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ゴールデンフラワーの一着  作者: 乾為天女


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第18話 芽吹、長距離走のコツ

 午後の神楽坂は、石畳の隙間に落ちた斜めの光を、まだ諦めずに拾い集めていた。坂を下る人のコートが擦れるたび、乾いた音がする。工房の二階では、アイロン台から立ちのぼる湯気が窓の端を白く曇らせ、糸くずがその光の中で金粉みたいに舞っていた。


 茉子は袖の型紙を二枚、作業台の端に並べる。見積書の紙の感触が、指先にまだ残っていた。泣いた綾乃の声、硬くならないようにした自分の笑顔、遼の指が一瞬触れた温度。全部が針の先に集まって、細く震える。


 「今日は袖だけ。ここまでできたら、ちゃんと終わりにする」

 茉子が言うと、芽吹は針山を指で押し、ぷすりと一本抜いた。返事の代わりに、抜いた針を空中でくるりと回し、作業台の上を眺める。


 袖の山、ギャザーの量、裏の見えない縫い代。手順が多い。しかも途中で仮縫いを挟み、左右を揃えてから微調整。終わりが遠い。

 芽吹は椅子に腰を落としたまま、テーブルの隅に置いてあった小さな布切れをつまんだ。指が勝手に動き、くるくると巻かれていく。端を折り、中心を絞って、花の形にしていく。


 「それ、なに作ってるの」

 茉子が聞くと、芽吹は顔を上げずに答えた。

 「花。小さいやつ。袖に付けたら、かわいい」

 「……付けないよ。今日は袖だけ」

 「じゃあ、袖の気分転換に花」

 「気分転換は、休憩の時にしよう。今は袖だけ」


 言い方が硬くならないように、茉子は声の温度を下げない。芽吹の手を止めたいのに、止めるのが怖い。止めた瞬間に、芽吹が遠くへ走っていってしまいそうで。

 それでも芽吹の指は花をほどかない。糸を通して中心を留め、針先で花びらを整えようとする。


 「芽吹。袖は?」

 奥のミシンから優歌の声が飛ぶ。縫い代を押さえた手は動かしたまま、目だけがこちらを見る。

 芽吹は「後で」と言い、花の中心を指で押した。


 階段を上がってきた遼の足音が、途中で止まった。何も聞かなくても、空気の向きを掴んだらしい。遼は作業台の横に立ち、袖の型紙を一枚、無言で持ち上げる。茉子が押さえていた紙が、ふわりと浮いて戻った。


 「袖は、長い。途中で嫌になる」

 遼が言うと、芽吹はようやく顔を上げた。

 「嫌じゃない。嫌になるだけ」

 「同じだ」

 「違う。嫌いじゃないから、嫌になる」


 その言い回しに、茉子は鼻で笑いそうになるのを堪えた。笑うときに針が揺れる。縫い目にそれは残ってしまう。

 遼は椅子を引かず、立ったまま続ける。


 「長いのは、区切る」

 「なにを」

 「今日の距離」


 遼は机の引き出しから、厚めの紙と定規を取り出した。紙は真っ白で、角が揃っている。道具箱の中身と同じ顔をしている。

 定規が紙の上を走り、線が引かれる。一本、二本、三本。さらに四本、五本。遼は小さな文字を書き込んでいく。


 『袖山 仮どめ』

 『ギャザー 左右同量』

 『裏地 たるみゼロ』

 『手首 見えない留め』

 『最後に 糸始末』

 『終わったら お茶』


 最後の一行だけ、少しだけ字が大きい。遼の悪戯みたいな配慮に、茉子の胸がふっと緩む。


 芽吹は花を持ったまま、線を目で追った。目の動きが、少しだけ軽くなる。

 「これ、段取り?」

 「区切り表」

 「……お茶、強い」

 「強い」


 芽吹は花を置き、袖の布を引き寄せた。さっきまで空を掴んでいた指が、布を掴む。布端を揃えると、椅子の背もたれに背中を預けず、前へ寄った。まるでスタートラインに立つみたいに。


 茉子は胸の奥に、ぬるい湯気みたいなものが立つのを感じた。芽吹が戻ってきた。その事実が、見積書の数字よりずっと重い。

 「ありがとう、遼さん」

 茉子が言うと、遼は首だけで否定した。

 「俺は紙に線を引いただけ」

 「紙に線を引ける人が、今ここに必要だった」


 優歌がミシンの針を上げ、足を止めた。

 「線って、針より速いですね。気持ちを先に連れていく」

 芽吹が「先に連れていかれたら、戻りたくなくなる」と言い、唇を尖らせる。

 優歌が笑って、「戻らなくていいところに戻らなくていい」と返した。

 茉子はそのやり取りに、肩の力が抜けるのを感じた。


 袖山の仮どめを始めると、芽吹の手元が思ったより丁寧だ。針目が揃い、布が暴れない。けれど一箇所、ギャザーを寄せる指が止まる。

 「ここ、足りない」

 芽吹がぽつりと言う。花を作っていたときの軽さが消え、布の重さが手に戻っている。


 茉子が覗き込むと、左右でほんの数ミリ、寄せ方が違う。見えない程度。けれどオートクチュールの袖は、見えないところで勝負をする。

 茉子はほどき糸を手に取った。ほどく音は、毎回胸に刺さる。それでもやるしかない。

 「直そう」

 芽吹は頷かず、黙って糸を持つ。茉子がほどき始めると、芽吹が隣で針に糸を通した。無言のまま、糸端を指で湿らせ、つるりと通す。


 遼が横から覗き、「直せるなら、まだ勝てる」と小さく言った。見積書のときの言い方と違って、声が柔らかい。

 茉子はうなずき、ほどいた布をもう一度揃える。袖の形が、きれいに立ち上がるまで。


 区切り表の一行目に、芽吹が赤ペンで小さな丸をつけた。遼の字の隣に、芽吹の丸。たったそれだけで、工房の壁が少しだけ賑やかになる。

 「一個目、終わり」

 芽吹が言い、茉子は「次はギャザー」と返す。優歌が遠くで「左右同量」と復唱し、わざとらしく真面目な顔をした。


 「長距離走って、どうやって走るの」

 茉子がふいに芽吹へ聞いた。針を動かしながら、答えが欲しかった。今日の距離を越えるために。

 芽吹は糸を引き締め、呼吸を整えるみたいに言った。

 「電柱まで。次の電柱まで。水飲む場所まで。全部は見ない」

 「全部、見なくていいの?」

 「見たら、嫌になる。だから、区切る。今日の距離」


 芽吹の言葉が、遼の区切り表と重なる。茉子は針を進めながら、綾乃の泣き顔を思い出した。全部を抱えたら、縫い目がほころぶ。区切って、ちゃんと縫う。


 遼が壁へ紙を貼るために、マスキングテープを二枚ちぎった。まっすぐ。無駄がない。

 区切り表が壁に付いた瞬間、工房の空気が少しだけ整う。縫う音が、同じテンポに寄っていった。


 茉子は袖の内側に隠れる縫い代を押さえる。見えないところほど丁寧に。そこにこそ、誰かの背中を押す強さが宿る。

 芽吹の手元で、布が少しずつ袖の形を取り始めた。花は作業台の隅で、静かに待っている。今はまだ出番じゃない、と言いたげに。


 ギャザーを左右同量に寄せ終えると、芽吹がまた赤ペンで丸をつけた。丸が二つ並ぶ。遼がそれを見て、ほんの少しだけ眉を上げる。喜んでいるのに、喜ぶ顔を出さない。


 「お茶」

 区切り表の最後の一行を、遼が指でとんとんと叩いた。茉子が「まだ裏地が」と言いかけると、遼は首を横に振る。

 「区切った。守る」

 芽吹が「守る」と真似して笑い、優歌が「守ります」とわざと敬礼した。


 遼が湯を沸かし、茶葉を量る。量り方が妙に正確で、でも茶葉は特売の袋から出てくる。節約の癖が、こういうところで可愛く顔を出す。

 湯気の匂いが広がると、茉子の喉の奥の乾きがほどけた。カップは三つ。柄が揃っていないのに、どれも欠けていない。


 芽吹が両手でカップを包み、「これ、助かる」と言った。温かさを確かめるみたいに、指を少しだけ動かす。

 「区切り表、いいね」

 遼が「紙だ」と言い、茉子が「紙でも、線でも」と返すと、芽吹がカップの縁で小さく笑った。


 茉子はその笑いを見て、胸の奥に針が一本、まっすぐ刺さった気がした。痛くない。むしろ支えになる刺さり方。

 袖の終わりはまだ先だ。でも、次の電柱は見えている。



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