第13話 許しの代わりに、約束
門の内側は、街の音が一枚薄くなったみたいに静かだった。茉子はインターホンの前で封筒を握り、指の腹で角を確かめる。
ピンポーン。
「はい」
低い声が返り、茉子は息を吐いて名乗った。
「神楽坂のゴールデンフラワーの茉子です。先日、奥さまのドレスをお預かりした件で……お願いがあって伺いました」
砂利を踏む音。門がきしみ、白いシャツの男性が現れた。袖口はきれいに折られ、指先に紙の埃がついている。
「森田です。……中で話しましょう」
怒られる準備をしていた茉子は、拍子抜けしてしまい、返事が半拍遅れた。
玄関の木の床が小さく鳴る。廊下の壁には、女性がミシンの前で笑っている写真が一枚だけ飾られていた。茉子は目を逸らさずに、写真の前で背筋を伸ばした。
応接の小さなテーブルに座ると、森田が湯のみを置いた。湯気が真っすぐ上がる。茉子は両手で湯のみを包み、口を開いた。
「私、審査会に出す服の線に……奥さまのドレスの袖の線を、学んでしまいました。許可を取らずに。説明文に『偶然ひらめいた』と書きかけて、でも、それが嘘だと気づいて……今日、許可をいただきたくて来ました」
言い終えた瞬間、喉の奥が熱くなった。謝りたいのに、言葉がもう出ない。茉子は頭を下げた。
森田はすぐに言葉を返さなかった。湯のみの縁を指でそっと回し、湯気が落ち着くのを待つ。沈黙が長いほど、心臓がうるさくなる。
「怒っていない、と言ったら嘘になります」
茉子の肩が跳ねる。
「でも、あなたが嘘のまま提出していたら――もっと嫌だったでしょうね」
森田は引き出しから、布に包まれた小さな冊子を取り出した。開くと、手書きらしい線が何枚も挟まっている。曲線は柔らかいのに、迷いがない。
森田は冊子を一枚だけ抜き、机にそっと置いた。紙の端が少し波打っている。何度も指で撫でられた跡だ。
「あなたが引いた線、見せてもらえますか」
茉子は鞄からメモ帳を出し、ページをめくった。紙が指に吸い付く。自分でも分かるほど手が震えて、鉛筆の先が紙に当たって小さく音を立てた。
スケッチの横には、縫い代のメモと、袖の動きの矢印。茉子は説明しながらも、無意識にメモを足してしまう。話すより、書いたほうが落ち着く。
森田は頷きも首振りもせず、ただ線の始まりと終わりを目で追った。
「……その角度。妻も、同じところで一度止まります」
その一言で、茉子の胸がぎゅっとなる。盗んだ、ではなく、確かに学んだのだと認められた気がした。
森田は立ち上がり、「こちらへ」と短く言った。廊下の奥の部屋を開けると、薄暗い中に衣装カバーが吊るされていた。防虫剤の匂いがほんの少し。布だけが息をしている。
カバーが外されると、ドレスが現れた。柔らかい色の生地に、胸元の小さな刺繍。金色の糸が、一輪の花みたいに静かに光る。
茉子は反射で手を伸ばしそうになり、慌てて両手を背中へ隠した。触れたいのに触れない。その距離の取り方が、今は礼儀だ。
森田は袖の内側を少しだけめくって見せた。問題のカーブ。そこだけは、縫い目が細い。
「妻はね。誰かが真似をすること自体は、嫌がりません。嫌がるのは、そこに嘘が乗ることです」
「妻は、着る人の身体が楽になる線を、何より大事にしていました。あなたがそこを見たなら……まあ、勝手に消えないでしょう」
茉子は唇を噛み、もう一度頭を下げた。
「ごめんなさい」
「許可は出します」
森田の言葉が落ちた瞬間、茉子は顔を上げてしまった。驚きが先に出る。
「ただし、条件があります」
条件。茉子の背筋が自然に伸びる。
「完成したら、星の見える場所で見せてください。妻の服は舞台で光るのが好きでした。けれど今日は、照明じゃなくて空の光で見たい」
森田は言いながら、窓のカーテンを少しだけ開けた。外はまだ明るいのに、遠くの街灯が先に灯っている。
「このあたりも、夜は白いんです。星が見えにくい。……だからこそ、見える場所を探してほしい」
窓の外に小さな庭が見えた。手入れされた木の影が伸び、葉の隙間に風が通る。
「妻はね、舞台が終わったあと、屋上へ上がって空を見る癖がありました。『今日の縫い目は、星に見られても恥ずかしくない』って。変な人でしょう」
森田の口元が、ほんの少しだけ上がった。笑いというより、思い出が触れた形だった。
東京で星、と茉子は一瞬だけ思った。けれど、その一瞬を飲み込み、頷いた。
「必ず。星が見える場所を探して、見せに来ます」
森田は、湯のみの向きを少しだけ揃えてから言った。
「それから、説明文で嘘をしないこと。学んだなら学んだと書きなさい。……嘘をつくなら最後まで、なんて言葉がありますが。私は、あなたに『最後まで正直でいろ』と言いたい」
茉子は、胸の奥の石がほどけていくのを感じた。涙が出そうで、出ない。代わりに声が少しだけ震える。
「ありがとうございます。私、ちゃんと書きます。線も、私の手で最後まで縫い直して、奥さまの線に甘えません」
森田は小さく頷き、冊子を布で包み直した。
「妻が喜ぶでしょう。あなた、神楽坂から来たと言いましたね。あの坂の石畳は、歩く人の癖が出る。……帰り道、転ばないように」
そう言って森田は、門の外まで送ってくれた。茉子が頭を下げると、森田は礼の代わりに門の鍵を軽く叩き、静かに閉めた。
外へ出ると、夕方の空気が少し湿っていた。茉子は深呼吸をし、肩から力が抜けるのを感じた。
門柱の影に、遼が立っていた。手には安そうなペットボトルが二本。ラベルがくしゃっとしているのに、中身は冷えている。
「……来てたんですか」
「来てないと、迷うと思って」
遼の指先に、細い紙が挟まっているのが見えた。レシートだ。四つ折りにして角を揃え、ポケットへ収める動作がやけに手慣れている。
「……特売、でした?」
茉子が聞くと、遼は否定も肯定もせずに、ボトルを軽く振った。
「冷えてるほうが勝ち」
答えになっているのか分からないのに、なぜか笑えてしまう。茉子は笑いながら、胸の痛みが少しずつ薄くなるのを感じた。
遼は一本を差し出し、もう一本を自分のポケットに入れた。茉子が受け取ると、ボトルの底に小さな付箋が貼ってある。
――『良い意味で、戻れる』。
茉子は笑ってしまった。笑ったら、涙が一滴だけ出た。
「許可、もらえました」
「条件も」
茉子が続けると、遼の眉がほんの少しだけ動いた。反応が小さいのに、聞いているのが分かる。
「星の見える場所で、完成品を見せてほしいって」
遼は前を向いたまま「了解」と短く言った。
「……探せますかね」
「三つ見えれば十分。数える練習、しとけ」
数字の言い方なのに、妙に優しかった。
遼は頷き、それ以上は聞かない。歩き出す速度だけが、茉子の歩幅に揃う。
駅までの坂道で、二人の靴音が同じ間隔で続いた。言葉は少ない。けれど、嘘を終わらせた帰り道は、天国でも地獄でもなく、ちゃんと地面がある。
茉子は手の中のボトルを握り直し、星の見える場所を探す約束を、胸の内側で結び直した。




