第15話 優歌の助太刀、条件付き
午前八時すぎ。神楽坂の路地はまだ息をひそめていて、豆を挽く音だけが遠くから転がってきた。茉子は階段を二段飛ばしで上がり、鍵を差し込む。扉の金色の花が、朝の光を受けて一瞬だけ派手に笑った。
作業台の上には、昨夜までの袖の型紙が広がったままだ。鉛筆の線が何度もなぞられ、消しゴムの粉が雪みたいに散っている。茉子は鞄から小さな封筒を取り出し、机の端に置いた。
「許可、もらえました。……星が見える場所で、完成を見せてほしいって」
遼は帳簿を閉じ、封筒の上に視線を落とした。手のひらで名刺を押さえ、角の白い部分を親指でゆっくりなぞる。紙の端が少しだけ丸くなるのを確かめるみたいに。
「条件、増えたな」
「増えました。でも、怒られませんでした。……むしろ、笑ってました」
芽吹は椅子を逆向きにまたがり、机の上で小さな布切れをくるくる回している。昨日の余り布で、指ぬきのカバーを作るつもりらしい。
「星って、急にロマン入れてくるね。管理人さん」
「急じゃないかも。あのドレス、最初からそういう顔してる」
茉子は裏地の端の感触を思い出し、胸の奥が少しだけ詰まった。あの短い言葉は、布の中でずっと眠っていた。起こしてしまったのは自分だ。なら、最後まで面倒を見る。
窓の外で、坂を上がる自転車のチェーンが鳴った。神楽坂は朝でも忙しい。人の暮らしが、縫い目のように重なって進んでいく。
「……今日、袖を決めたいです」
言った瞬間、芽吹が大げさにうなだれた。
「袖、また袖。袖って、そんなに偉いの?」
「偉い」
遼が即答した。芽吹が顔を上げる。
「珍しい。遼が即答するの、珍しい」
「袖が合わないと、全部が合わなく見える。目に入る回数が多い。客の手も、動く」
遼の言葉は数字みたいに短いのに、茉子の背中を押した。袖は腕のための筒ではない。動くたびに、暮らしの気配が出る場所だ。
そこへ、階段の下で鈴が鳴った。
「おはようございます。……まだ開いてます?」
声に、茉子は息を止めた。扉を開けると、優歌が立っていた。黒いコートの襟を立て、片手に細長い箱を抱えている。表情は丁寧なのに、目だけが真剣で、逃げ道を塞ぐみたいにまっすぐだった。
「開いてます。どうしたの?」
優歌は靴を脱ぎ、工房の床を一度だけ見回した。作業台の上の型紙に視線が止まる。袖山の線を見て、口角がほんの少し上がった。
「それ、二枚袖にしたいんですよね。……でも、いせ込みで詰まってる」
茉子は言い返す前に、まず頷いた。素直に受け入れる、と自分で決めてきた。
「詰まってます。袖山が浮く。動くと、肩が泣く」
芽吹が横から口を挟む。
「肩が泣くって何。布は泣かない」
「泣くんだよ。縫った人の手の中では」
芽吹は「変な人」と言いかけて、優歌の目とぶつかって止まった。優歌は止めない。止めないまま箱を開け、ふくらんだ布の塊を取り出した。小さな山の形をした、アイロン台の当て。
「テーラーハム。これがあると、丸みが作りやすい。貸します」
遼が椅子から半歩だけ前に出た。
「貸す、ってことは、返す期限がある」
「期限は、あなたが決めていいです」
優歌は遼を見た。遼は名刺の端をなぞる手を止めず、ただ眉をわずかに動かした。
「条件は?」
その一言で、空気が少しだけ冷えた。優歌は視線を茉子へ戻し、まっすぐ言った。
「本番で勝ってください」
針山が転がりそうなくらい、静かになった。
「……勝つって、誰に?」
茉子が聞くと、優歌は肩をすくめた。
「誰でもいいです。見る人に負けない。自分に負けない。あと……変な流れに負けない」
芽吹が吹き出した。
「最後、何それ。ほんと変な人」
優歌は一瞬だけ頬を固くしたが、次の瞬間、ため息みたいに笑った。
「そうです。変な条件を出します。だから、教えます」
茉子は針を握り直し、きちんと頭を下げた。
「勝つために学びます。今日、教えてください」
優歌の目が、少しだけ柔らかくなった。遼は名刺の角を指で押し、紙の端を整えるみたいに撫でる。その動きが、なぜか「いい」と言っているように見えた。
優歌の教え方は、無駄がなかった。袖山の縫い代に細いぐし縫いを二本入れ、引き絞る強さを「指先が怒らない程度」と言う。茉子が引きすぎて糸が鳴ると、優歌は黙って糸を緩め、針先で布を撫でて均した。
「均す、じゃなくて、なだめる」
言葉が可笑しくて、芽吹がまた笑う。
「布、保育園児か」
「だいたい、そうです。放っておくと寝ない」
遼が小さく咳払いした。
「寝ないのは、人間の方だ」
茉子は思わず笑ってしまい、針が指先に刺さった。ちくり、と小さな痛み。赤い点がにじむ。
「うわ、ごめん、笑わせた」
芽吹が慌てて引き出しを開け、絆創膏を放り投げた。遼が受け取り、茉子の手を取る。手袋の上からでも、指先の震えが伝わった。
「血は布に付けるな。……先に貼れ」
言い方は淡々としているのに、遼の指は優しかった。茉子は貼られた絆創膏を見て、胸の奥で何かがほどける。
「ありがとうございます」
「礼は、袖で」
優歌がテーラーハムを差し出す。
「アイロン。蒸気は少なめ。押し付けない。形を置く」
茉子はアイロンを持ち、袖山を丸みに沿わせる。布がすこしずつ従う。縫い糸のテンションが落ち着き、肩のあたりが自然に沈んだ。
遼が袖の内側を覗き込み、声を落とした。
「袖頭の綿、必要か。買うと高い」
芽吹が即座に言う。
「じゃあ、キッチンのスポンジで」
優歌が真顔で首を振った。
「腕、痛くなります。スポンジは台所で働かせてください」
優歌は棚から薄い布を一枚引き出し、遼の前に置いた。
「これくらいの薄い芯。余りでもいい。硬くしすぎない。袖の上に、もう一枚の空気を作る」
遼は名刺の端をなぞる手を止め、布の端を指で揉んだ。指先で値札を探すみたいな動き。
「余りで済むなら、助かる」
茉子が小さく腕を回すと、袖が引っ張られずに付いてくる。芽吹が覗き込んで、目を丸くした。
「え、同じ布? さっきまで暴れてたのに」
「暴れてたのは、たぶん私の方」
茉子が言うと、遼が名刺の角を指で弾いた。軽い音。
「暴れるなら、順番を決めろ。袖、終わったら、次は見積りだ」
現実が机の上に戻ってくる。けれど、その現実は、さっきより怖くなかった。
優歌は道具をしまいながら、茉子の手元をもう一度だけ見た。袖山の針目。均した丸み。糸の端。
「……できますね」
褒め言葉の音が低くて、茉子は照れた。優歌は、扉の前で振り返る。
「約束です。本番で、勝ってください。勝った顔、見せてください」
芽吹が肘で茉子をつつく。
「何それ、告白みたい」
「告白じゃない」
茉子は即答してから、自分の顔が熱いのに気づいて困った。
「……勝つために、縫います」
優歌はそれ以上何も言わず、階段を下りていった。鈴が鳴って、また朝の音が戻る。
茉子は袖をそっと撫でた。布の中に眠っていた「あなたへ」が、今は少しだけ近くにある気がする。誰かへ届く形を、今日もここで作る。




