第16話 ゴールデンフラワーの誇り
夕方の神楽坂は、坂を下るたびに匂いが変わる。焼き鳥の甘い煙、パン屋のバター、石畳が昼の熱をほどいていく湿った土の匂い。
工房の二階で、茉子は袖の型紙を机に伏せた。紙の端が、さっきまでの緊張をまだ覚えているように少し反っている。
「今日はここまで」
声に出して区切ると、針山の赤い頭が少し落ち着いた気がした。
階段の方から、ころん、と軽い音がして、芽吹が上がってくる。両手は空っぽなのに、どこか得意げだ。
「ねえ。さっきの人、帰った?」
「うん。鈴、鳴ったから」
「ふーん。……さっきの、告白みたいなやつ、録音しておけばよかった」
茉子は目を丸くして、型紙で顔を隠した。
「違うって言ったでしょ」
「言い方がね。『勝つために縫います』。あれ、舞台女優に言ったら客席が泣くやつ」
「泣かせないで。布が濡れるから」
芽吹は笑って、階段を下りる。下で冷蔵庫の扉が開く音がしたかと思うと、今度は戸口の鈴が、ちりんと鳴った。遼が戻った音だ。
茉子は窓際に立って、下を覗いた。
遼はエプロンのまま、玄関前にしゃがみ込み、バケツを置いている。手には布巾。工房の金色の看板へ、丁寧に腕を伸ばしていた。
「……なにしてるんですか?」
茉子が階段を降りて外へ出ると、遼は振り向かずに答えた。
「磨いてる。金文字がくすんできた」
「磨くって、今から?」
「いまから」
言い切って、遼は布巾を折り直した。角がそろうまで何度も折って、最後に指先でぴん、と整える。
その動きが、布を扱うときと同じだと気づいて、茉子は胸の奥が少しだけ熱くなった。
「洗剤、ちゃんとしたの買ったんですか」
「買ってない」
遼は当たり前みたいに言い、バケツの中を指した。水はぬるい。ほんのり、せっけんの匂い。
「石けんを削った。台所の。余ってたやつ」
「それで大丈夫なんですか」
「まず試す。端で」
遼は看板の端を、そっと拭いた。金の縁取りが、かすかに光を返す。自分のやり方を疑う気配がない。疑いの代わりに、確かめる手つきがある。
「遼さんって……」
「ん」
「節約って言うわりに、手間は惜しまないですよね」
遼の手が一瞬止まった。だがすぐに、布巾がまた動き出す。
「手間は、在庫にないからな」
「……へんな理屈」
「でも、効く理屈」
茉子が笑うと、遼は小さく喉を鳴らした。笑ったのか、咳払いなのかは分からない。
そのとき、隣の家の二階の窓が開き、夕飯の匂いが流れてきた。神楽坂の路地は狭い。人の気配が、布の織り目みたいに重なる。
「看板、そんなに大事ですか?」
茉子がそう聞くと、遼は布巾を置かずに答えた。
「大事。あれがなきゃ、ここはただの古い家だ」
ふ、と息を吐いて、遼は金文字の「フ」のあたりを磨いた。そこだけ少し擦れて、下地がのぞいている。
「先代が、自分で塗ったんだ」
「先代……」
「俺が来た頃、看板はもっと派手で、もっと下手だった」
遼は言いながら、布巾を水で濡らし直す。バケツの水面が揺れて、街灯が丸く歪む。
「その頃、先代は言ってた。『人生に花を咲かせる場所にしよう』って」
「……だから、ゴールデンフラワー」
茉子は看板の金色を見上げる。花の形の小さな飾りが、文字の端に隠れるようについている。気づかなかった。そこにずっとあったのに。
「布を選ぶときも、あの人は言ってた。『派手な柄で誤魔化すな。着る人が光るように作れ』」
「……それ、難しい」
「難しいから、ここでやる」
遼は金文字を磨く手を止めて、茉子の方を見た。目が合って、茉子はとっさに背筋を伸ばした。
伸ばしたまま、どうしてそんなことをしたのか自分でも分からなくて、少し恥ずかしい。
「先代、茉子さんのこと、見たかったでしょうね」
「……見られたら、怒られると思います。私、まだ、針を落としますし」
「落としたら拾えばいい」
遼は短く言い、また磨き始める。金文字が少しずつ明るくなる。
茉子は、磨かれていく文字を見ているだけで、胸がしん、と静かになっていくのを感じた。言葉にしなくても、ここにいる意味が、布の端みたいに指に引っかかる。
そのとき、戸口の鈴が、また鳴った。
博宣がカメラを肩にかけて現れ、看板の前で立ち止まった。
「お、夜の外仕事。いい絵だね」
遼が眉をひそめる。
「勝手に撮るな」
「勝手に撮らない。頼まれてないけど撮る」
博宣は笑って、シャッターを一回だけ切った。ぱちり。音が短くて、なんだか縫い針が布を抜ける音に似ている。
「茉子、いい顔してる」
「えっ、してないです」
「してる。『見つけた』って顔」
茉子は慌てて頬を手で押さえた。冷たい。外の空気が、顔の熱を逃がしてくれる。
博宣はカメラを下ろし、遼の手元を見て言った。
「研磨剤、いる?」
「いらない」
「じゃあ、これ」
博宣はポケットから小さなクロスを出した。新品らしく、角がぴんとしている。
遼は受け取らない。代わりに、茉子を見た。
「それ、いくらだ」
「二百八十円」
「……」
「コンビニじゃない。商店街のやつ。おじさんが値引きしてくれた」
「……」
遼は黙ってクロスを受け取った。受け取った瞬間だけ、指先がほんの少し柔らかくなった気がした。
博宣が肩をすくめる。
「ね。遼を動かすには、値札が必要」
「口を閉じろ」
遼が言うと、博宣は楽しそうに笑い、工房へ戻っていった。
茉子は、遼の横にしゃがんだ。石畳が冷たく、夜の冷えがスカート越しに忍び込む。
遼がクロスを使い、金文字を軽く撫でる。光が、文字の縁からこぼれた。
「……ここで勝とう」
遼が、磨きながら言った。誰かに聞かせるためじゃない声。自分に針を刺すみたいな、短い言葉。
茉子の指先が、無意識にエプロンの端をつまむ。布が、心臓の鼓動に合わせて揺れる。
「勝つって……若手職人コンペのことですか」
「そう。あそこに出す服で、ここを残す」
「残す?」
「残す。看板も、机も、ミシンの音も」
遼は金文字の最後の一画を磨き、布巾を折り直した。布巾の角がまた揃う。
茉子はその角を見て、なぜだか涙が出そうになった。泣く理由が分からないのに、喉の奥が熱い。
「……私、ここで縫いたいです」
茉子が言うと、遼は「うん」とだけ返した。返事は短いのに、背中が少し軽くなる。
「じゃあ、縫おう。勝つために」
「はい。勝つために」
言い終えた瞬間、階段の上から芽吹の声が飛んできた。
「いまの、二回目の告白!」
「違う!」
「違わない! ほら、背筋ピンとしてる!」
茉子は反射で背中を丸め、遼は黙って布巾で金文字を一回、強く拭いた。きゅっ、と音がして、看板がさらに光る。
芽吹は「わー、眩し」と言って引っ込み、代わりに室内の灯りがふわりと漏れた。
茉子は看板を見上げる。金色の文字が、街灯を受けて、花みたいに開いている。
そこに自分の影も、遼の影も、並んで映っていた。
「……次は、看板に負けない一着を」
茉子が呟くと、遼は布巾をたたみ、バケツを持ち上げた。
「負けないじゃなくて、支える。看板は客を呼ぶ。服は客を守る」
「守る……」
「先代が言ってた。『花は、踏まれても咲く。でも、踏ませるな』って」
遼はそう言い、工房の扉を開けた。鈴がちりん、と鳴る。
茉子はその音に背中を押され、足を一歩、前に出した。胸の奥で、小さな花が、確かに咲いた気がした。




