「夜中に甘いものを……」と口ごもると、遼は蓋を少しずらして湯気を逃がした。
「眠れる味にする」
「……布にも、眠れる味ってありますか」
「ある。触って安心するやつ」
遼はそう言って、鍋をかき混ぜる。音が小さくて、茉子の焦りだけが場違いに大きい。
茉子はカップを受け取り、一口飲んだ。甘さが舌に広がって、胸の内側の硬さがほどける。ほどけた瞬間、涙が出そうになって、慌てて咳払いした。
遼は見ないふりをしたのか、ただ湯気の向こうを見ていたのか分からない。けれど視線が優しかった。
「遼さん」
茉子が呼ぶと、遼は「うん」と短く返した。続きがあると思わせる返事。茉子は言葉を探し、結局、作業台の端を指で叩いた。
「今日、あの影が消えたの、嬉しかったです。でも、怖かったです。明日また出たら、って」
遼は少しだけ眉を寄せ、作業台の木目をなぞった。
「怖いなら、寝ろ。怖いまま縫うと、縫い目が固くなる」
「固くなる……?」
「布は、固い人の指を嫌う」
遼の言い方が、布の話と、人の話の両方に聞こえる。茉子は頷き、カップの縁を指で回した。
二階の畳に横になると、古い木の匂いが鼻に入った。窓の外の神楽坂は静かで、ときどきタクシーのタイヤが水たまりを切る音だけがする。茉子は目を閉じたのに、針の動きがまぶたの裏で続く。
だからこそ、遼の言葉を思い出す。「良い意味で」。やり直すのは自分を罰するためじゃない。布を守るため。客の息を守るため。そう言い聞かせる。
夜更け、茉子は一度だけ目を覚ました。階下から紙をめくる音がする。そっと降りると、遼が帳簿を開き、鉛筆で小さな丸を付けていた。作業台ではなく、数字の上で手を動かしている。
「起きた?」
遼は顔を上げ、驚いたように目を瞬かせた。茉子が何か言う前に、遼が鉛筆を置く。
「縫いに行く顔だ」
「……行きません。たぶん」
「たぶん、は危ない」
遼は引き出しを閉め、鍵を掛ける仕草をした。縫い道具のほうじゃなく、茉子の気持ちのほうへ鍵を掛けるみたいに。
茉子が笑ってしまった。
「遼さん、監視係ですか」
「管理係だ。金と時間と、人の指」
「最後だけ、変です」
「指が一番高い」
遼が真顔で言うから、茉子の笑いが止まらない。笑ったら、胸の奥のざわつきが少し薄れた。
「朝、六時半。アイロンから」
「……はい」
茉子は階段を上がりながら、自分の返事が布に触れたときより素直だったことに気づいた。
翌朝、神楽坂の路地は湿った光に満ちていた。パン屋の焼ける匂いが、窓から薄く入る。茉子が作業台に立つと、昨日まで重かった針が、指の腹にすっと馴染んだ。遼が用意した霧吹きで裏地を軽く湿らせ、アイロンを当てる。押さえる。冷ます。布が息を整えるのを待つ。
「待つって、縫うのと同じくらい難しいんだ」
遼が呟く。茉子は返事の代わりに、指先で縫い代を撫でた。昨日の夜には見えなかったわずかな歪みが、朝の目には見える。肩のいせ込みの角度。背中心の落ち方。裏地のたるみの癖。布が「ここ」と言っている場所が、はっきりする。
そこへ針を入れると、糸は抵抗なく通った。手首が軽い。呼吸が一定だ。縫い目が「急いでない」のに、作業は進む。これが遼の言った、良い意味のやり直しだ。
九時過ぎ、芽吹が階段を上がってきた。傘を畳む音が少し乱暴で、でも靴はきちんと揃える。紙袋を掲げて、にやりとした。
「おはよ。……あれ、茉子、髪が……。ここで寝た?」
「ち、違う。違わないけど、違う」
自分でも何を言っているのか分からず、茉子の頬が熱くなる。芽吹は笑いながら紙袋から小さなパンを取り出し、遼へ放った。遼は落とさず受け取る。投げ方と受け方が、妙に息が合っている。
「はい、朝の糖分。手が震えないように」
芽吹が言い、茉子の前にもパンを置いた。パンの端が少し潰れている。芽吹が自分の鞄に突っ込んできた形だ。気遣いが不器用で、だから温かい。
しばらくして、博宣が階段を上がってきた。いつもの無言のまま、三脚の脚をきっちり広げる。昨日の写真の「影」を思い出し、茉子の肩が少し上がった。
博宣は何も言わずにシャッターを切る。カシャ。もう一回、カシャ。液晶を見せると、背中の線がまっすぐだった。影も筋もない。
茉子は息を吐いた。吐いた息が、胸の中にあった硬い塊を少し溶かす。
芽吹は作業台の縫い目を覗き込み、目を細めた。
「……整ってる」
その一言が、褒め言葉より効いた。遼が腕時計を見て、無駄のない動きで次の工程を書き足す。昨日の夜に作った「今日」の枠が、朝の光でちゃんと形になっている。
「結局それが早い」
芽吹が肩をすくめ、声を弾ませた。茉子は悔しくて、でも嬉しくて、笑い返す。
「分かってます。分かってるのに、悔しいんです」
遼がカップを差し出し、湯気が三人の間をゆらりと通った。
「遠回りでも、良い意味なら最短だ」
茉子はカップを受け取り、布の端を指でつまんだ。今日の一針は、昨日より軽い。軽いのに、頼もしい。
窓の外で、石畳に雨粒が当たる音がした。茉子はその音を聞きながら、縫い目にもう一度だけ指を滑らせた。
この縫い目なら、綾乃は息ができる。回っても、転んでも、袖は腕を短く見せない。そう思えた瞬間、胸の奥のざわつきが、少しだけ静かになった。




