第19話 博宣の写真が歪みを暴く
夜の神楽坂は、昼の賑わいを畳んで、路地の奥へ仕舞い込むのが上手い。石畳の隙間に残った湯気と、甘い焼き菓子の匂いだけが、通り過ぎる人の肩口を追いかけていく。
工房の二階では、作業台のライトがひとつだけ点いていた。白い光の円の外は、窓の向こうの暗さとつながっている。アイロン台からは、さっきまでの蒸気の名残が、薄い雲みたいに漂っていた。
マネキンに掛かった仮縫いのジャケットは、腕を広げたまま静かに立っている。表地は深い藍、襟の裏にだけ金色の花刺繍が覗く。茉子は袖口の縫い代を指で撫で、針先の感覚が落ち着く場所を探していた。
「左右、同量」
優歌が、いつものように確認する。口に出すことで、手元のズレを防ぐ癖がある。茉子が「うん」と返して針を進めた、そのときだった。
階段を上がる音がして、戸が開く。
「撮れてるよ」
博宣が息を整えながら入ってきた。首から下げた小さなポーチを外し、スマホを掲げる。手袋を外す指の動きが、なぜか丁寧だ。画面の汚れを嫌うみたいに、袖口で軽く拭いてから、作業台の端へつん、と置いた。
画面の中には、綾乃がいる。舞台袖の鏡の前。仮縫いのジャケットを羽織って、肩を少しだけすくめた瞬間。笑い方が、涙を隠すみたいに柔らかい。
「……きれい」
茉子の口から息が漏れた。しつけ糸だらけなのに、布の落ち方はもう“衣装”の顔をしている。針で作った線が、誰かの人生の線に触れている気がして、胸が熱くなる。
その隣で、遼が覗き込み、眉の間に小さな影を作った。
「ここ」
遼の指が、画面の胸元をなぞる。綾乃の笑顔の横で、薄い影が斜めに走っていた。照明の角度のせい、と言い切るには、一本だけ不自然に濃い。
茉子はスマホを持ち上げ、角度を変えて見た。写真を拡大し、布目を追う。影の線の端で、表地がわずかに波打っている。針が勝手に“原因”へ寄っていく。
「裏……たるんでる」
言葉にした瞬間、喉の奥がきゅっと締まった。自分の指で整えたはずの裏地が、写真の中で嘘をついている。
芽吹は椅子に座ったまま、画面を一瞥し、すぐ道具箱を開けた。糸の色を見比べ、針の太さを選ぶ。何も言わないのに、もう“直す”側へ体が動いている。
優歌はライトを少しずらし、実物のジャケットに影がどう落ちるかを確かめた。光を当てた場所だけ、布のわずかな盛り上がりが、正直に浮かび上がる。
茉子はマネキンからジャケットを外し、裏を返した。裏地の端を指で押すと、ふわりと浮く。ほんの数ミリ。けれど舞台の照明は、その数ミリを大げさに映してしまう。
「わたし、ここ……」
言いかけて止める。手を抜いた、と言ったら、縫った一針ずつが可哀想になる。
遼が首を横に振った。
「抜いてない。むしろ丁寧すぎる」
遼は布端をつまみ、裏地の余りを測るように指を滑らせる。メジャーが出てくると思ったら、帳簿用の細い定規が出てきた。布にも紙にも同じ顔をするところが、遼らしい。
「動けるように余裕を残したんだろ。吸う息、吐く息。腕の上げ下げ。全部」
「……うん。苦しくならないように」
「でも、残しすぎた。影は、残せない」
言い方が真面目で、真面目すぎて少し可笑しい。茉子は悔しさの中で口角が動いたのに、すぐ落ちる。
「ほどきます」
茉子は短く言い、リッパーを握った。しつけ糸に刃を入れると、ぷつ、ぷつ、と乾いた音が続く。音がするたび、さっきの写真の影が、頭の中で濃くなる。
「待って」
博宣がスマホをもう一度取り、別の写真を見せた。綾乃が腕を上げた瞬間。背中側にも、影の筋が出ている。
「動くと、ここも出る。照明の人が、同じ角度で当ててくれたんだ。だから、布のせいだと思う」
博宣はそう言い、画面を指で軽く叩く。叩く強さが控えめで、画面を傷つけないようにしているのが分かる。
茉子は目を細め、影の位置を頭の中の型紙へ重ねた。裏地の縫い目、背中心のいせ、肩のいせ込み。吊り下げていた時間が長かったせいで、裏地だけが少し伸びたのかもしれない。
「昨日、ハンガーに掛けたままにした……」
口に出してから、指先が冷たくなった。たった一晩。だけど布は、嘘をつかない。
芽吹が、作業台の端に小さな木のクリップを並べた。声はない。クリップが並ぶ音だけが、答えみたいに響く。
優歌が「肩と脇、止めます?」と聞く。茉子が頷く前に、遼が言った。
「止める。ただし、止めすぎない。綾乃さんは動く。動いて泣いて、動いて笑う」
「茉子」
遼が名前を呼ぶ。止めるためじゃない。呼んで、呼吸を戻すための呼び方だ。
茉子は手を止めずに返事をした。
「見逃したくない。次の仮縫いで、また笑ってもらいたい」
遼は少しだけ間を置き、言った。
「直せるなら、まだ勝てる」
勝つ、という言葉が、今日はお金の話じゃなく聞こえた。綾乃の泣きそうな目を、もう一度笑わせるほうの勝ち。
茉子はほどけた裏地を両手で整えた。ほどいた布は、怒っているみたいにしわが寄っている。怒っているのは、布じゃなく自分だ。
芽吹が無言で針に糸を通した。糸端を指先で撫で、湿らせ、するりと針穴へ滑らせる。通った瞬間だけ、芽吹の口が少しだけ上がる。
茉子はその針を受け取り、裏地の余りを指でつまんだ。余裕を削り、必要な分だけ残す。脇の下の動きを邪魔しない位置に、小さな留めを入れる。縫い目は見えない場所だからこそ、雑にしたら全部が表へ出る。
アイロンを当てる。蒸気が立ち、布が一瞬だけ柔らかくなって、すぐ形を覚える。茉子は手のひらで押さえ、裏地の波を平らにする。
「……影、消すだけだよね」
芽吹が小さく言った。
「消す。影は舞台で十分」
茉子が返すと、優歌が「舞台で消えない影もあります」と真面目に言い、遼が「それは照明係に相談して」と即答した。
芽吹が吹き出しかけて、咳払いで誤魔化す。茉子も、胸の奥で張っていた糸が、一本だけほどけた気がした。
縫い直した部分をマネキンに戻す。茉子は鏡の前へ移動し、ジャケットの胸元に手を当てた。裏で余った布が、もう浮かない。指先に返ってくる感触が、今度は嘘をつかない。
遼がライトを少しだけ下げ、影が出やすい角度にする。優歌が「腕、上げたときの形」と言って、マネキンの腕を持ち上げる。芽吹が脇の下へ指を入れ、引っかかりがないか確かめた。三人の指先が、同じ場所を違う角度で守っている。
博宣が、またスマホを構えた。
「同じ角度で、撮るよ。さっきの照明と、ほぼ同じ」
「お願い」
茉子は息を整え、綾乃の笑顔を思い出す。笑顔を守るのは、気合じゃなく縫い目だ。
シャッター音が鳴り、画面が切り替わる。
茉子は覗き込み、そこに“変な影”がないのを確認した。胸の奥が、ようやく息をした。
遼が肩の力を抜くように、小さく息を吐く。
「影、節約できたな」
「節約してない。削ったのは余裕」
「余裕も大事だ。残す分と、残さない分を選ぶ」
その言い方が、布の話と、遼の生き方の話の両方に聞こえて、茉子は指先を握り直した。
作業台の上には、まだやることが並んでいる。ボタン位置の仮決め、襟の返り、裾の落ち。茉子は次の糸を探そうとして、ふと時計を見た。針が二十一時半を過ぎている。
遼が湯を沸かし直す音がした。カップは四つ。柄が揃っていないのに、どれも欠けていない。
「今日は、ここまで」
遼が言う。命令じゃなく、提案の形で。茉子は頷きかけて、指先がまだ布を掴んでいる自分に気づく。
ほどいた場所は直した。影も消えた。でも、心の中の影は、まだ少しだけ残っている。
茉子はカップを受け取り、温かさで指先をほどいた。
「明日、笑ってもらえるかな」
遼が答えず、ただカップの湯気を見た。その沈黙が、否定じゃないのを、茉子は知っている。
明日のために、今日の一針は終わる。




