第17話 見積書とときめきの綱引き
翌朝の神楽坂は、昨日磨いた金文字みたいに、空気が少しきらりとしていた。坂の途中で豆腐屋が油を落とす音を立て、路地の奥では猫が欠伸をしている。工房の二階で、茉子は白い紙を前に、鉛筆を握り直した。
紙の一番上には、太字で「御見積書」。下へ並ぶ数字は、縫い目みたいに整っているのに、見ているだけで喉が渇く。
遼は机の端をきっちり揃え、電卓を置いた。置く音さえ、角が立っている。
「増えたな」
「……増えました」
茉子が小さく答えると、遼は帳簿を開き、指で行をなぞった。数字の列の途中で、指が止まる。
「ここ。金糸の刺繍、外側の裾一周。削れる」
「削れません」
茉子は言い切ってから、息を吸った。言い切り方が強すぎたかもしれないと、遼の眉を盗み見る。けれど遼は怒らず、ただ「理由」と短く促す。
「舞台の照明で、裾が沈むんです。綾乃さん、走って回って、転ぶって言ってた。視線が下へ流れる瞬間、裾が光ると、転んでも……役が起き上がれる」
「役が起き上がるために、金糸を買うのか」
「……買います」
遼が口元を少しだけ歪めた。笑いか、呆れか、判別がつかない。茉子は鉛筆の先で紙を軽く叩き、次の項目を指さす。
「それに、裏地を二枚にするのも」
「そこも削れる。軽くするなら一枚でいい」
「軽くするなら、です。汗を吸って、滑りを良くして、動きやすくするなら二枚です。袖、引っかかったら危ない」
遼は指で額を押さえ、息を吐いた。紙の上の数字が、空気の重さで増えたみたいに見える。
階段の下から、芽吹の欠伸が聞こえた。
「なに、朝から言い合い? 糸、絡むよ」
「絡ませない」
遼が即答すると、芽吹は「はいはい」と笑いながら針山を抱えて去っていった。茉子はその背中に救われた気がして、唇を噛む。
「遼さん。節約、得意なのは分かります。でも……」
「分かってる」
遼が紙を指で弾いた。ぱちん、と乾いた音がした。
「金は、嘘をつかない。嘘をつくのは、人だ」
「……見積書は嘘じゃないです」
「そうだ。だから、嘘を混ぜるな。『全部盛り』ってやつ」
茉子は「全部盛り」という言葉だけが、やけに庶民的で、思わず笑いそうになった。笑ったら負ける気がして、喉の奥で飲み込む。
そのとき、スマホが震えた。綾乃からのメッセージだ。稽古場の写真が添えられている。薄いスウェット姿で、ステージの端に座り、足首にテーピングを巻いている。笑っているのに、目の奥が少しだけ強張っていた。
『ごめんね、昨日の夜、演出家さんに言われて……背中をもう少し開けたい。あと、早替えのフックも。無理?』
茉子の胸が、すっと冷えた。無理じゃない。けれど、また増える。紙の上の縫い目が、ほころびそうだ。
遼も画面を覗き込み、すぐに視線を紙へ戻した。
「会う」
「え」
「本人と話す。優先順位を決める。泣いても笑っても、今日で決める」
茉子は頷くしかなかった。遼の「決める」は、針が布を貫く音に似ている。迷いを残さない音。
昼前、綾乃が工房に来た。髪はきっちりまとめられているのに、頬に薄く疲れが残っている。階段を上がる足取りも、昨日より少しだけ慎重だ。
遼は椅子を引き、茉子は温かいほうじ茶を出した。湯気が立つ間、誰も口を開かなかった。
「ごめんなさい。増やしてばっかりで」
綾乃が先に言った。声は明るく作られている。茉子はその作られた明るさが、胸に刺さった。
「増やすのは、悪じゃないです」
茉子が言うと、遼が横から口を挟む。
「ただし、金が増える」
「それを言わないでくださいよ……」
茉子が咎めると、遼は「言う」と譲らない。二人のやり取りを見て、綾乃がふっと笑った。笑った瞬間だけ、肩の力が抜ける。
「……見積書、見せてもらってもいい?」
「はい」
遼が紙を差し出す。綾乃は目を落とし、数字を追いながら、唇を少しずつ噛んだ。まるで台本の台詞を飲み込むみたいに。
「高い、よね……」
言葉がこぼれた。茉子は慌てて首を振る。
「高くしたくて高くしたんじゃないです。動きやすさとか、安全とか……」
「安全、は削れない」
遼が言った。きっぱりしていて、綾乃の目が一度だけ上がる。
「削れるのは、飾り。金糸の裾一周。背中の開きの縁取り。ボタンの手縫い。……この辺」
「遼さん!」
茉子が声を上げると、遼は紙の上に指を置いたまま、綾乃を見た。
「綾乃さん。何が一番欲しい」
「……欲しい?」
綾乃は目を瞬かせた。問いかけられると思っていなかった顔だ。茉子は綾乃の指先を見る。爪の先が少し欠けている。テーピングの白さが、写真のままだ。
「光る裾も、背中も、早替えも。全部欲しいに決まってる」
綾乃が笑って言い、次の瞬間、笑いが途切れた。唇が震え、目尻に水が溜まる。茉子は椅子から立ち上がりかけて、遼の視線で止まった。「待て」と言われている気がした。
綾乃は、ほうじ茶に手を伸ばした。湯飲みが少し揺れ、茶の面が震える。
「……怖いの。あの舞台、走って、回って、転ぶ。転んだとき、客席が息を止めるのが分かる。自分の身体が、役じゃなくて……ただの私になっちゃう」
「……」
「服が、私を役に戻してくれる気がするの。ちゃんと、ここに縫い目があるって」
茉子の胸が、ぎゅっと縮んだ。遼が何も言わないまま、紙を裏返し、鉛筆を取った。遼の鉛筆の持ち方は、布巾の角を揃える手つきと同じだ。
「優先順位をつける」
遼が言い、紙に三つの丸を書いた。
「一つ目。動きやすさと安全。これは最優先」
「うん」
綾乃が頷く。涙が落ちそうで落ちない。
「二つ目。早替え。これは、稽古場の要求か」
「……そう。演出家さんが、早く着替えろって」
「なら、必要だ」
遼が二つ目の丸を強く囲んだ。茉子はその線の力に、なぜだか救われる。
「三つ目。ときめき」
遼が三つ目の丸を指で叩いた。茉子の心臓が、急に跳ねた。遼は真面目な顔のまま続ける。
「裾の光。背中の開きの縁。見えないところの手縫い。全部、ここに入る」
「遼さん……」
「ときめきは、全部盛りにするな。狙って、刺す」
茉子は思わず笑ってしまった。綾乃も鼻をすすりながら笑う。三人の笑いが混ざり、工房の空気が少し柔らかくなった。
「じゃあ……裾の金糸は、舞台で一番光が当たるところだけ。後ろは、薄い金のテープで線を作る。手縫いは、表に出るボタンだけ」
茉子が言うと、遼が頷いた。
「裏地は二枚。汗と滑りを優先。背中の開きは、肌を守るテープを入れる。早替えフックは、壊れにくい金具だけ使う」
「……それで、いくら?」
綾乃が震える声で聞く。遼は電卓を叩き、数字を見せた。最初の見積もりより、少しだけ下がっている。
綾乃は数字を見つめ、指先で紙の端を撫でた。涙が一粒、紙に落ち、丸の中の「ときめき」を滲ませた。
「……それでいい」
綾乃が泣きながら言った。言ったあと、顔を両手で覆い、肩が小さく揺れる。
茉子は、立ち上がってハンカチを取りに行きたいのに、動けない。指先が震えて、エプロンの端をつまむことしかできなかった。震える指先が、綾乃の涙に触れてしまうのが怖い。
遼が、机の上にそっとハンカチを置いた。いつの間にか用意していたらしい白い布。角が、きっちり揃っている。
「泣くなとは言わない。泣いたぶん、縫う」
遼の言葉は、いつもより少し柔らかい。綾乃が顔を上げ、茉子を見る。目が赤いのに、笑っている。
「……お願い。私を、役に戻して」
「はい。戻します」
茉子は震える指で、見積書の端を押さえた。紙が、逃げないように。縫い目が、ほどけないように。
その指の上に、遼の指が重なった。重なるのは一瞬。けれど、布の温度みたいに、すぐには消えなかった。




