第14話 縫い目の中の手紙
夜十時を回って、工房の時計が小さく鳴った。外の通りはまだ明るいのに、窓ガラスに映る自分の顔だけが先に眠そうで、茉子は頬を両手で挟んだ。木曜の夜、ビルの廊下は人影が薄く、エレベーターの到着音だけが遠くでこだまする。
作業台の上には、修復ドレスが裏返しで広がっている。袖口を直すためにほどいた糸が、黒い小さな川みたいに流れ、ところどころで光った。布の内側は、思っていたより柔らかい。表の華やかさとは別の、肌に寄り添うための静かな柔らかさ。
「あと一箇所だけ。ここをきれいにしたら、袖の形が落ち着く」
遼が言いながら、手首に巻いた細いメジャーをするりと外した。言い方は淡々としているのに、指先はやけに優しい。布をつまむ力が、強すぎず、弱すぎず。布に対して失礼にならない強さ、というのがあるのだと、茉子は最近になってやっとわかった。
「うん。今日は袖だけ、だよね」
茉子が言うと、壁に貼られた“作業の区切り表”が視界の端で揺れた。芽吹が「これ、助かる」と笑った顔が、少し前のことなのに遠く感じる。机の隅には、優歌が置いていった細いチャコペンが転がっていて、キャップが開かないように輪ゴムで留められていた。几帳面な工夫が、誰かの気配として残っている。
袖の裏地をめくると、遼が眉をひそめた。
「……ここ、触ってみて」
茉子が指を入れると、縫い目のすぐ内側に、微かな膨らみがあった。綿でも芯でもない、紙の角みたいな硬さ。指を動かすたびに、かさ、と乾いた音がする。
「え、何これ。……飴の包み紙とか?」
口から先に出た自分の冗談に、茉子は小さく赤くなった。遼は笑わず、ただ針を持ち替えて、縫い目の端をほんの一ミリだけ解いた。糸を切るのではなく、ほどく。乱暴に扱えば布が泣くのだと、遼は無言で教える。
糸がゆるみ、布が開き、そこから白いものが顔を出した。
それは、紙だった。小指ほどに細く畳まれた紙が、縫い目の中に丁寧に押し込まれている。しかも、薄い封の形をしていた。封の角は丸くされ、折り目もつぶれていない。縫い目は普通より少し細かい。秘密の小部屋を作るみたいな針運びだ。
「手紙……?」
茉子が息を飲むと、遼も同じタイミングで呼吸を止めたのがわかった。針の先が宙で止まり、糸が張ったまま固まる。ふたりの間に、布の匂いと、アイロンの余熱だけが漂う。紙には、微かな香りが残っていた。香水というより、布用の柔軟剤の甘さ。誰かの生活の匂いだ。
遼は紙を引き出すのではなく、布をそっと広げ、封の表を見えるようにした。黄ばんでいない。古いのに、ちゃんと守られていた色だ。表には、丸い字でたった三文字。
『あなたへ』
茉子の喉が、きゅ、と縮んだ。
「奥さま……」
昨夜、遼が話してくれた“星を見に屋上へ上がる癖”が、ふっとよみがえる。縫い目の内側に隠されたのは、針の跡よりも小さな言葉なのに、胸の奥に触れると急に重い。布の重さじゃない。誰かが決めた「伝えたい」という重さだ。
「開ける?」
遼が尋ねた声は、いつもより少し低かった。命令でも提案でもなく、確認。茉子は、指先を封の端に近づけたまま止まった。
開けたら、戻せない。勝手に読んでいいのか。読まなければ、見つけた意味がないのか。考えがぐるぐる回って、手のひらだけが汗ばんだ。ふと、子どものころ、母が弁当箱のふたの裏に小さなメモを貼っていたのを思い出す。「転ばないように」「帰りに牛乳」みたいな、どうでもいい言葉。けれど、その文字を見ると、胸の底が温かくなった。言葉って、そういうものだ。
そのとき、奥のミシン台から、カタ、と音がした。芽吹が忘れていった糸切りばさみが、誰も触っていないのに少しだけ倒れたのだ。まるで「落ち着け」と言われたみたいで、茉子は小さく笑ってしまった。
「……読まない。まず、届けよう」
自分でも意外なくらい、言葉がすっと出た。
遼は頷き、封の端を見つめた。すると、封は完全には閉じられていないことに気づいた。糊が古くなって、ほんの少しだけ口が浮いている。そこから、最初の一行だけが覗いていた。
『無理して笑わなくていいよ。』
茉子は、視線をすぐに引っ込めた。見えてしまったのは一行だけ。だからこそ、胸に刺さる。針で縫われた布みたいに、静かに深く。自分の喉が鳴ったのが恥ずかしくて、茉子は咳払いをごまかすように肩をすくめた。空腹の音だと遼に気づかれたら、また変な冗談を言ってしまいそうだった。
遼は封を押さえ、机の上の小さな重りをそっと乗せた。封の口を戻すというより、「ここに置いておく」みたいな仕草だった。茉子は手を伸ばし、封の端が浮かないように、指先で紙をなでた。
その動作が、修復そのものに似ていると気づいて、茉子は喉の奥が熱くなった。布も、言葉も、ほつれたら直せる。けれど、勝手に切ってはいけない。
「……私、昨日、約束したよね。星の見える場所、探すって」
ぽつりと言うと、遼は笑った。声には出さないけれど、目尻がわずかに柔らかくなる。
「約束した。だから、見つける」
その返事だけで十分なのに、茉子はどうしても口が動いた。
「でもさ。星って、探すもの? 見上げたら、だいたいそこに……」
「見上げる余裕がある場所を探す」
遼の言葉が、思いがけず現実的で、茉子は鼻で笑った。涙が出そうだったのに、笑えてしまったのが悔しい。
遼は立ち上がり、窓へ向かった。カーテンの隙間から、冷えた夜の気配が漏れている。遼が窓を開けると、外の空気が一気に流れ込んだ。裁ち台の紙がふわりと揺れ、糸くずが小さな雪みたいに舞った。
「寒っ」
茉子が肩をすくめると、遼は窓を少しだけ閉めて、風の強さを調整した。まるで布の張り具合を確かめるみたいに。そういうところが、遼らしい。
窓の向こうで、車の音が遠ざかり、どこかの飲食店の呼び込みの声がかすれる。東京の夜はうるさいはずなのに、工房の中だけが静かだった。封の白が、作業灯の下で柔らかく光っている。
遼は窓辺に立ったまま、しばらく動かなかった。茉子も、封の上の重りを見つめたまま、言葉が出ない。誰も声を出さない時間が、数秒だけ伸びる。けれど、その沈黙は怖くなかった。布が呼吸しているみたいな沈黙だ。
茉子は封を小さな紙袋に入れ、袋の口を折って、糸で軽く留めた。余った糸を切るとき、いつもより丁寧に、刃を閉じた。
「……奥さま、ずるいよね。縫い目の中とか。見つかったら泣くに決まってる」
遼はようやく小さく息を吐き、ほんの少しだけ口角を上げた。
「ずるい。でも、縫い目の中なら、忘れない」
その一言で、茉子の胸の奥がほどけた。布をほどくときみたいに、ゆっくり、痛くない速度で。
ふたりは何も言わず、もう一度ドレスの袖へ戻った。針を通し、糸を引き、縫い目を整える。さっきまで重かった手が、少し軽い。
窓から入る夜風は冷たいのに、工房の空気だけが、ほんの少し温かい。茉子は縫いながら、覗いてしまった一行を思い出して、そっと心の中で返事をした。
無理して笑わない。だけど、笑える場所は探す。縫い目みたいに、ちゃんと続く場所を。




