第12話 嘘をつくなら最後まで
七月のはじめ、神楽坂の路地は夕方になると、石畳が昼の熱を手放し始める。工房の二階、白い壁に貼った提出物の一覧の横に、茉子は新しい紙を一枚追加した。四角く切ったその紙には、太い字で「説明文」と書いてある。
説明文。たった数百字。けれど、布より怖い。針なら、間違えたら抜いて縫い直せる。言葉は、書いた瞬間に人の胸へ刺さる。
茉子は鉛筆を持ち、机に向かった。提出するのは、袖のラインが主役のシンプルなワンピース。布は朝の市場で掘り当てた端切れの中でも、肌に落ちる影がきれいな一枚だった。遼が選んだ「これなら買える」の布だ。
「どこまで書く?」と遼が帳簿を閉じる音がする。
「……ひらめきで、って書こうかなって」
茉子は言いながら、鉛筆の先で紙の端をこすった。紙が少し削れ、白い粉が指に付く。
「ひらめきって、なんだよ」
遼はそう言って、机の横に立った。いつものように感情を大きく揺らさない。けれど、目だけが、紙と茉子の指先を行ったり来たりしている。
「袖の……影を見て。偶然、線が浮かんで」
茉子は、声を軽くした。軽くすれば、嘘が薄くなる気がした。
芽吹が階段を上がってきて、紙を覗き込む。
「偶然って便利。私も偶然、リボンが増える」
「それは偶然じゃなくて、あなたの手が勝手に動いてるだけ」
遼が即座に返すと、芽吹は肩をすくめて笑った。
笑い声の隙間で、茉子の胸の奥がきゅっと縮んだ。偶然じゃない。あの線は、偶然じゃない。
古い洋館の管理人が持ち込んだ、亡き妻のドレス。裏側の手縫いの署名。ほつれた縫い目をほどいたとき、布が「やめて」と言った気がして、茉子は息を飲んだ。けれど、直した縫い目のカーブは、布が「ありがとう」と言うみたいに柔らかかった。
袖の内側にあった、あのカーブ。肩の動きを邪魔しない、でも姿勢をすっと伸ばす、手の記憶の線。茉子は、その線を目で盗んだ。盗んで、自分の紙に移した。
机の上に置いた鉛筆が、転がって止まる。遼がそれを拾い、茉子の手元へ戻した。動作が静かすぎて、かえって心臓の音が目立つ。
「説明文、写真と一緒に提出だよな」
遼は淡々と言った。
「はい」
「なら、読まれる。誰かが」
遼の指が、紙の「偶然」の文字の上で止まった。
そのとき、下から、階段のきしみと一緒に博宣の声が上がってきた。
「お、説明文できた?」
博宣はカメラバッグを肩に掛けたまま、机の上の紙をひょいと覗いた。覗き方が軽いのに、目だけが鋭い。写真を撮る目だ。
「“偶然、線が浮かんだ”……茉子ちゃん、それ、あのドレスの袖のカーブじゃない?」
博宣がさらりと言った瞬間、茉子の背中が固まった。椅子の背に肩甲骨が貼り付くみたいに動かない。芽吹まで口を閉じ、針を持つ手が止まる。
遼が、博宣へ視線を向けた。
「……気づいたのか」
「うん。ほら、この前、修復の途中を撮ったでしょ。袖の内側。あの曲線、印象に残ってた」
博宣は悪気がない顔で言う。悪気がないのが、いちばん刺さる。
茉子は、喉の奥が熱くなった。言葉が出ない。自分は、上手くなりたかっただけだ。誰かの手の記憶を、今の服に生かしたかっただけだ。けれど、それを「偶然」にしてしまったら、あのドレスの持ち主の人生ごと、薄くしてしまう気がする。
遼が、椅子の背に手を置いた。茉子の背中に触れない距離。けれど、逃げ道を塞がない距離。
「茉子」
名前だけ。呼ばれただけで、茉子は少し呼吸が戻った。
「嘘をつくなら、最後まで守るか。いま言うか」
遼の声は低く、揺れない。責めるのではなく、選択を差し出す声だった。
芽吹がぽつりと言う。
「守るって、袖を守るみたいな?」
「そういう冗談、今は要らない」
遼が言うと、芽吹は「はーい」と手を上げ、わざとらしく口を閉じた。けれど、その仕草が、茉子の肩の力を少しだけ抜いた。
茉子は、両手を膝の上で握った。指先に、布の感触が残っている。あのドレスの、ほどいた縫い目の抵抗。直した縫い目の柔らかさ。自分の針先が震えた夜。
嘘を守る。つまり、管理人の顔を思い出さないようにして、説明文を提出する。そうすれば、審査会の場では波風が立たない。遼の表も、提出物の一覧も、きれいに埋まる。
でも、あの人が「妻のドレス」と言ったときの声を、茉子は忘れられない。言葉の端が少しだけ欠けていた。泣くのを我慢するみたいに。
茉子は顔を上げた。
「……いま、言います」
自分の声が、自分の耳に届く。震えている。けれど、逃げていない。
「この線は、修復のドレスから学びました。袖の内側のカーブが、すごく……人の身体を大事にしてて。私も、そういう線を引きたいって思って」
茉子は言い切って、息を吐いた。言った瞬間、胸の中の石が少しだけ軽くなった。
博宣が「そっか」とだけ言い、カメラバッグの肩紐を直した。芽吹は針を置き、机の上の白い粉を指で払う。
遼が、紙の上の「偶然」を二本線で消した。消し方が、乱暴じゃない。丁寧だ。
「じゃあ、許可を取る」
遼は短く言った。
茉子は頷いた。頷きながら、喉の奥にまた熱が戻る。許可を取る。謝る。説明する。自分が学んだことを、ちゃんと返す。
「私が行きます」
茉子は立ち上がった。椅子が床を擦る音が、やけに大きい。
「一人で?」
遼が聞く。
「はい。最初にドレスを触ったのも、私です。許可を取るのも、私が」
茉子は、自分の言葉を逃がさないように、ゆっくり言った。素直に受け入れるのは得意だ。けれど、責任を抱えるのは、まだ慣れていない。だからこそ、今、抱える。
遼は一拍だけ黙ってから、机の端に置いてあった封筒を差し出した。中には名刺が一枚。あの洋館の管理人の連絡先。
「道、迷うなよ。神楽坂の坂は、下りの方が迷う」
「……迷いません。たぶん」
茉子が言うと、芽吹が笑った。
「“たぶん”が一番迷うやつ」
茉子は封筒を胸に当て、階段を下りた。外へ出ると、神楽坂の空はまだ明るい。夕焼けが、金色の看板の花を少しだけ派手に見せる。
工房の扉を閉める前、茉子は振り返った。二階の窓に、遼の影が見える。帳簿を開き直しているのか、こちらを見ているのかは分からない。ただ、窓の影が揺れないことだけが、妙に心強い。
茉子は歩き出した。名刺の住所は、都内の少し外れ。電車に乗り換え、洋館の最寄り駅からは坂を上る。汗が首筋を伝う。けれど、足は止まらない。
電車の窓に、自分の顔が薄く映った。帽子のつばの影で、目だけが妙に大きく見える。茉子は小さく唇を動かし、言う順番を頭の中で組み立てた。
「学んだ線を使いました。勝手に使いました。すみません。……違う」
謝るだけでは足りない。返す言葉が要る。妻のドレスが持っていた意味を、勝手に自分の手柄にしないための言葉。
次の駅で、七夕の笹飾りが改札の横に立っていた。短冊が揺れ、通り過ぎる人の肩にかすかに当たる。茉子は足を止めかけて、やめた。願いを書くなら、許可をもらったあとにする。願いは先に出すものじゃない、と今だけは思えた。
乗り換えの通路で、茉子は一度、財布を落としかけた。慌てて拾うと、背後から「大丈夫ですか」と声がする。振り向くと、スーツの女性が笑っていた。茉子は反射で頭を下げ、勢い余ってもう一回下げてしまう。自分でも可笑しくなり、頬が熱くなった。
緊張している。だから、身体が余計に動く。布を前にしたときのように、落ち着け。針を持つときの、あの呼吸。
ホームのベンチに座り、茉子は封筒を膝の上に置いた。封を開けなくても、名刺の角が手のひらに当たる。痛いほどの角じゃないのに、心臓の鼓動がそこへ集まってくる。
嘘を守るためじゃない。
嘘を終わらせるために。
茉子は、古い門の前で深呼吸をした。インターホンのボタンに指を伸ばし、押す。
電子音が一回。
そして、向こうから、ゆっくりとした足音が近づいてきた。




